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S2第八十四章 決戦、東京湾

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

T-02:00 港区臨時司令部・倉庫 03:17

 集結地点は、港湾地区の貨物倉庫だった。臨時徴用されたその場所が、今の俺たちの司令部だ。

 司令部といっても、折り畳みテーブルを並べ、壁に東京都の地図を釘で打ち付けただけの急造品だ。地図には四十三箇所の「×」が赤ペンで記され、そのうち二十箇所がすでに斜線で消されていた。残る二十三箇所――それが今夜の「仕事」だ。

 照明は工事用の投光器。色温度の低い黄色い光が、その場にいる全員の顔を病的なほど白く浮かび上がらせていた。

 白石(シライシ) 亜紀が最後の設備リストをテーブルに叩きつけた。

霊務局(れいむきょく)、前線術師二十八名、後方支援十二名、すべて配置完了よ」

 橋爪(ハシヅメ) 龍二がそれに応じる。「陸上自衛隊百八十名。三つのアンカー周辺に展開済み。指示を待つ」

 松浦(マツウラ) 宏。「海上自衛隊、護衛艦二隻が出港。掃海艦一隻が湾口に待機中」

 岡田(オカダ) 純はタブレットのレーダー入力を凝視し、二秒の沈黙の後に告げた。「空中警戒完了。E-767がステーションに。F-35A四機、精密誘導弾を懸吊(けんちょう)し、待機中」

 俺は部屋の隅で壁に背を預け、連中が掻き集めた「総力」を数え上げていく。

(……話にならねえな)

 正直な感想だ。これだけの戦力を投入しても、まだ足りない。

 雨宮(アマミヤ) (シズカ)が最後に口を開いた。「神楽(カグラ)機関、調査一部全員および三部の一分隊、計三十八名。大日本護国結界の安定度は現在八十七パーセント」

 彼女は言葉を切り、重苦しく続けた。「今夜、残る二十三のアンカー起動を阻止できなければ、安定度は警戒値を割り込むことになるわ」

 沈黙。

 藤堂(トウドウ) 知事が喉を鳴らした。「(ジョウ)さん。君たちの状況は?」

 俺は上着のポケットに手を入れ、折り畳まれた紙の感触を確かめた。広島護國神社の魂幡(こんばん)馬三娘(マー・サンニャン)は朝から「血の匂いがする」と騒ぎ立て、その耳元では岳家軍の軍靴の音が半日鳴り止まないと言っている。俺は、あと二時間待てとなだめていた。

「……こっちは」俺は言った。「準備はできてる」

 会議は〇四時三十分、解散。

 撤収の際、桐島(キリシマ) 慎二が俺の傍らに立ち、短く言った。

「……(ジョウ)さん、感謝する」

 俺は答えず、上着のジッパーを無造作に引き上げ、外へと歩き出した。


T-0h 陸奧(むつ)後部甲板

 東京湾の水面は、墨色を帯びた深い藍。夜の黒ではなく、かといって朝の灰色でもない。二つの時間の狭間に存在する、名もなき刻限。水面から立ち上る霧が三隻の艦影を包み込み、そこに在ると知っていなければ視認することさえ難しい。

 陸奧(むつ)は最も外縁に位置していた。

 俺は後部甲板の手すりに寄りかかり、煙草に火を点けることもなく、ただ立ち尽くしていた。

 背後のハッチは開放され、弥生(ヤヨイ)が低く詠唱する声が聞こえてくる。流れる水のような、静かな調べ。彼女は今朝四時に起床し、何も語らずに準備を開始した。その静謐な献身に、俺は声をかけることさえ憚られた。

 林雨瞳(リン・ユートン)がハッチの縁に背を預け、両手をポケットに突っ込みながら、俺と同じ方角を見つめていた。

「……何を考えているの?」

「……計算しているのよ」俺は言った。「四十三のアンカー(錨点)のうち、二十三がまだ生きている。ワイスマンがそれらを同時に起動させるには時間が必要だ。俺たちに残された時間は?」

「エリスは六時間だと言っているわ」

「……あいつのは、保守的な見積もりだ」

 林雨瞳(リン・ユートン)が少しの間沈黙した。「……なら、四時間ね」

 俺は答えなかった。答えるべき言葉がなかったからだ。四時間、二十三の地点。そして、昨日ようやくその規模を把握したばかりの亡霊艦隊。足りるか足りないか、それはこれからの「戦い方」次第だ。

 ハッチの向こうで弥生(ヤヨイ)の声が一度途切れ、また再開された。

 霧の中に、翔鶴(しょうかく)の輪郭が幽かに浮動している。山口の船。三隻。大戦の記憶と共に水底から這い上がってきた三千二百名余の魂。彼らは自分たちの艦を駆り、自分たちの得物を手に、見たこともない時代でもう一度、戦火に身を投じようとしている。

 手すりに寄りかかり、海に向かって深く息を吸い込む。

 潮の香り。鉄の匂い。そして、朝露の湿り気。

「……士達(シーダー)」林雨瞳が呼んだ。

「……ああ」

「……すべてが終わったら」彼女は一拍置いて言った。「……美味しいラーメンが食べたいわ」

 振り向くと、彼女は冗談を言っているようには見えない、真剣な眼差しをしていた。

「……わかった。終わってからだな」

 彼女は頷き、船室内へと戻っていった。

 俺はそのまま立ち続け、夜明けを待った。ワイスマンを待った。向こう側のどこかの甲板で、同じようにこちらを待っているであろう亡霊工学(ネクロ・エンジニア)を。

 海面の霧が、ゆっくりと薄れ始めていた。


T-0h+00:15

 最後の十五分。

 俺は全員を部屋から出した。林雨瞳はドアの縁に寄りかかり、無言で俺を見つめている。エリスは二本の指を唇に当て、戦を前のヴァイキングのような厳かな面持ちだ。(シキ)は床に蹲り、布切れで番刀を三度目の手入れ。(イェ) 綺安(キアン)は長い髪を結い上げ、動きやすい上着に着替えていた。――馬三娘(マー・サンニャン)が「袖の長い服は嫌いだ」と事前に要求していたからだ。

 弥生(ヤヨイ)は俺の隣に立ち、小さな陶製の器を捧げ持っている。

「……あなたの合図を」

 俺は魂幡(こんばん)を広げた。

 古びて黄ばみ、縁は摩耗している。だが廣島護國神社の宮司が筆を走らせた墨跡は、今なお鮮明だった。山口は言った――この幡は大戦時、数多の魂を収容した。それ自体が器なのだと。正しく焼き捨てれば、内に蓄積された「モノ」を解放できるのだと。

 彼はそれを、事務手続きを説明するかのような平淡な口調で語っていた。

 ライターを点火し、幡の端に火を寄せる。

 紙が丸まり、輝き、やがて黒から赤へと変じながら陶器の中で燃え上がった。

 音はない。劇的な演出も皆無。ただ、一枚の紙が燃えている。

 ――次の瞬間。

 (イェ) 綺安(キアン)の身体が、ピクリと硬直した。

 まるで後頸部から何かを貫かれたかのような衝撃。二秒の沈黙の後、彼女はゆっくりと顔を向け、俺に微笑んだ。だが、それは(イェ) 綺安(キアン)の笑みではなかった。

「……小僧」彼女の声は半オクターブ低くなり、言葉の質量が三倍に跳ね上がっていた。「……この場所は、人が多すぎるねぇ」

 馬三娘(マー・サンニャン)が見ているのは、協力組の面々ではない。

 彼女は顔を上げ、東京湾の方角を射抜くように見た。「……皆、待っているよ」

「……知ってる」

 隣で、(シキ)が同時に目を閉じ、再び開いた。

 眼差しが、変質していた。

 牛小琴(ニウ・シャオチン)は何も語らず、ただ自らの両手を見つめた後、床の番刀を拾い上げた。刀を握る所作は(シキ)のそれとは異なり、無骨で横着――武器ではなく、農具を扱うような手つきだ。

「……台湾の地穴よりはマシだね。見晴らしがいい」

引魂幡(いんこんばん)カウントダウン:七十二時間、開始。


同時刻、東京湾某所・不明艦艇

 ワイスマンはコントロールパネルをそう呼ばない。

 彼はそれを「コンサートホールの指揮台」と呼んでいる。

 隔壁に背を向け、不釣り合いな正装に身を包んで立っていた。――彼の身体はすでに寒暖を感じる機能を失っている。正装はただの習慣、自分がまだある意味で「生きている」ことを自覚するための、執着に満ちた習慣だ。

 眼前のホログラムスクリーンには東京の地図が展開され、四十三のアンカーが青く表示されている。そのうち二十はすでに失われ、灰色に沈んでいた。

 彼はその二十の灰色の点を見つめたまま、表情一つ変えなかった。

「前倒しになりましたな」助手が告げた。骨格の支架に乾燥した神経繊維を巻き付けたその移動体は、人工発声器を通じてノイズ混じりの声を絞り出した。「敵方の行動、予測スケジュールより四・二時間早い」

「分かっている」ワイスマンは言った。「あの周士達(ジョウ・シーダー)か。予想以上に早く動きおった」

 彼は別のスクリーンへと向き直った。

 翔鶴(しょうかく)瑞鶴(ずいかく)の霊能残響がすでに探知圏内に浮上している――山口多聞(ヤマグチ・タモン)は、本当に奴らを連れ戻してきおった。

 彼は三つのエコーを、短く沈黙して見つめた。

 やがて、冷徹に告げた。「先行艦隊、起動」

 スクリーンの向こう側、ある海底の空間が震動を開始した。数十年前から堆積していた信仰の残滓――大戦時の恐怖、憤怒、執念、不当――彼は十一年の歳月を費やしてそれらを蒐集し、濃縮、再結晶させ、亡霊工学(ネクロ・エンジニアリング)の手法で起動燃料へと変えた。それを一滴ずつ流し込み、水底に沈む鋼鉄に再び「意志」を灯したのだ。

 魂ではない。彼は決して「魂」とは呼ばない。そんなものは形而上の戯言だ。これは意志の残響であり、利用可能なエネルギーに過ぎない。

 海面が盛り上がる。

 長門(ながと)が最初にその姿を現した。艦橋に翻る旗は、もはや元のそれではない。ワイスマン自らが設計した、所有者を示す符文の旗だ。続いて高雄(たかお)愛宕(あたご)、さらに島風(しまかぜ)夕立(ゆうだち)の細身の艦躯が水を切り裂いて浮上し、巻き上がった飛沫が防波堤を激しく叩いた。

 先行艦隊、五隻。配置完了。

 彼は助手に航路を確認させると、主力艦隊の起動インターフェースへと指を走らせ、第二コマンドを入力した。

大和(やまと)」不釣り合いなほど無機質な声で、彼はその名を呼んだ。「私が最初に引きずり戻したのはお前だ。……それを覚えているか?」

 当然、艦が答えることはない。だが、スクリーンの霊能数値は彼の言葉に応じるように一度だけ跳ねた。

 ワイスマンはそれを見届け、業務日誌に記した。『T-0起動。先行五隻、主力六隻。霊能安定度九十二%。敵方の早期行動により、アンカー起動効率に約十八%の影響。許容範囲内』

 彼は日誌を閉じ、上着を手に取った。

「甲板へ行く。この目で拝んでおきたい」


T-0h+00:28 港区埠頭

 ワイスマンの艦隊がレーダーに捉えられた瞬間、松浦(マツウラ) (ヒロシ)の携帯が爆発した。

「長門の霊能反応を確認! 方位二二〇、距離約十四海里!」副官の声がスピーカー越しに震えている。「それから、側波帯ソナーに感あり――何かが浮上しています。数が多い……!」

 俺は埠頭のフェンスに寄りかかり、海を見つめた。闇の中、遠方に巨大な、そして悍ましい輪郭がいくつも形成されつつある。

 林雨瞳(リン・ユートン)が歩み寄り、声を潜めた。「……時間?」

 俺は腕時計を叩いた。

「……時間だ」俺は言い、(イェ) 綺安(キアン)――いや、馬三娘(マー・サンニャン)へと向き直った。

 彼女は悠然と爪を弄りながら、その時を待っていた。

「……三娘(サンニャン)。頼むぜ」

 彼女は顔を上げた。

 馬三娘(マー・サンニャン)は書巻をポケットにねじ込み、立ち上がると、スカートを軽く叩いてフェンス際まで歩み寄った。そして闇に閉ざされた海を、一秒だけ凝視した。

 次の瞬間、彼女は口を開いた。声は決して大きくはなかったが、その一語に込められた剛力に、陸自の橋爪(ハシヅメ)が思わず半歩後ずさった。

「――起きなァ!!!!」

 海面に即座の反応はない。

 三秒。

 五秒。

 そして、未だ破壊されていない二十三のアンカーに対応する海域で、水面が白く泡立ち始めた。

 波ではない。自然現象でもない。それは、地底の底から透けてくるような(いにしえ)の光。海床に巨大な照明を沈めたかのように、海が内側から輝きを帯びていく。

 藤堂(トウドウ) 知事がその異変に真っ先に気づき、無言で海を見つめた。

 白石(シライシ) 亜紀の指が止まった。資料を捲ろうとしたその姿勢のまま、凍りついたように光り輝く海面を凝視している。

 橋爪(ハシヅメ)の手が、腰のホルスターへと伸びた。

 そして、水面が割れた。

 最初に現れたのは人ではない。旗だ――次から次へと、一面ごとに意匠の異なる旗。宋代の軍旗の様式を留めるものもあれば、無残に引き裂かれ半分しか残っていないものもある。だがそれらは、見えざる手に掲げられ、夜の静寂の中に整然と、かつ猛烈な音を立てて翻った。

 次いで、人が現れた。まず兵士の兜が、次いで肩が、そして全身が――。彼らは水底から歩み出し、一列、また一列と埠頭へ、岸辺の石畳へ、本来なら貨物車両しか通らぬはずの地面へと、夢想のごとき整然とした足取りで踏み込んでくる。

 霊務局の術師が、呆然と呟いた。「あれは……岳家軍(がっけぐん)……?」

 問いではない。自身の目が捉えた現実を、脳に認めさせるための確認だ。

 その中の一面、巨大な軍旗には、今なお鮮明な墨跡で「岳」の字が刻まれていた。

 桐島(キリシマ)慎二が、背後の隅で震える声を漏らす。「……な、何人いるんだ?」

 それに即座に答えられる者は、ここにはいなかった。

 馬三娘(マー・サンニャン)は軍勢の最前列に立ち、振り返ることなく二歩前へ出た。まるで閲兵でもするかのように。

 弥生(ヤヨイ)が俺の隣に並んだ。問いを差し挟むことなく、即座に「起動」を開始する。印を結び、深く(こうべ)を垂れ、唇から詠唱を紡ぎ出す――聞き取ることはできない。それは漢字が伝来するよりも遥か古の時代から、この地に流れる原初の言語。彼女の指先が、温かく重厚な、黄金色の光を帯び始めた。

「……何発、必要?」安定した声で、彼女が問う。

「……陸奧(むつ)の、全弾だ」俺は答えた。

 彼女は頷き、詠唱を続けた。

 海面から這い上がってきたあの軍勢が、不意に――収縮を始めた。

 消えたのではない。「圧縮」だ。見えざる剛力が数千の形体を一点へとねじ伏せ、光の粒子へと変えていく。その光の塊は、松浦(マツウラ)の副官が狼狽しながら押し出してきた、陸奧(むつ)の四十一センチ主砲弾の装填台へと叩き込まれた。

 台の上に横たわる一列の巨弾。装填されるのを待つ鋼鉄の塊たちが、金色の光を宿した瞬間、まるで己の内部に詰め込まれた「意志」を悟ったかのように激しく震動した。

 弥生(ヤヨイ)が手を離し、一歩退いた。顔は蒼白だが、その足取りは確かだ。

「……装填、完了したわ」彼女は告げた。「着弾の瞬間、彼らは跳梁(ジャンピング)を開始する。装甲の内側、艦橋の側壁、すべてが彼らの戦場よ」

 松浦(マツウラ)が我に返り、受話器を掴んだ。声が半オクターブ裏返っている。

陸奧(むつ)! 砲撃準備! 目標は――」

 彼は言葉を切り、目の前の弾丸と、弥生(ヤヨイ)と、そして俺を見た。

「……目標は」俺がその言葉を引き取った。「先行艦隊旗艦、長門(ながと)の艦橋だ」


T-0h+00:34

 砲声が轟いた瞬間、東京港湾地区の窓ガラスという窓ガラスが悲鳴を上げた。

 陸奧(むつ)の四十一センチ主砲。通常弾であっても三秒は耳鳴りを残すその轟音は、今回、砲口から淡金色の軌跡を虚空に描いた。光が海面を駆けていく。

 俺はフェンスに身を預け、その光が長門(ながと)の艦橋へと吸い込まれるのを見守った。

 二秒後、衝撃。

 爆発ではない。あるいは、物理的な破壊とは異なる次元の「拡散」だった。弾丸が長門の側壁を穿った刹那、不可視の扉が解き放たれたかのように、衝撃点から猛烈な「奔流」が溢れ出した。それは艦橋、甲板、通路、あらゆる構造体を一瞬で飲み込んでいく。

 着弾点から、岳家軍の兵士たちが抜刀し、溢れ出した。

 手にするのは現代の銃器ではない。宋代の刀、狭鋒(きょうほう)、長柄、あるいは(げき)――。それらが、長門の甲板上で実体を持って振るい始められた。信仰の残渣(ざんさ)亡霊工学(ネクロ・エンジニアリング)によって繋ぎ合わされたワイスマンの幽霊兵たちを、容赦なく斬り捨てていく。

 松浦(マツウラ)の副官が双眼鏡を顔に張り付けたまま、五秒ほど沈黙し、呻くように告げた。

長門(ながと)甲板にて、白兵戦を確認……!」

「主砲弾で跳幫(ちょうほう)だと……」橋爪(ハシヅメ)が絶句する。

 白石(シライシ) 亜紀は、狂気じみた光景を前にしてもなお平然と記録を刻んでいた。

『T-0h+00:34。陸奧(むつ)主砲第一斉射。跳幫成功を確認。長門(ながと)甲板上、交戦中』

 馬三娘(マー・サンニャン)――(イェ) 綺安(キアン)の身体を借りた亡霊差役は、手すりに背を預け、満足げに鼻を鳴らした。

「……上出来だねぇ。散らずに食らいついたよ」

「……次だ。次はどこを狙う?」俺が促す。

「……高雄(たかお)だね」彼女は冷徹に指差した。「……あのアマは足が速い。先に膝を叩き割るよ」


T-0h+00:41

 その後の展開は、加速し、そして混沌を極めた。

 それは予測された混乱だ。二十三のアンカーは依然として脈打ち、ワイスマンの主力艦隊は刻一刻と迫る。陸上では霊務局の術師たちが正体不明の霊体と刃を交え、上空ではF-35Aの警告灯が夜を切り裂いていた。

 だが、その濁流のような光景の中で、いくつかが俺の網膜に焼き付いている。

 一つは、(シキ)――いや、彼女に宿る牛小琴(ニウ・シャオチン)だ。

 高雄(たかお)が六海里まで接近した瞬間、彼女は手すりから跳んだ。

 海へ墜ちるのではない。虚空へと踏み出し、半秒ほど滞空すると、その番刀を水平に構えた。重力シールドが展開された刹那、海面が猛烈な圧力で押し広げられ、半径三十メートルの真空の円が形成される。彼女はその円の中心、海面を大地のごとく踏みしめて着地した。

 高雄(たかお)の艦首砲が、その「異物」へと狙いを定める。

 彼女は砲口を見上げ、牛小琴(ニウ・シャオチン)特有の、大地に根を張ったような声音で何事かを呟いた。岸壁にいる俺の耳には届かなかったが、直後、彼女が一歩前へ踏み出すと、重力場がその歩みに追従するように波打った。

 ――次の瞬間、高雄(たかお)の砲身が、まるで飴細工のようにぐにゃりと「曲がった」。

 背後で、橋爪(ハシヅメ)の部下が悲鳴に近い声を上げた。

 もう一つは、エリスだ。

 彼女は跳ばなかった。三歩後退し、深く肺を震わせるような呼吸を一つ。それから両腕を翼のように広げ、デンマーク語の詠唱を紡ぎ出す。

 東京の空にオーロラが舞うことはなかったが、彼女はその神秘の残光を、一条の氷の線へと圧縮して放った。その冷気は彼女の足元から、フェンスを越え、海面を奔り、猛然と主力艦「武蔵(むさし)」の舷側へと到達した。

 刹那、武蔵(むさし)の周囲の海水が、生理的な不快感を伴う速度で「凍結」を開始した。

 すべてではないが、武蔵(むさし)の推進プロペラが氷塊に噛みつかれた。艦速が目に見えて落ちる。武蔵は必死に舵を切り、その呪縛から逃れようと悶え始めた。

「……遅滞成功よ」エリスが冷静に腕を引き戻した。「十八分以内には、あいつは有効射程内には入れないわ」

 彼女は俺を振り返った。「士達(シーダー)翔鶴(しょうかく)はそっちの受け持ちよね?」

 俺は弥生(ヤヨイ)に目をやった。彼女は次なる砲弾群への充填作業を続けていた。その顔は目に見えて蒼白(あおじろ)くなっているが、それでもその指は止まらない。

 そして三つ目、林雨瞳(リン・ユートン)だ。

 俺は同時に三つの場所にはいられないが、彼女にはそれが可能だった。

 (シキ)が海面を踏みしめ、エリスの冷気が武蔵へと奔ったその同じ瞬間、林雨瞳は埠頭の反対側で「(ポータル)」を開いていた――一人が身を屈めて通れる程度の、小規模な転送門だ。彼女は躊躇なく、霊務局の術師三人をその中へと突き飛ばした。

「……出口は『愛宕(あたご)』の後部甲板よ。猶予は四十秒」

 術師たちが呆気にとられる間もなく、門は閉じられた。

 四十秒後。愛宕の後部から、激しい爆音と火の手が上がった。

 雨宮(アマミヤ)がその光景を見つめる表情は、複雑を通り越して形容しがたいものになっていた。

 俺は歩み寄り、林雨瞳の隣に立った。彼女の血色は変わらず、息切れも、手の震えさえない。ただ、指輪の嵌め替えを淡々と行っているだけだ。

「……あと何回、あんな芸当ができる?」

「……今夜なら、あと四回ね」

「……十分だ。一回分は、弥生(ヤヨイ)のために残しておいてくれ」

 彼女は理由を問わず、静かに頷いた。


T-0h+01:22

 ワイスマンの主力艦隊が、ついに東京湾内へとその牙を剥き出しにした。

 先頭に立つのは、超弩級戦艦「大和(やまと)」。

 その巨躯は、霊的な投影であっても圧倒的な圧迫感を放っていた。四十六センチ主砲が、真っ直ぐに港湾へと向けられる。即座の砲撃はない。ただ、そこに「存在している」という事実だけで、埠頭の面々は本能的な恐怖に駆られ、思わず半歩退いた。

 ただ一人、山口多聞(ヤマグチ・タモン)を除いて。

 彼は翔鶴(しょうかく)の艦橋から、霊能通信を通じて俺に接触してきた。

「……周士達(ジョウ・シーダー)大和(やまと)は、私の獲物だ。貴殿は残りのアンカー(錨点)を処理しろ」

「……あんた一人でか?」俺は言った。

「……陸奧(むつ)翔鶴(しょうかく)瑞鶴(ずいかく)。三隻だ」山口(ヤマグチ)の声は平坦だった。「独りではない」

 俺は数秒の沈黙の後、短く応じた。「……分かった」

 通信を切る。

 俺は上着のポケットに手を入れ、あの死神の指輪(デス・リング)に触れた。指輪の温度は普段より低く、まるで対面に座する「怪物」の気配を敏感に察知しているかのようだった。

 王の位階(キング・ランク)――。ああ、そうかよ。

 大和(やまと)の巨躯を睨みつけ、深く肺に空気を溜める。

「……弥生(ヤヨイ)」俺は呼びかけた。「最後の一群だ。目標を切り替えろ。大和左舷、三番砲塔だ」

 弥生(ヤヨイ)の指先は止まらない。ただ一言、「……了解」とだけ返ってきた。

 陸奧(むつ)の咆哮が、再び港湾を震わせた。

 今度の砲弾が虚空に描いたのは、単なる金色の軌跡ではなかった――一瞬、その光の中に「実像」が見えた。数千の魂が形作る、執念の弾道。それが大和の側面に吸い込まれていく。

 大和に巣食う亡霊兵たちも、その異変を察知したのだろう。巨艦が――微かに――戦慄(わなな)くように震動した。

 山口(ヤマグチ)は言った。ワイスマンに引きずり戻された連中の「意志」は、ただの憤怒と執念に過ぎないと。彼らには方向がない。何のために戦うのかも知らされず、ただこの時代という戦場に放り出されただけだからだ。

 だが、岳家軍(がっけぐん)は違う。

 彼らには、戦う理由がある。

 弾丸が大和の左舷に激突した音は、長門(ながと)の時よりも遥かに重く、長く尾を引いた。

 直後、大和の甲板から、亡霊たちの呻きをかき消す「声」が響き渡った。――宋代の軍令。鋼鉄の甲板を叩く、岳字旗の旗竿の音。八百年の時を隔てた戦が、どの時代にも属さぬ異形の艦上で、再び幕を開けたのだ。

 俺は背を向け、岸壁へと歩き出した。

 地図の上には、まだ二十三の「×」が残っている。

 それが、俺の仕事だ。


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