S2第八十三章 巨獣覚醒
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
埠頭に沈黙が降りた。
「奴は、リヴァイアサンを召喚ぼうとしている」
その言葉が発せられた瞬間、霧はいっそう深まったように感じられた。いや、それは錯覚ではない。東京湾は依然としてそこにあるが、午前五時五十分、太陽が昇る前の空は黒から深い藍へと移ろい、日常の夜明けが今日に限っては異常なほど長く、重苦しい停滞として引き延ばされていた。
口を開いたのは、桐島慎二だった。
「……リヴァイアサン」彼はその名を、発音が正しいか確信の持てない外交官のように慎重に繰り返した。「貴公が言っているのは……」
「聖書に記されたそれであり、シュメールの記録にあるそれだ。あらゆる信念体系において『深淵の主』に与えられた、最も直接的な名称だ」山口は言葉を切った。「名など重要ではない。肝心なのは、それが『何であるか』だ」
「……で、それは何なんだ?」知事が問う。声は平坦だが、会議室の時と同様、この場でも真っ先に正気を取り戻したのは彼だった。魔法瓶を持つ手は微塵も揺れていない。「……明確に答えろ」
山口は知事に向き直り、数秒間、視線を交わした。
「極めて高い信念密度を持つ存在だ」彼は言った。「神でも鬼でもない。それは一つの『システム』だ――他者の信念場を同化し、飲み込むシステム。それを都市に放てば、破壊ではなく『吸収』が始まる。吸い尽くされた後、その街はもはや元の街ではない。人間は居て、建築物も残り、地図上には存在する。だが、その内部にある……『基底』が、そいつのものに書き換えられてしまうのだ」
「……基底とは、どういう意味だ?」雨宮静が問う。
弥生が先に答えた。その声は、とっくに結論を出していたかのように淡々としていた。
「信念場の基底とは、その場所がなぜその場所であるかという理由よ。東京が東京であるのは、地名や建築のせいじゃない。この土地で生き、死に、積み重なってきたすべての人々の記憶が、場として重層化しているから。……リヴァイアサンが侵入するということは、その積み重なった記憶の層をすべて吸い取られるということだわ」
白石亜紀が、資料を閉じた。
バタン、という軽い音が、この静まり返った埠頭では世界の終焉を告げる蓋が閉まる音のように響いた。
「……では」桐島の声が微かに震える。しかし、彼はそれを必死に抑え込んだ。「ワイスマンはすでに、準備を終えているのか?」
「……まだだ」山口が断じた。「もし完了していれば、貴殿らがここに立っている必要などない」
老高が半歩前に出た。
「提督」交渉人としての重みのある声だ。「奴が最初に声をかけたのはあんただと言ったな。あんたはそれを拒絶した。……その後はどうなった?」
山口は彼を横目で見やった。「……奴は次を探し、また次を探した。この東京湾には、数多の死者が眠っている。私のような者ばかりではない。奴の誘いに乗った者もいるだろう」
「……どれほどの数だ?」
「正確な数は把握していない。だが、奴が現在張り巡らせている『網』がどれほどの規模かは知っている」
「……どれほどの規模だ?」
山口は即座には答えなかった。
彼は東京湾の方角へと体を向け、霧に煙る水面を見つめた。何も見えないはずのその先を、彼だけが視認できる何かを射抜くような眼差しで。
「……横須賀からここまでに、どれほどの信念節点が存在するか。貴殿らの資料には、いくつ記されている?」
エリスが答えた。「霊務局の最新データでは、東京東地区に十一の赤、三つの橙。北西に三つの赤、そして黄色の未確認が六つよ」
「……半分も漏れているな」山口は静かに告げた。
絶句。
エリスは手帳の新しいページを捲った。「……なら、貴方の目に見えている数は?」
「四十三だ」山口が言った。「……確認できたものだけでな。実際はもっと多いだろう。地底二十メートル以上の深層に埋没しているものは、私でもすべては把握しきれん」
白石のペンが止まった。
四十三。
霊務局の把握している倍以上の数だ。未確認の黄色を合わせても到底足りない。
「……なぜ、我々には見えないんだ?」雨宮が呻くように問う。
「……貴殿らのフレームワークで構築されたものではないからだ。それらは術法でも霊域でもない。……信念の残滓だ。戦後の記憶、失われた人々、言葉にされなかった想い。貴殿らの計器にはかからんが、それらは確実に『在る』。……そしてワイスマンには、それが見えている」
俺は隣でそのやり取りを聞き終え、その数字を脳内に叩き込んだ。
四十三のノード。
ワイスマンは東京という巨大な解剖台の上に、四十三箇所のメスを仕込んでいる。霊務局はその半分すら掴んでいない。そして、残された時間は二十四時間を切っている。
「……あんたが上陸してきたのは、それを伝えるためか?」俺は尋ねた。
山口が向き直り、俺を直視した。「……一部はそうだ」
「……残りの理由は?」
彼は数秒の沈黙の後、重々しく口を開いた。
その沈黙は、言葉を整理するための時間ではなかった。語るべき事柄の「重み」を再確認し、自らがそれを背負う覚悟を固めるための静寂だった。
「……貴殿の手元に」山口が言った。「……私が渡した物があるはずだ」
俺は答えない。だが、何のことかは分かっていた。
あのハンカチに包まれた山口の遺品。横須賀からずっと持ち歩き、一度も開かぬまま今日まで守り通してきた「それ」だ。
「……その品を使えば」山口が続ける。「……例の四十三の節点を視認できるはずだ」
「……使い方は?」
「……展開しろ」彼は言った。「東京の信念場の中核に最も近い場所で、それを広げ、握りしめて歩け。そうすれば、奴の仕掛けた『傷跡』がすべて浮き上がる」
老高が横から俺を一瞥した。
「……提督。あんた、その方法を最初から知っていたな」老高の声は平坦だった。詰問ではなく、単なる事実の指摘だ。
山口は否定しなかった。「……その時はまだ、機が熟していなかった。だが、今は違う」
「……なぜだ?」
「……結界が固まり、門樁が閉じた。もはや奴は内側からしか動かせん。そして、内側から動かすには四十三の節点すべてを起動させる必要がある。奴が起動を終える前に節点を特定し、排除できれば、儀式は瓦解する」彼は言葉を切った。「……だが、貴殿らに残された時間では、排除できるのは一部に過ぎん」
「……どの程度だ?」
「……二十だ。それが限界だろう」山口が告げた。「……残りは、私が引き受ける」
埠頭に沈黙が流れた。
それは提示された事実を咀嚼し、その質量を自覚し、次の一歩を決断するための沈黙だった。
沈黙を破ったのは知事だった。
「山口提督。貴公の言う『手助け』とは、具体的に何を指すのだ?」
「……東京湾から、網の推移を見ていた」山口の声は凪いでいた。「どの節点が深く、どれが私の手に負えるものかは把握している。市街地へ入ることは叶わぬが、深海に沈む数点、そして港湾一帯は、私が責任を持つ」
「……貴公、一人でか?」
「……私が率いる連中も」山口は淡々と、しかし揺るぎない確信を込めて言った。「……皆、承知している」
壁際に立つ三名の自衛官は沈黙を守ったが、橋爪龍二の手は、もはや腰のあたりを彷徨ってはいなかった。両手を前で組み、身体をわずかに弛緩させている。極めて細微な変化だが、戦士としての「共鳴」がそこにはあった。
「……あの三隻の艦は」海自の松浦が問う。
「……翔鶴と瑞鶴は内湾を、陸奧は深海へ向かう」山口が答える。「信念場は地上より水下での伝導が三倍速い。そこから叩くのが最も効率的だ」
松浦の唇が動いた。何かを言いかけ、そして飲み込む。最後に残ったのは、たった一言。
「……了解!」
それは反射的な応答ではなく、一人の指揮官としての決断だった。
桐島慎二は、ずっと沈黙していた。彼は外交官が分類不能な異物を分析するかのような眼差しで山口を見つめていた。敵でも盟友でもない、既存の枠組みには収まりきらない「存在」。
彼はようやく口を開いた。「……提督。本日の会見は記録に残さねばなりません。貴公の身分は……何と記載すべきか?」
山口は少し考え、その口角を微かに上げた。
「……そうだな。『故人による協力』とでもしておけ」一呼吸置き、「……カッコして、志願、とな」
桐島は手元のノートにペンを走らせた。
俺は二歩踏み出し、山口の傍らへと歩み寄った。上着の内側からハンカチに包まれたソレを取り出し、掌に乗せる。まだ、開かない。
軽い。
昭和という時代の記憶の一部を封じ込めた品が、これほどまでに軽いとは信じがたかった。掌には、体温とは異なる微細で絶え間ない「熱」が伝わってくる。
「……横須賀の時は、言いそびれた。ありがとう」俺は言った。
山口は俺を見つめた。「……礼は不要だ。貴殿が成したことは、もとより正道であった」
「……なら、なぜ俺にこれを預けたんだ?」
「……貴殿が、私に何の見返りも求めず、ただ成すべきことを成した最初の男だったからだ」山口の声は平坦だった。「……私が成した事、背負った業。それは私が清算すべきものだ。誰かに代わってもらう必要はない。ただ、清算するための機会が必要だった」
彼は言葉を止めた。
「……貴殿がその機会をくれたのだ。だから、礼を言うのは私のほうだ」
俺は答えず、ハンカチを包み直してポケットへ戻した。
空が白み始め、霧が晴れていく。東京湾の水面は深い灰色から灰藍色へと移ろい、地平線の彼方から最初の一条の光が差し込んできた。平たく、低いその光が、海面を橙色に染め上げ、山口の輪郭を逆光の中に描き出す。その姿は鮮明で、実在感に満ちていた。死した提督が、夜明けを待つ東京湾の埠頭に立っている。
「……最後に、もう一つ」山口が言った。
「……言えよ」
「……ワイスマン。奴の真の狙いは、リヴァイアサンそのものではない」
俺は彼を凝視した。
「……リヴァイアサン召喚は手段に過ぎん。奴が真に欲しているのは、そいつが東京の信念場を吸い尽くした後に放出される『精製物』だ」
「……それは、何だ?」
「……最大規模の『亡霊エネルギー(ネクロ・リソース)』だ」山口は冷徹に告げた。「……半死半生の者を、完全に現世へと引き戻すに足る、禁忌の力だよ」
埠頭に、一瞬の静寂が落ちた。
「……奴は、自分自身を完全な生者として蘇らせるつもりか」エリスが呟いた。
「……あるいはな」山口が応じる。「だがいずれにせよ、今の奴の状態では不十分だ。あと一歩が足りない。だからこそ、東京という巨大な器を欲している」
老高が隣で、思索にふける際の癖であるポケットに手を入れる動作をした。「……つまり、リヴァイアサンさえ阻止すれば、ワイスマンの存在状態は永遠にその『半死半生』の檻に閉じ込められるってわけか」
「左様だ」山口が短く言った。
「……別の都市へ標的を変える可能性は?」老高が問う。
「……東京の信念場の密度は、世界でも三指に入るわ」弥生がその問いを引き継いだ。「奴は適当に選んだわけじゃない。東京こそが、奴の計画を実現し得る最大かつ唯一の場。他の都市でやり直すには、また膨大な時間をかけて網を敷き直さなければならないわ。奴には、その猶予はない」
「……残り時間はどれくらいだ?」
エリスが三・一ミリ移動したルーン石を凝視した。「……T-16からT-18。その間に、奴は節点の起動を開始するわ」
「……なら、俺たちに残されたのは十六から十八時間ってところか」老高が言った。「四十三の節点を探し出し、二十を潰す。残りは提督に任せる」
老高がこちらを向き、俺の言葉を待った。
俺はポケットの中の、ハンカチに包まれたソレを指先で確かめた。質量は変わらない。羽のように軽い。
「……班分けだ」俺は切り出した。「エリスが一班、弥生が一班。俺は単独で機動力の要る地点を叩く。老高、あんたは本部に残って総調整だ。自衛隊と霊務局とのパイプを繋ぎ止めておけ」
「……了解だ」
「霊務局は」俺は白石 亜紀に向き直った。「……現場での最速の連絡員を寄越せ。メールの返信しかできないような無能は要らないぞ」
「……私が行くわ」白石が言った。
「……本気か?」
彼女は分厚いファイル一式を脇に抱え直した。「……ええ。オフィスに籠もるのは、もう飽き飽きよ」
太陽が完全にその姿を現した。
山口が、一歩、後方へと下がった。歩くというよりは、この光景との境界線が徐々に滲んでいくような、そんな退き方だ。しかし、その眼差しだけは最後まで鮮明だった。
「……行け」彼は言った。「……我が方は、私が責任を持つ」
「……T-0の瞬間、あんたはまだそこにいるか?」俺は尋ねた。
彼は少し考え、「……分からん」と答えた。「……成すべきことが、どこまで成されているか次第だな」
悲劇的な響きはなかった。己の状態を冷徹に把握している者特有の、単なる事実の陳述。
「……なら」俺は言った。「……その時、また会おう」
山口は、短く頷いた。
そして瞬き一つ。
そこには、もう誰もいなかった。
霧は完全に晴れ、東京湾の海面は朝の光を浴びて煌めいている。一羽の鳥が水面を低く掠め、飛沫を散らして飛び去っていった。
俺は、踵を返した。
「……行くぞ」
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




