S2第八十七章 東京の空
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
06:42――東京都知事臨時記者会見
俺はその場にいなかったが、後で老高が保存して送ってくれた動画でその様子を確認した。
講壇の背後に立つ藤堂誠一郎の背後には、日の丸と東京都旗がこれ以上ないほど整然と並んでいた。そして、彼の表情もまた同じように整っていた。そのあまりの整い方は、彼が昨夜一睡もしていないか、あるいは一時間にも満たない睡眠の後、残りの時間をすべて「鏡の前でカメラ向けの顔を作る」ことに費やしたのではないかと俺に思わせた。
彼は言った。
「本日(2026年XX月XX日)未明、午前三時から六時にかけて、東京港区および東京湾一帯で発生した大規模な異常事態に関し、本都としての公式見解を述べさせていただきます――」
それから彼は、用意された原稿を読み上げ始めた。
「今回の事態は、南西海域で急速に発達した低気圧により、東京湾内の大気圧が急激に変化したことに起因します。これに伴い海底地層に微細な変位が生じ、港区の既存工業施設との共振現象が発生。結果として港湾周辺における異常な海面変動、一時的な大気電磁干渉、および数件の音響異常事態が引き起こされました――」
彼は一度、言葉を止めた。
それが原稿上の句読点に従ったものなのか、それとも「海底地層の微細な変位」というフレーズを口にした際、自身の良心がわずかに痛んだせいなのか、俺には分からなかった。
彼は読み続ける。
「――現在、都としては上述の自然現象が完全に沈静化したことを確認しております。都民の生命および財産に被害はなく、東京湾関連施設の損傷も軽微であり、今後四十八時間以内に完全な正常復旧を見込んでおります。昨日の台風警報にご協力いただいた都民の皆様、ならびに迅速な協力体制を敷いていただいた自衛隊、海上保安庁、警視庁の皆様に深く感謝申し上げます」
彼は原稿を置き、ふっと視線を落としてから付け加えた。
「なお、昨夜港区海面で撮影された『大型海洋生物』を思わせる映像については、海洋生物学の専門家により、光の屈折が生んだ視覚的錯誤であることが確認されました。実在する生物体ではございませんので、都民の皆様におかれましては、どうぞご安心ください」
発言が終わると、会見は質疑応答へと移った。
最初の質問はこうだった。「知事、昨夜の映像ですが、光の屈折では説明がつかない『瞬き』が確認されています。あの映像の物体は、明らかに瞬きを――」
藤堂はマイクの横に手を置き、二秒の沈黙の後、こう告げた。
「次の質問を」
霊務局側の布告は、さらに徹底していた。彼らにはそもそも公的なメディア・ルートが存在しない。システム内部で「極秘」指定の通報を一本流しただけだ。その末尾には、小さな文字でこう記されていた。
【今回の事案により発生した信仰場の異常は排除済み。護国結界の安定度は91.4%まで回復。三日以内に正常圏内へ復帰の見込み。本局は、台湾側協力グループの尽力に対し、深い感謝の意を表する。】
桐島慎二が提出しなかった私的な日記を、俺が目にすることはなかった。だが後日、それを読んだという弥生が、そこに記された一節を教えてくれた。
――『あの台湾人が水の上を歩く姿は、地上を歩くそれと何ら変わりがなかった。そのことが私を安堵させたのか、あるいは更なる不安へと突き落としたのか。私には分からない。』
浅草・某二十四時間営業の拉麺店 07:08
店の名前は、後で意識的に忘れることにした。
店主はおよそ六十代、頭の半分が禿げ上がった男だった。油染みのついたエプロンを纏った彼は、俺たちのような得体の知れない集団が踏み込んできたことに対し、わずかコンマ五秒だけ躊躇を見せ、それからこう言った。
「……何名さん?」
「十一」高國城が答え、少し考えてから付け加えた。「それと、魔法瓶が二つだ」
店主は魔法瓶(の中にいる霊体)を見ても何も問い返さず、無愛想にメニューを差し出した。
俺たちは四人掛けのテーブルを三つ繋げ、店内の座席の半分以上を占拠した。エリス(Astrid)の髪にはまだ薄っすらと氷霜が残っていたが、彼女は気にする様子もなく、真剣な眼差しでメニューを研究し始めた。やがて、彼女は隣の弥生に尋ねた。
「……味噌と塩、どちらのスープがより清淡かしら?」
「塩ね」弥生が即答した。
エリスは塩ラーメンを注文した。
麺を食べない牛小琴は店主に白米を求めたが、単品での提供はないと断られた。彼女は一瞬沈黙した後、こう切り返した。
「……なら、コーンバターラーメンを一丁。白米は別料金でいいわ。それならあるでしょ?」
店主は、あると答えた。
葉綺安——馬三娘ではなく、彼女自身——は、席に着いてから一言も発さず、ただじっとメニューを見つめていた。結局、彼女が選んだのはチャーシュー豚骨の麺大盛りだった。
彼女がメニューを返した時、店員がその頭部を見て怪訝そうな顔をした。
「あ……あのお客さま、髪が……」
綺安が頭に手をやると、馬三娘が去り際に彼女の髪を勝手に結い上げていたことに気づいた。それは現代の女子高生がやるようなものではなく、いつの時代とも知れない、古風で、どこか艶やかな結い方だった。
彼女はその髪飾りを外し、髪をバサリと解いた。
「……何でもありません。ありがとう」
俺の隣では、林雨瞳がスマートフォンを見つめたまま、沈黙を守っていた。
俺は醤油ラーメンを注文し、麵が届くまでは何も考えないと自分に言い聞かせた。ただ、少し使い古されたテーブルの木目を凝視し、脳を空っぽにする。
正面には林曉葳が座っていた。彼女は今日、いつになく寡黙だった。俯いて麵を啜り、時折ふと思い出したように窓の外へ視線を投げる。窓の外は、すでに正式な「朝」を迎えていた。浅草仲見世のアーケードは朝光の中で閑散としており、観光客の姿はなく、数人の早起きな店主たちが開店の準備に追われているだけだ。
高國城と弥生は同じ側に座っていた。高國城は煮玉子をダブルでトッピングし、弥生はメニューをじっくりと眺めた末、かけそばを注文した。彼女は店員が去った後、一度だけ俺の方を盗み見て、何も言わずに視線を戻した。
希は一番端の席に座り、マチェットを椅子の脇に立てかけていた。今日は一言も発せず、ただ壁に背を預けている。その瞳に宿る静謐さは、牛小琴のものではなく、彼女自身のものだった。
テーブルの上にはアピスが鎮座し、目の前には店主がわざわざ用意してくれた小皿が置かれている。そこには彼が自ら所望した「ネギの切れ端」が載っていた。東京の匂いを味わっているのだという。誰も相手にしていなかった。
ワイスマンは、ここにはいない。
奴は医療チームの管理下に置かれた。霊務局の連中がどこかへ連れて行き、まずは霊能状態の安定化を図り、その後に正式な勾留手続きへ移行すると言っていた。接続が断たれた後の肉体には精密な評価が必要であり、確認すべき事柄が山積みだとも。
俺は「ああ、分かった」とだけ答え、そのままラーメンを食べに来た。
麵が運ばれてきた時、林雨瞳のスマートフォンが震えた。
彼女は一瞥し、何も言わずに端末を裏返してテーブルに置くと、食事を続けた。
「……何の知らせだ?」俺が訊く。
「松浦宏からよ」
「内容は?」
彼女は箸を止め、淡々と告げた。「ワイスマンが、逃げたそうよ」
俺は箸を止めたまま、ラーメンを見つめた。その「逃げた」という二文字が脳内を一周するのを待つ。
それから、一枚のチャーシューを掴み、口へと運んだ。
「……ふーん」
雨瞳が俺を凝視する。「……それだけ?」
「ああ」俺は言った。「麵、伸びるぞ」
彼女は三秒間俺の顔を伺っていたが、やがて諦めたように視線を落とし、食事を再開した。
テーブルの向こう側から高國城が身を乗り出してきた。「今、ワイスマンが逃げたって聞こえた気がするんですが?」
「ああ、逃げたらしいな」
「それって——」
「麵を食え」俺は奴を制した。「それは霊務局の仕事だ。俺は今、朝飯を食ってる」
高國城は俺と雨瞳の顔を交互に見比べた。雨瞳は平然と麵を啜っている。彼は今この瞬間、その件を議論する余地はないと判断したのか、大人しく自分の煮玉子に向き直った。
弥生は何もコメントせず、ずっと窓の外を見つめていた。その瞳は、何か別の事象を追っているようにも見えたが、俺は敢えて訊かなかった。
アピスがテーブルの上で二、三歩歩き、俺の方を向いた。何か高尚な教訓でも垂れる前のような、あのアピールがましい表情で口を開く。
「ジョウ、ワイスマンが逃走したとなれば——」
「アピス」俺は遮った。「そのネギ、もう食い終わったのか?」
彼は自分の小皿を見つめ、「……まだ半分残っている」と答えた。
「食い終わってから話せ」
彼は大人しく俯き、ネギを齧り始めた。
ワイスマンがいかにして逃げおおせたのか、後にいくつかの「バージョン」を耳にすることになった。だが、霊務局はそのどれも公式に認めようとはしなかった。だから、俺がそれを真実として語ることはできない。
奴がどうやって逃げ出したのか。聞いた話によれば、移送中の廊下で突如として「消失」したらしい。術式の痕跡も、転送の霊能残渣も一切なし。ただ歩きながら、そこからいなくなった。
同行していた霊務局の職員は、消失の直前、ワイスマンが首を巡らせて自分を一瞥し、こう告げたと報告している。
「——道案内、感謝しますよ」
次の瞬間、そこにはもう誰もいなかった。
その話を聞いた時、俺の手元にあった茶はまだ熱かった。一口啜り、俺は思った。
……まあ、いいさ。
あの状態で逃げ出せるってんなら、勝手にすればいい。また現れるつもりなら、その時に考えれば済む話だ。
港区臨時宿舎 帰路の航空券を手にする前
その数日間の記憶は、それまでの激動に比べればひどく断片的だ。大きな出来事の後に訪れる平穏な日々は、記憶に定着しにくい質感を帯びているのかもしれない。
一日目。霊務局の連中がやってきて、「境外協力者事後記録」なる書類を俺たちに書かせた。束になるほど分厚いその書類の中には、「作戦期間中に使用した術式の一覧および授權元」というページがあった。老高はそのページを何度もめくって眺めていたが、結局「書き方が分からん」と匙を投げ、ペンを俺に寄越した。
俺はその欄に『別紙参照』とだけ書き、別紙は添付しなかった。
書類を回収しに来た局員はそれを見て一瞬眉を動かしたが、何も言わなかった。
二日目。林雨瞳が宿舎のすべてのシーツを交換した。汚れていたわけではない。彼女曰く「シーツの折り目が正しくないから、気になって眠れない」のだそうだ。彼女はすべてを完璧に折り直すと、そのまま十一時間も眠り続けた。
葉綺安は新しいヘアゴムを買ってきた。馬三娘が去り際に、元のやつを持って行ってしまったらしい。どうやって取り返せばいいか、と彼女に尋ねられたが、誰も答えられなかった。馬三娘自身、今はもうここにいないのだから。
希は宿舎の中庭で、お気に入りの場所を見つけてただ座っていた。特別なことは何もしない。時折マチェットを取り出しては眺め、また収める。俺が何度か通りかかると、彼女は頷くこともあれば、何もしないこともあった。不機嫌なわけではない。ただ、彼女自身の世界に浸っているだけだ。
牛小琴の方は、すでに去っていた。だが去り際、彼女は希を通じて俺に伝言を残した。
『——もし次、これよりデカいのが現れるようなら、早めに言いなさい。本気の得物を持ってきてやるから』
希を通じて、俺は彼女に伝えた。「……ああ、分かった」と。
エリス(Astrid)は、体温が平熱に戻るまでに丸二日を要した。その間、彼女はずっと熱いコーヒーを啜り続けていた。デンマークのコーヒーの方が上質だ、などと不平を漏らしながらも、彼女は一杯、また一杯と喉に流し込み、飲んでは眠り、目覚めてはまた飲む。
赫瓦格の代償は外傷ではない。それは魂に刻まれた熱量の徹底的な収奪だった。彼女曰く、この術式を放った後の肉体は「補填モード」に入り、三日は眠り続けなければ何も手につかなくなるのだという。
彼女は東京で二日だけ眠り、こう吐き捨てた。「……無理ね。この街は騒がしすぎるわ」
三日目、桐島慎二が宿舎を訪れた。彼は藤堂知事から託されたという一通の封筒を携えていた。「台湾側協力グループへの謝礼」なのだという。
封筒の中身は、藤堂の直筆による感謝状だった。見事な筆跡だ。そして一枚の付箋が添えられていた。
『追伸。本府は公式記録において、貴殿らを「非公開協力単位」と定義した。関係者の個人情報は一切公開されないので、安堵されたい』
その後に、括弧書きで極めて小さな文字が踊っていた。
『(神代弥生嬢の七十二時間協力者としての身分は、自動的に延長された。有効期限は「必要とされるまで」。本件は本府が全権を持って保証し、霊務局および神楽機関の干渉を許さない)』
俺はその付箋を弥生に見せた。
彼女はその紙を受け取り、長い間、無言で見つめていた。やがてそれを丁寧に折り畳むと、読みかけの本に栞として挟み込み、再び読書に戻った。
その本は『夏目友人帳』の第四巻。以前彼女が読んでいた第三巻の続きだが、これだけは俺が宿舎近くの本屋で買い求めたものだった。
彼女はなぜそれを買ったのかとは訊かなかったし、俺も説明しなかった。その事象は、ただそこにあるだけの事実として過ぎ去っていった。
五日目の朝
俺は宿舎のテーブルに持ち物を広げ、整理を始めた。
荷物は多くない。着替え、いくつかの書類、指輪(これは嵌めたままだ)、そして鎌(例の特製ケースに収め、外見上は長いハードタイプのラゲッジタグに偽装してある)、そして山口から譲り受けたあの海図。
俺はその海図を手に取り、一瞥した。
大戦期の航路図だ。東シナ海と太平洋の境界線が手書きで記されている。紙はすでに脆く、数箇所がセロハンテープで不器用に応急処置されていた。山口が重要視していたであろう位置には小さな点が打たれ、傍らには旧字体の漢字が添えられている。撮影して林雨瞳に判読させると、それは「待」という一文字だった。
俺は海図を畳み、荷物の中に滑り込ませた。
雨瞳がドアの縁に寄りかかり、俺のパッキングを眺めていた。「……それ、持って帰るのね」
「ああ」
「なぜ?」
「……せっかく貰ったものを捨てるのは、寝覚めが悪いだろ」
彼女はそれ以上追及せず、俺が別の上着を取りに行けるよう、わずかに身を引いた。
宿舎の廊下では、高國城がすでにパッキングを終えていた。彼のスーツケースには、数年前に嘉義で買ったというステッカーが貼られたままだ。剥がし忘れて時間が経ちすぎた、今剥がせば糊が残るだろう、と彼は溢していた。林曉葳がアルコールを使えばいいと助言したが、彼は持っていないと答え、彼女がコンビニで買ってくると言えば、彼はもういいと断り、彼女は「じゃあなぜ訊いたのよ」と呆れていた。
アピスは各地で拾い集めた「戦利品」を小さな袋に詰め込んでいた。自動販売機の裏からこっそり回収してきた符文石も、その中にある。俺は奴が他に何を隠し持っているかは訊かないことにした。訊くべきではないと、すでに決めていたからだ。
葉綺安のスーツケースはすでに廊下に出されていた。彼女は傍らでスマートフォンを弄っていたが、その表情は到着した時よりもずっと穏やかだった。それは疲労ではなく、二つの全く異なる事象の間を全身全霊で「生き抜いた」者だけが持つ、形容しがたい沈殿。彼女は確かに彼女のままだが、以前の彼女とはもう、決定的に違う存在になっていた。
弥生の荷物は、誰よりも少なかった。
彼女はこの街の住人だ。この宿舎ではなく、東京のどこかに彼女の「居場所」がある。彼女の持ち物は、『夏目友人帳』と一着の上着、そして小さな布袋だけ。
彼女はその布袋を荷物の隣に置き、ベッドの縁に腰掛けて窓の外を眺めていた。
その朝、彼女は一言も発さなかった。だが俺は気づいていた。ベッドの上に置かれた彼女のスマートフォンの画面が、一通の未読通知を告げているのを。差出人は、二文字の漢字。俺は彼女に近づきすぎず、その名を確認することはしなかった。
ただ、その二文字を見た瞬間、彼女の眼差しがわずかに揺れた。
ほんの一瞬だ。直後、彼女は端末を裏返し、再び窓の外へと視線を戻した。
俺は何も訊かなかったが、その時の彼女の表情だけは脳裏に焼き付いていた。
帰路の航空券。七日目、午後。東京羽田から台北松山へ。十七時三十分、離陸。
俺は宿舎のベッドに腰掛け、スマートフォンの画面に表示された電子チケットを眺めていた。スクリーンショットを撮って保存し、パッキングリストを最後にもう一度だけ見直す。
パスポート、よし。現金、よし。指輪、嵌めてるからよし。鎌、よし。海図、よし。それから——ワイスマンが遺した、十四箇所の錨点の座標が記されたあの紙。
ポケットを探ると、それはまだそこにあった。極限まで小さく折り畳まれ、裏地の奥深くに潜んでいた。
少し考えたが、荷物の中には入れず、そのままポケットに戻した。
それから仰向けに寝転がり、天井を凝視する。ふと、林雨瞳が言っていたあの拉麵のことを思い出した。
彼女は、まともなラーメンが食べたいと言っていた。
俺たちは食べた。あの醤油ラーメン。正直なところ、悪くない味だった。透き通ったスープに、コシのある麺。チャーシューはじっくりと煮込まれ、微かな甘みを帯びていた。
食べ終えた時、彼女は「……悪くないわね」とだけ言った。
俺は「そうか。台湾に帰ったら、また次の店を探そう」と返した。
彼女は何も答えなかったが、最後の一滴までスープを飲み干していた。
天井を見つめたまま、そんなことを反芻する。それから、ゆっくりと瞳を閉じた。
外では、東京の午後が、何事もなかったかのように平凡に過ぎ去っていこうとしていた。
五日目の午後。弥生のスマートフォンの画面に浮かんでいたあの「二文字」。俺は結局、六日目になってから彼女にその正体を尋ねた。
彼女は長い、あまりにも長い沈黙の末、こう答えた。
「……姉です」
「……何て言ってきたんだ?」
弥生はスマートフォンを取り出し、そのメッセージを一度だけなぞるように見つめた。
「……『妹よ、無事か。誰かが、お前が大きな戦いに行ったと言っていた』。そう、書いてありました」
「……で、何て返したんだ?」
「……まだ、返していません」
彼女はそれ以上語ることを拒むように端末を置き、『夏目友人帳』を手に取った。栞を挟んでいたページを開き、物語の続きへと沈み込んでいく。
俺は追及しなかった。だが、その時の彼女の瞳に宿った、言いようのない色だけは覚えておいた。
希は列の端を歩いていた。マチェットは預け入れ手荷物として処理し、身の回りのものは小さなバッグ一つだけだ。保安検査で呼び止められ開錠を求められたが、中から出てきたのは三つの石ころだった。彼女が「祖母から持たされたものだ」と告げると、検査員は念入りに裏返し、問題なしとして彼女を通した。
弥生は、最後尾を歩いていた。
彼女に預け入れ荷物はない。例の小布包一つだけだ。検査を最も早く終えた彼女は、待合エリアの窓際に立ち、駐機場の景色を眺めていた。
俺は二冊のパスポートを手に、彼女の元へ歩み寄った。彼女のパスポートは会議終了後、霊務局によって「一時保管」されていたものだ。三日前、桐島慎二が俺に返却した際、「代わりに渡しておいてくれ」と言い残していった。俺は承諾したが、渡すのに相応しいタイミングをずっと測りかねていたのだ。
今が、その時だろう。
俺は彼女の隣に立ち、ポケットからその一冊を取り出して、彼女の目の前に差し出した。
「今日からは」俺は言った。「自分で保管しろ」
弥生は視線を落とし、そのパスポートを見つめた。すぐには手を出さず、二秒ほどの空白を置いてから、それを静かに受け取り、布袋へと収めた。
彼女は何も言わなかった。だが、その指先が僅かに強まったのを俺は見逃さなかった。それは感情の昂ぶりではなく、自分が手にしたものが「現実」であることを確かめるための、ささやかな抵抗のように見えた。
俺が、背を向けようとしたその時だった。
——後頭部に、一撃を喰らった。
軽くはない。的確に脳を揺らす、重い一撃。自分の後頭部の位置をミリ単位で把握されていなければ不可能な、あまりにも精密な平手打ちだ。
俺は、首を巡らせた。
逆光の中に、弥生よりも頭一つ分高い影が立っていた。
高い。ただ背が高いだけではない——その場に踏み込んだ瞬間、空間の重心が強制的にその人物へと偏ってしまうような、圧倒的な存在感。スーツケースを引く片手、もう一方はすでにポケットに突っ込まれている。高価な仕立てのコートを羽織っているが、彼女が纏うと、その価格設定がひどく場違いに思えるほどの野性味があった。
彼女は、俺を見下ろした。
「クソガキ」彼女は吐き捨てた。その三文字には、『私にわざわざ足を運ばせやがって』という不快感が限界まで圧縮されていた。「……まだ落とし前もつけてねえってのに、逃げるつもりか?」
俺は彼女を凝視し、ある確信を得た。この人物が弥生と同じ血を引いていることは、体格が物語るのではない。その瞳が証明している。神代の瞳だ。弥生のそれが「静水」であるなら、この瞳はすべてを呑み込む「寄せ波」そのものだった。
やがて彼女は俺から視線を外し、弥生の方を向いた。
弥生を見つめるその表情から、先ほどの刺々しさが消えた。不遜な態度は鳴りを潜め、代わりに別の何かが浮かび上がる——柔らかくなったわけではない。長い旅路の果てにようやく目的地へ辿り着き、溜め込んでいた息を静かに吐き出すような、そんな安堵。
「家と大喧嘩してね」彼女の声が、少しだけ低くなった。「ジジイの壺を叩き割ってやった。……結果、勘当だよ」
彼女は言葉を切り、こう続けた。
「そういうわけだ。——私は今、帰る場所がない」
待合エリアでは、コーヒーを手にした高國城が通りかかり、その場に立ち尽くしていた。彼は周囲を見渡し、隣の林曉葳に囁いた。
「……誰だ、あの人は?」
「知らないわ。でも、今しがた周士達を殴り飛ばしたわね」
「……へえ」
高國城は納得したように頷き、再びコーヒーを啜り始めた。
弥生は姉を凝視し、長い、あまりにも長い沈黙に身を委ねた。
その間、待合エリアのスピーカーからは別の便の搭乗案内が二度流れ、遠くの方でアピスが何に驚いたのか突拍子もない声を上げ、壁際でコーヒーを啜るエリス(Astrid)はこちらを見ようともしなかったが、その耳は明らかにこの場に向けられていた。
やがて、弥生が口を開く。
「……あの壺を、割るなんて」
それは問いではなかった。
神代琉璃は妹を見つめ、何も答えなかった。ただ、口角がわずかに動く。それを「微笑」と呼んでいいものか、俺には判断がつかなかったが、その微かな挙動は、彼女の表情を強張らせていた鋭い稜線を一段階だけ和らげたように見えた。
俺はこの二人を視界の端に収めながら、両手をポケットに突っ込んで二、三歩脇へと移動した。
彼女たちの間に流れる空気の中に、俺の居場所はない。これは俺が口を挟んでいい問題ではないのだ。
そして、無機質なアナウンスが空港の喧騒を切り裂いた。
『——台北松山行き、日本航空二一七便。搭乗を開始いたします。』
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




