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S2第八十六章 顕現(げんげん)

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

T-0h+04:23 靖国神社・第一鳥居前

俺は靖国神社の第一鳥居の外に立ち、南の空を仰いでいた。

松浦宏の報告は、霊能数値の急速な上昇を告げていた。場所は東京湾南口。たった今、海から「出た」のだと。

その言葉は耳に届いていたが、俺は今の自分を動かすことができなかった。視覚システムが捉えている「それ」を、脳が情報として処理し終えるのを待つしかなかったのだ。

南の空が、おかしい。

望遠鏡を持ち出せば済むような話ではない。三秒も凝視すれば、己の視神経が故障したのではないかと疑いたくなるような違和感。午前四時の深い藍色を帯びた空の色自体は正しい。だが、その色の中に「何か」が蠢いている。雲ではない、霧でもない。背景であるはずの空そのものを押し退けるほどに巨大な「何か」が、横浜を越え、東京湾の北側へと圧し掛かってくる。

俺は現実感を繋ぎ止めるために、靖国神社本殿へと続く石道の灯籠を数えた。

一、二、三、四、五、六。

六基。二度数えた。

それから携帯を手に取り、山口へと回線を繋いだ。

先ほど山口は、利維坦(リヴァイアサン)が海から這い上がってきたと言った。

だが、俺が電話口で真っ先に問いかけたのは「どうすればいい」でも「そっちの状況はどうだ」でもなかった。

「……どれほどの大きさだ?」

山口は二秒の沈黙の後、重々しく答えた。

「東京湾を、端から端まで埋め尽くすほどだ」

俺はバイクを飛ばし、港区へと引き返した。

路上に人影はなく、街灯だけが虚しく灯っている。セブンイレブンの看板が夜風に吹かれ、不協和音のような金属音を立てて揺れていた。エンジンの轟音だけが静まり返った街に響き渡り、まるで観客のいない巨大な舞台の上を走っているような錯覚に陥る。

スロットルを限界まで回す。

港区の埠頭に辿り着く頃、空は微かに白み始めていた。だがそれは太陽の光ではない。南の海上から反射してくる、淡いブルーを帯びた不気味な白光だ。夜明けの色彩とは、決定的に何かが違っていた。

バイクを降り、海へと視線を向ける。

その瞬間、俺は山口が言った「東京湾を埋め尽くす」という言葉の真意を理解した。

利維坦(リヴァイアサン)

『ヨブ記』第四十一章、旧約聖書の注釈、そして数十通もの霊能学の文献。その名は至る所に現れ、今回の任務に備える上で俺はそれを「警戒すべき指標」として、あるいは「最悪の事態を示す記号」として扱ってきた。

だが、どの文献も教えてはくれなかった。

こいつが、これほどの「サイズ」だなんてことは。

そいつの背嶺(はいれい)は、湾の南口から北側まで一直線に伸びていた。それは連続した一本の線ではなく、節ごとに分かれた小丘の連なりのように見える。その一つ一つが海面から突き出し、緩慢に、そして確実に起伏を繰り返している。押し退けられた海水が防波堤を叩く音が、規則正しく、巨大な「心拍」のように響き渡る。

俺は護欄に手をかけ、そいつの端から端までを目で追おうとした。

だが、それは不可能だった。

大きすぎて視界に収まらないのではない。視線を動かすたびに、その輪郭が絶えず変貌し続けているのだ。移動しているのではない。形そのものが不確定なのだ。海面から突き出した節は、ある時は六つ、ある時は九つに見えた。八つ目を数え終える頃には、最初の一つが消え、別の場所から十個目が不気味に首をもたげる。

数えるのを、諦めた。

俺は視線を落とし、足元の海面を見た。

岸辺の潮が引いている。潮汐ではない。奴の体積によって、物理的に海水が押し出されたのだ。水位は一メートルほど低下し、剥き出しになった防波堤の岩肌や藻類が、陽光を知らぬ深海の古びた臭気を放っている。

いつの間にか隣に立っていた林雨瞳(リン・ユートン)が、何も言わずに前方を見つめていた。

やがて、彼女が小さく呟く。

「……あいつの、『目』」

俺は彼女の視線を追った。北側に位置する起伏のない、不自然なまでに静止した部位。そこには直径五百メートルはあろうかという円形の構造が存在していた。深紅の光を湛え、瞬き一つせず、ただそこに在る。

「……見てるわ」雨瞳が言う。「ずっと、こっちを見てる」

俺は答えなかった。それは、最も認めたくない事実だったからだ。


T-0h+04:35 東京湾南口付近・水面

その時、埠頭にはすでにエリスと(シキ)、そして弥生(ヤよい)が合流していた。後方では老高(ラオガオ)林暁葳(リン・シャオウェイ)が兵站と通信の確保に奔走している。

エリス(Astrid)は俺の右斜め後ろに立ち、腕を組んだままその光景を凝視していた。彼女の金髪が海風に激しくなびくが、それを直そうともせず、ただ瞳だけを一点に固定している。

(シキ)は護欄の上に腰掛け、片足を外へ投げ出していた。膝の上には無造作にマチェットが置かれている。その佇まいは、自分が世界のどこに位置すべきかを完全に理解している、極めて沈着な鳥を彷彿とさせた。

一番後ろに控える弥生(ヤよい)の顔色は蒼白だったが、その瞳には明晰な意志が宿っている。合わせた両手からは、消えかけの灯芯のような金色の残光が微かに漏れ出していた。

その時、松浦宏のデバイスが悲鳴を上げた。

『南口、水面より霊能体の上昇を確認! 利維坦(リヴァイアサン)ではありません——人型です!』

俺は反射的にその方向へ視線を飛ばした。

ワイスマンが、水面を歩いてくる。

「海中から這い上がってきた」のではない。「水の上を歩いてきた」のだ。足元には船も、いかなる足場もない。奴はただ東京湾の海原を北へと歩んでいた。その一歩一歩は極めて緩慢で、それでいて確信に満ちている。まるで何度も通い慣れた散歩道を辿るかのように。

奴の正装は濡れていなかった。

あるいは、もはや正装などどうでもよかった。奴が何を纏っているかを認識するには、相当な集中力を要したからだ。それよりも先に、奴の存在そのものが俺たちの注意力を強引に奪っていく。その輪郭、その境界線が——希薄なのだ。透明ではない。そこに「在る」ことと「不在」であることの狭間に位置するような、狂った存在感。

奴は俺たちから二十メートルほどの距離で足を止めた。

奴が静止した瞬間、背後のリヴァイアサンもその起伏をぴたりと止めた。

訪れた五秒間の沈黙。その間に、埠頭の気温は二度低下した。それは比喩ではない。空気中の熱量が何者かによって物理的に吸い取られたことを、俺の肌が明確に感知していた。巨大な磁石が砂鉄の山に近づけられたかのような、温度計では測りきれない異質な「引力」。

ワイスマンの瞳は、白一色に変色していた。

盲目ではない。何かに「満たされた」白だ。その充填された何かが、瞳孔から外側へ向けて、極めて淡く、不可視に近い光を放っている。

奴は俺を見つめ、口を開いた。

「……十四箇所、清掃しましたね」

「ああ」

「四時間十七分。私の予測よりも四十一分早い」奴は間を置き、こう続けた。「……日誌に、記しておきましたよ」

その時、俺は奴の「状態」を真に理解した。

奴の背後で、リヴァイアサンの深紅の眼球がじっと奴を見守っている。俺たちではなく、ワイスマンを。そこには目には見えないが、肌で感じる「何か」が奴とあの巨大な瞳を繋いでいた。一本の糸か、あるいは信号か。

いや——巨大な電源に直結され、その膨大なエネルギーを肉体という導線に流し込んでいる「端子」だ。

奴がリヴァイアサンを操っているのではない。

リヴァイアサンが、奴を通じて語っているのだ。

三秒の思考の後、俺はエリスに告げた。

「あいつ、あの化け物と直結してやがる」

エリスは答える。

「分かっているわ。奴がここに一歩踏み出した瞬間から、見て取れた」

「あんたのあのスキル、今使えるか?」

彼女は即答しなかった。ただ前方を見据えたまま、静かに言葉を紡ぐ。

「……ええ。けれど、四分間の準備(チャージ)が必要よ。それに——」

彼女の声が、冷たく響く。

「——奴を叩いても、意味はないわ」

「……何だと?」

「あの接続コネクトは、利維坦(リヴァイアサン)の一部よ」彼女は告げた。「奴を叩くことはリヴァイアサンの末梢を叩くのと同じ。本体は痛みすら感じないわ」

俺は短く頷いた。

そしてワイスマンに向き直り、声を張り上げた。

「——次は何を仕掛けるつもりだ?」

「君に見せたいものがあってね」

奴はそう言うと、一歩後退した。両腕を天へと高く掲げる。それは——極めて古風で、儀式的な所作だった。かつて霊能学の文献で目にした古代の図像そのもの。まさかそれを、この現代に、この目で拝むことになるとは思わなかった。

直後、リヴァイアサンのあの深紅の眼球が、旋回を始めた。

己の端末であるワイスマンから離れ、その視線は——東京都心へと向けられる。


T-0h+04:38 空母・翔鶴(しょうかく) 艦橋

リヴァイアサンの「眼」が旋回を開始したという報告を受け、山口多聞(ヤマグチ・タモン)はこの事変において最も長い言葉を口にした。

「翔鶴、瑞鶴、全機発艦。目標、リヴァイアサン背嶺。第三節から第七節に集中爆撃を敢行せよ。陸奧(ムツ)、主砲仰角最大。岳飛(ガク・ヒ)の旗を触媒とした加成砲弾を装填。あの眼を狙え。――叩き続けろ、一瞬たりとも休ませるな」

通信官が復唱を終えるのと同時に、翔鶴の飛行甲板が激しく震動した。

零戦三十四機、さらに艦上爆撃機彗星(スイセイ)艦上攻撃機天山(テンザン)。翔鶴と瑞鶴を合わせて九十機を超える大編隊が、一斉に蒼穹へと舞い上がる。

その光景は、俺の記憶に永遠に刻まれることだろう。

黎明前の空。最も深く、色を変える直前の藍色。そこへ、東京湾北側に陣取る二隻の空母から次々と機体が吸い上げられていく。それらは一列の編隊を組み、南に横たわるあの巨大な起伏へと向かって飛翔していった。

埠頭に立ち、俺はその行方を見送った。

航空機の発艦が、これほどまでに胸を締め付けるものだとは知らなかった。

それは壮観だからではない。俺は知っているのだ、あの機体たちが何であるかを。一機一機の中に宿る、かつて遠い時代にコクピットへ這い上がった者たちの意志の残響。彼らは今がいつなのかを知らない。ただ命令があり、目標があり、飛び立つ理由があることだけを理解している。

その「理由」が、二〇二六年の東京湾を今も飛んでいるのだ。

彗星が急降下態勢に入る、あの独特の風切音が届き始めた。エンジンの回転数が変わり、二十世紀の戦場を彷彿とさせる悲鳴のような咆哮。そして、第一波の爆弾がリヴァイアサンの背に突き刺さった。

だが、それは「爆発」とは呼ばない現象だった。

爆弾はリヴァイアサンの背嶺に、刹那的な陥没(ヘコミ)を穿つのみ。衝撃の瞬間に深く沈み込み、二秒後に激しく反発する。水面に石を投じたような、だがその反動として放たれたのは、周囲に立つことさえ拒絶するほどの霊能衝撃波だった。

翔鶴の精鋭たちはその理を熟知していた。衝撃波が反転する前に、すでに機首を翻し高度を上げている。

続いて、陸奧の主砲が「眼」を捉えた。

初弾は眼球の外縁を削り、リヴァイアサンは無反応を貫く。

だが二弾目——それが眼の中心を貫いた。

リヴァイアサンの眼が、〇・三秒だけ「瞬き」をした。

松浦宏が中継する通信機から、山口の太い声が響く。

『——効いているぞ。続けろ!』


T-0h+04:51 港区埠頭

エリス(Astrid)の準備には、四分十七秒を要した。

正確な時間を知っているのは、俺がずっと腕時計の秒針を睨んでいたからだ。

その間、彼女は七歩後退し、埠頭の石畳の上に佇んでいた。その姿を見て、俺は「準備」という言葉の定義を間違えていたことに気づかされた。

呪文も、符文も、視認できる儀式など何一つない。

彼女はただそこに立ち、極めて緩やかに呼吸を整え、両腕を左右へと広げていく。ただ、それだけだ。

だが、その過程で彼女の体温が劇的に降下し始めた。

比喩ではない。二歩離れた場所にいる俺の肌が、その変化を戦慄と共に感じ取っていた。彼女が準備を開始した瞬間から、周囲の空気が凍りついていく。一度、三度、そして——もはやこれ以上は近づけないというレベルまで。

林雨瞳(リン・ユートン)が俺の腕に手を添え、半歩後ろへと引き寄せた。

俺は抗うことなく、その導きに従って後退する。

四分が経過した頃、エリス(Astrid)の髪に薄い氷霜が結び始めた。それは白ではなく、半透明の硬質な輝き。ようやく差し込み始めた黎明の光を浴びて、淡いブルーの破片を散らしている。その蒼い凍結は彼女の肩へ、腕へ、そして指先へと侵食していった。

彼女は、静かに瞳を閉じている。

そして、四分十七秒。

彼女はカッと目を見開き、二つの言葉を紡いだ。

デンマーク語だ。俺には理解できなかったが、後に彼女はこう教えてくれた。その言葉の意味は——。

「——審判(ドゥーム)。」

極光の処刑者・赫瓦格(フルヴェルゲルミル)

それは、観光客がカメラに収めるような甘っちょろい「北極光(オーロラ)」ではない。かつてバイキングの船乗りたちが、極北の海で死と隣り合わせに見た、原初の「何か」。幾百年の氷と闇に磨き上げられた、絶対的な秩序の具現。

そいつが、エリスの背後から「展開」された。

光のカーテンでも、光柱でもない。表現しようのない「法」の顕現。緑と白が混ざり合い、ブルーの鋭利な刃を伴った構造体が背後の空を埋め尽くす。そこにあるのは、何が死すべきかを冷徹に判別する、最果ての地の「裁き」だ。

その凍てつく刃が、利維坦(リヴァイアサン)へと向けて延伸していく。

それが奴の最初の脊嶺に触れた瞬間、俺の耳に「音」が届いた。

表現するのは難しいが——あえて言うなら、あまりにも巨大な存在が、生まれて初めて「冷たさ」を自覚したような、そんな悲鳴。

単なる温度の低さではない。万物を停止させる「冷」の本質。世界の終焉で待ち受ける、究極の「凍結」。

リヴァイアサンの三つの脊嶺が、赫瓦格と接触した位置でその起伏を止めた。

傷ついたわけでも、死んだわけでもない。ただ、「自分が何をすべきか」を一時的に忘却させられたのだ。

エリスの足が埠頭の石畳に数ミリ沈み込む。展開の代價を、彼女の肉体が受け止めていた。

俺が歩み寄ろうとすると、一足早く雨瞳が遮った。「近寄らないで。彼女には場の安定が必要よ」

俺は足を止める。

エリスの口角から一筋の血が伝ったが、彼女はそれを拭うこともせず、ただその峻厳な姿勢を維持し続けていた。


T-0h+04:55

俺は雨瞳に向き直った。「……あいつの(コア)は見えるか?」

彼女は即答せず、副指輪(レプリカ)をゆっくりと回した。その瞬間、彼女の瞳の「色」が変わった。

彼女の瞳が万物の真実を見抜くことは知っている。だが、これまでの対象はあくまで「理解の及ぶ範囲」のものだった。封印の構造、術式の流れ、個人の霊能状態。

だが、今回の相手はリヴァイアサンだ。そのあまりの質量に、「見抜く」という言葉すらどこか場違いに聞こえる。

彼女は三十秒ほど前方を見据え、やがて静かに口を開いた。

「……見えたわ」

「どこだ?」

「第四の脊嶺、その下方。海面下約四百メートルに、特異な構造がある」彼女の声は、驚くほど冷静だった。「心臓でも魂でもない。この世界と奴を繋ぎ止める『接点』。ワイスマンが仕込んだものよ。それが、あの大質量をこの次元に維持させている」

「その接点を叩けば……」

「死ぬわけではないわ。けれど、この次元に形を留めることができなくなる。奴は退くしかない。本来いた場所へね」

「……やれるか?」

彼女がこちらを振り向く。

「私が座標(ポイント)を言うわ。——あんたが、叩きなさい」

俺は彼女を見つめ、それから自らの指にある死神の指輪(デス・リング)へと視線を落とした。

死神の(デスサイズ)が、その完全な姿を現し、黒い輝きを放ち始める。

フルサイズ。

その鎌が俺の右手に完全に顕現した瞬間、周囲の空気がわずかに「後退」するのを感じた。鎌そのものの存在が、周囲のあらゆる事象に原始的な本能レベルの忌避感を引き起こさせているのだ。

水面に佇むワイスマンが、その白い瞳をこちらへ向け、淡々と告げる。

(ジョウ)さん。その接点は表面にはありませんよ」

「分かってるさ」俺は応える。「四百メートル下だ」

奴は三秒の沈黙の後、予想だにしない言葉を漏らした。

「……面白い」


T-0h+05:02

問題は、その接点が海面下四百メートルにあるということだ。

俺は潜れない。その深度は俺の能力の範疇を超えている。指輪の加護があったとしても、水深四百メートルの極限状態で、わずか三十センチにも満たない標的を正確に穿つ攻撃姿勢を維持することなど不可能だ。

俺は(シキ)の方を見た。

正確には、護欄に腰掛け、今のやり取りを静かに聞いていた牛小琴(ニウ・シャオチン)だ。彼女は希の肉体を共有しながらも、より古く、より重く、より直截的な意志を持っている。

「あんたのその『叉』」俺は問う。「水中まで届くか?」

牛小琴は、その八丈鉄叉を視線で撫でた。霊能状態におけるそれは、文字通り八丈——約二十六メートルもの長さを有するが、その射程は「延伸」が可能だ。台湾の地底湖で、自身の四十倍はあろうかという巨躯を貫いたあの威力を、俺は知っている。

「水中へ届くか否かは問題ではないわ」彼女は静かに言った。「問題は、正確に射抜けるかよ」

彼女は言葉を切り、こう付け加えた。

「海中での私の命中精度を知っているかしら?」

「……知らないな。教えてくれ」

「試したことがないの」彼女の平然とした物言いに、俺は一瞬言葉を失った。「——けれど、やり方はあるわ」

彼女は護欄からしなやかに飛び降り、埠頭の石畳に降り立った。その場に屈み込み、地面に掌を当て、しばし瞳を閉じる。

やがて立ち上がると、彼女は告げた。

林雨瞳(リン・ユートン)。その座標を術式でマーキングして。水面に印を打ちなさい。私に見えるように」

雨瞳が俺を一瞥し、俺が頷くのを確認すると、彼女は指輪を掲げた。紫色の光が弾け、海面に鮮烈なマーキングが刻まれる。それは利維坦(リヴァイアサン)の第四の脊嶺を正確に指し示していた。

牛小琴はその印を見据え、五歩後退して鉄叉を垂直に構えた。

重力シールドが彼女の足元に展開され、下半身を地面へと固定する。反動に耐えうる不動の基盤。

そして彼女は、鉄叉を大きく後方へと逸らし——。

投擲。

その挙動の速さに、俺は思わず瞬きをした。わずか〇・三秒。目を開けた時には、鉄叉はすでに海面を突き破り、深淵へと消えていた。

「どれくらいだ?」俺は彼女に問う。

「……あの接点に到達するまで」彼女は海面を凝視したまま答える。「あと——」

海面が、震えた。

「今よ」

それは爆発ではない。もっと深層から響く、重く鈍い震動だ。埠頭の石畳が激しく身震いし、雨瞳がよろめいて半歩下がる。エリスも瞬時にスタンスを調整し、衝撃に備えた。

リヴァイアサンの第四の脊嶺が、その拍動を止めた。

続いて第五、第六と、南から北へ向けて、ドミノ倒しのように一節ずつ沈黙していく。

だが、消えない。

「……接点は破壊したわ」雨瞳が凝視したまま告げる。「けれど、すぐには退かない。奴は——抗っている」

「どれくらいの時間がかかる?」

「分からない。けれどワイスマンには、それを引き延ばす手段があるわ。……彼が奴と繋がっている限り」

俺はワイスマンの方向を見据えた。

奴は依然として水面に立っていたが、その姿は変貌していた。両腕を左右に広げ、リヴァイアサンと対峙するように構えている。奴と巨大な眼を繋ぐ「線」は、もはや不可視ではない。背中から、指先から、肩から、無数の霊的な導線がリヴァイアサンの巨躯へと伸びている。

奴は自らの肉体を「緩衝器バッファー」として差し出しているのだ。

己の意志力を注ぎ込み、リヴァイアサンの崩壊を押し留めるために。


T-0h+05:09

雨瞳が俺を見ている。

そして俺は、ただ一点——ワイスマンを見据えていた。

事態的終著點就在這裡。俺は三秒の間にすべてを理解した——利維坦(リヴァイアサン)の接点は破壊されたが、ワイスマンがその退去を遅延させている。奴が接続(コネクト)を維持する限り、リヴァイアサンはこの次元に留まり続け、その間に接点は自己修復を遂げるだろう。そうなれば、すべては振り出しだ。俺たちが潰した十四のノードなど、奴はいくらでも再構築してみせる。

ゆえに、問題はただ一つ。ワイスマン、あんただけだ。

俺は埠頭の端へと歩み寄り、その最外縁に立った。

眼下には水面、その下には東京湾。そして距離にして二十五メートルほど先には、己の意志力だけで巨大な亡霊を繋ぎ止めている亡霊工程学の権威が立っている。

俺は(デスサイズ)を再び解放した。

フルサイズ、完全形態。

そして、俺はこれまでの人生で一度も試したことのない行動に出た。

跳躍。

海中へ飛び込んだのではない。俺は「水面」へと跳んだのだ。(シキ)——いや牛小琴(ニウ・シャオチン)が海面を蹴るのと同じように。だが俺には重力シールドはない。代わりに、別の「力」を足場にする。

死神の指輪は死に対して「干渉権」を持つ。それは靖国神社で証明済みだ。その干渉の範疇は単なる「死者の魂」に留まらない。「死の状態」そのものをも包括する。そして——「完全には生きていないモノ」もまた、その理の内側にある。

ワイスマンの状態は、半死(セミ・デッド)だ。

俺の指輪は、その性質を「既知」として認識している。

俺は奴の存在が構成する「(フィールド)」を足場にして、海面を一歩踏み出した。

足裏が水面を捉える。沈まない。

それは堅固な大地を踏みしめる感触ではなく、極めて粘度の高い流體——あるいは、重さを受け止めてはくれるがその正体を深く思考したくはない「何か」の上を歩いている感覚だった。

俺は前へと進む。

ワイスマンは近づく俺をただ見つめ、微動だにしなかった。

三歩の距離で、俺は足を止めた。

奴の白い瞳が俺を射抜く。俺が近づくにつれ、奴とリヴァイアサンを繋ぐ「線」が防衛本能のように微かに収縮したが、奴自身に抗う気配はない。

(ジョウ)さん」

奴の声は、もはや純粋な人間のそれとは異質だった。いくつかの周波数が重なり合い、一つは奴自身の、残りは名もなき「何か」の響き。それらは言葉を紡ぐことはなく、ただ奴の声に追従して不気味に震動している。

「……何をするつもりですか?」

「断ち切るのさ」俺は言った。「その接続を」

「切り方は分かっている……。質問ではなく、確信としての言葉ですね」

「ああ」

奴は背後に伸びる無数の線を見下ろし、それから天を仰いだ。

「これを断てば、私の肉体が……維持できなくなる可能性については、理解していますね?」

「分かってる。あんた自身はどうなんだ?」

奴は三秒ほど沈黙した。

その三秒の間、俺は鎌を低く構え、その刃を「線」へと向けた。指輪を通じて、その構造を読み取る。

国王位階(キング・レプリカ)」。死に関する術式への絶対的干渉権。

この線の正体は何だ——それはワイスマンが自らの「半死状態」を糸として紡ぎ上げたものだ。己の意志力と、東京湾の海上で費やした膨大な時間。それは奴がこの世界に遺す最後の「大仕事」であり、三十八年の研究を注ぎ込んだ結実。

「……三十八年、研究してきたんだな」

「ええ」奴は答える。

「これが、あんたの本当にやりたかったことか?」

「そうです」奴の声に迷いはなかった。「あるいは……これ以外に何をすべきか、もう思い出せないだけかもしれませんがね」

その言葉に、俺の鎌を振るう手がコンマ五秒だけ止まった。

俺は奴を見つめた。その正裝、整えられた髪、血気の失せた蒼白な横顔。そして、白光に満ちた瞳。

「……分かった」

俺は鎌を突き出した。

刃が線に触れた瞬間、その術式は——鎌を「認識」した。

線が震えた。それは恐怖か、あるいは同類への邂逅か。

直後、糸は断ち切られるのではなく、自ら意志を失ったかのように——「(ほど)けて」いった。

解体バラけていくプロセスは、俺の予想よりも遥かに速かった。

七本、九本、十二本、二十本——。

一本が解けるたびに、耳の奥で微かな音が響く。それは張り詰めた弦が弾けるような、あるいは、かつてあまりにも強固に縛り上げられていた何かが、ようやく「解放」を許された時の吐息のようでもあった。

ワイスマンの身体が水面へと沈み込んでいく。もはや海面を踏みしめる力は残っていない。膝が折れ、奴が海中へ没する寸前——俺は左手を伸ばし、その手首を掴んだ。

奴は、俺に掴まれた自分の腕を二秒ほど見つめ、静かに問うた。

「……なぜ、私を掴むのですか?」

「何でって……」俺は言った。「あの拉麺(ラーメン)屋、二人分払わなきゃいけなくなりそうだからな」

奴は俺を見つめた。長い、長い沈黙。

やがて、奴はこう零した。「……非論理的だ」

「分かってるさ」俺は応える。「——手を放してほしいか?」

奴は答えなかった。だが、その手首を振り払おうともしなかった。


T-0h+05:17

接続コネクトが完全に断たれた瞬間、リヴァイアサンの挙動が変容した。

その脊嶺が南から北へ向けて、一節ずつ沈み込んでいく。崩落ではない。それは融解だった。巨大な氷塊が熱湯に放り込まれたかのような——だが氷よりも遥かに速い速度で、奴の巨躯は海へと溶けていく。

そして、あの深紅の眼球が、最後に沈んだ。

消えゆくその刹那、奴の視線は——。

東京でも、港でも、艦隊でもない場所を射抜いていた。

奴が何を見ていたのか、俺には分からない。最後の三秒間、その瞳が向けられた先は、この次元の空間概念では説明のつかない「どこか」だった。

そして、奴は消えた。

リヴァイアサンが没した後の東京湾が、反動で大きく跳ね上がる。押し退けられていた海水が本来の場所を奪い返すように殺到し、防波堤を越え、埠頭のすべてを濡らした。

俺とワイスマンもまた、その飛沫を全身に浴びた。俺は依然として水面に立ち——いや、俺だけが立ち続け、沈みゆく奴の手を引いて、その落下速度を食い止めていた。

背後で林雨瞳(リン・ユートン)傳送門(ゲート)が開く。

俺は二歩下がり、ワイスマンを引き摺るようにして門の中へと飛び込んだ。


T-0h+05:24 港区埠頭

ゲートを抜けた先は、埠頭の石畳の上だった。

俺はワイスマンを横たえた。自力で立つことすら叶わないその肉体からは、「半死状態」がもたらしていた構造的な支護が完全に失われている。今の奴は、ただの虚弱な老人に過ぎなかった。

奴は重い瞼を閉じた。瞳からはあの白光が失われ、深い疲弊を湛えた灰色の色彩に戻っている。

弥生(ヤよい)が歩み寄り、奴の傍らに跪いた。状態を確認し、俺を振り返る。

「……しばらくは持ちますが、医療措置が必要です。霊的な治療ではなく、普通の病院の、ね」

俺は頷いた。

エリス(Astrid)はすでに術式を解除していた。護欄に片手を預け、ぐったりとした様子で立っている。顔色はどこまでも蒼白で、口角に伝った一筋の血をようやく手の甲で拭った。彼女はリヴァイアサンが消えた海域を長い間見つめ、静かに告げた。

「……去ったわ。けれど、消滅したわけじゃない」

「ああ」

「あいつはまだ、そこに在るわ」彼女の声には冷徹な確信があった。「ただ、退いただけよ」

「……分かってる。今は、それで十分だ」

俺の言葉に、彼女は一度だけ、深く頷いた。

牛小琴(ニウ・シャオチン)が水面から鉄叉を回収した頃、(シキ)の瞳に光が戻った。彼女は鉄叉を受け取ると、布で丁寧に叉先を拭い、背中に収める。

「……大武山のあの連中よりは、当てやすかったわね」

「簡単だった」と言わんばかりの口ぶりだが、その額には大粒の汗が滲んでいた。

雨瞳が俺の隣に並び、静寂を取り戻しつつある東京湾を見つめる。

俺もまた、何も言わなかった。

海風が吹く。

先ほどまでの、深海の底を思わせる古びた臭気は薄れていた。だが、その残滓はまだそこにある。

そして——。

俺たちが気づかぬうちに、東の空の水平線から、極めて細い橙色の線が透けて見え始めた。

日出(にちしゅつ)

俺は視線を落とし、腕時計を確認した。

05:51。

翔鶴、瑞鶴の艦載機たちが、続々と帰還を開始していた。エンジンの唸りが遠くから近づき、南から北へ、空に整然とした一本の線を描いて母艦へと降りていく。まるで、自分たちが還るべき場所を最初から知っていたかのように。

松浦宏が持つデバイスから、山口多聞(ヤマグチ・タモン)の野太い声が届いた。

告げられたのは、わずか六文字。

『——大和(ヤマト)沈黙(ちんもく)せり』

「撃沈」でも「消滅」でもない。

それが、あの男の選んだ表現だった。

俺はスマートフォンを取り出し、林雨瞳(リン・ユートン)のチャット画面を開いた。打ち込んだのは、たった四文字。

拉麺(ラーメン)、今すぐ。』

三秒後、二文字の返信が届く。

『場所は?』

俺は振り返り、弥生(ヤよい)に問いかけた。

「……この辺りで、今やってる店を知ってるか?」

弥生は少し考え、こう答えた。「浅草に二十四時間営業の店があるわ。歩けば四十分ってところね」

「よし」俺は言った。「行くぞ」

全員が揃うのを待たず、俺は先に歩き出した。

三歩進んだところで、背後で誰かが立ち上がる気配がした。続いて、複数の足音が重なり始める。エリス(Astrid)がその店にベジタリアンメニューがあるかを弥生に小声で尋ねる声、牛小琴(ニウ・シャオチン)が「私は麺は食べないわよ」と宣い、(シキ)が「何でもいいから食べよう」と宥める声。遠くからは高國城(カオ・グオチョン)が「注文は僕がやりましょうか!」と叫んでいる。

俺は前を向き、上着のポケットに手を突っ込んだ。

指先が、ワイスマンから手渡されたあの紙——十四箇所の錨点(アンカー)が記された地図に触れる。俺はそれを何度も何度も折り畳み、これ以上ないほど小さくして、ポケットの最深部へとねじ込んだ。

捨てはしなかった。

その理由は、自分でもうまく説明できない。あの筆跡があまりに几帳面で、捨てるのがもったいないと感じたからか。あるいは、三十八年もの歳月を研究に捧げた男が遺した最後のノートを、路傍のゴミ箱に放り込むべきではないと思ったからか。

たぶん、別の理由があるのだろう。

だが、今はそれを突き止める気にはなれなかった。

浅草の方角。

空はすでに、鮮やかなオレンジ色に染まり始めていた。


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