S2第八十三章 最終秒読み
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
Day 1|T-72h|10:47
会議が終わり、エレベーターで地上へ上がると、そこには東京の朝の陽光が待っていた。刺すように眩しく、そして熱い。
霊務局が用意した臨時宿舎は港区のB棟。普段は誰を収容しているのかも定かではないシングルルームが並んでいた。廊下には深い緑のカーペットが敷かれ、壁はオフホワイト。各部屋のドアには金属製のルームナンバーが掲げられている。冷房はやたらと効いているが、窓は小さく、その外には隣のビルの外壁が迫っていた。
老高が受付の連中と部屋割りの調整に行っている間、俺は霊務局から渡されたハードディスクを掌で転がした。ずっしりと重い。都市の記憶を掌サイズの箱に圧縮したような、そんな重みだ。
「……それ、いつ見るの?」林雨瞳が足を止めずに横を通り過ぎる。
「……後でな」
「後でって、いつよ」
「……まず、一眠りしてからだ」
返答はなかったが、彼女の部屋のドアが閉まる音が聞こえた。重くも軽くもない、彼女らしい閉め方だ。満足しているのか不満なのか、その音からは判別できない。
神代弥生が俺の隣に立っていた。手荷物らしいものはなく、ただ薄い布包みを一つ持っているだけだ。大湊から今まで、彼女が持っているのはそれだけ。中身が何なのかは聞いていない。
「……何を考えてるんだ?」俺は尋ねた。
「廊下を見ているの」彼女は言った。「以前、東京に来る時はいつも霊務局の寮だった。あそこはここより新しかったけれど、これほど静かではなかったわ」
「……今はどうなんだ?」
彼女は少し考え、「……誰も、私を管理していないわ」
「……最高じゃないか」
「ええ」彼女は言った。「ただ、まだ慣れないだけよ」
その日の午後、アピスが廊下で一悶着を起こした。
どこから見つけてきたのか、誰かの食べ残しのデリバリー袋から、半袋の塩せんべいをせしめてきたらしい。天井の照明の傍らで胡坐をかいてせんべいを齧りながら、羽で風を送り、通りかかる面々に尊大に頷いている。
希がその下を通り過ぎる際、見上げるように問いかけた。
「……何をしているの?」
「哨戒だ」アピスは至極真面目に答えた。「本精霊は今、哨戒任務を遂行しておる」
「……武器は?」
そいつは懐から爪楊枝ほどのサイズの剣を取り出し、ひらつかせた。
「……それでワイスマンと戦えるの?」
沈黙。
アピスは爪楊枝をしまい、無言でせんべいを齧り続けた。
午後二時。老高が持ってきたアダプターにハードディスクを繋ぎ、データを壁に投影する。
霊務局の資料は、吐き気がするほど整然としていた。すべての異常地点に座標、タイムスタンプ、信念密度、そして現場写真が添えられている。東京の東側には十一の赤いマーカー、北西には三つ。さらに六つの黄色いマーカーは「疑わしいが未確認」を意味している。
「奴は、どの地点に力を注いだのかしら?」エリスが東側の密集地帯を指差す。
「この一帯は、前のサイクルで残されたものよ」弥生が投影された地図の横に立ち、指を滑らせる。「ここ、ここ、そしてここ――この古い祠の近辺は、三ヶ月前に霊務局が調査済みよ。自然衰退と結論づけられたけれど、数値が合わないわ」
「……どう合わないんだ?」老高が問う。
「自然衰退なら、外側から内側へ収束していくはずよ。けれどこの数値は、中心から外側へと拡散しているわ」弥生は言った。「――誰かが、内側から細工をした形跡よ」
数秒の沈黙。
エリスが手帳に何事かを書き込む。何語かは判別できないが、おそらく古ノルド語だろう。
「この祠の形……」希が座標を覗き込む。「似たような場所を見たことがあるわ。大武山の起点と形状が酷く似ている。違うのは、あちらは地底から突き上げていたけれど、こちらは『横』だわ」
「……横、とは?」葉 綺安が尋ねる。
「横というのは、奴が試射をしているという意味よ」希は言った。「引き抜いているんじゃない。射程を測っているのよ」
午後いっぱいかけて地図を二度精査し、老高が自衛隊の動員可能な封鎖ポイントをマークした。エリスがルーンのカバー範囲を確認し、林雨瞳がすべての数値を再計算する。彼女は霊務局の報告書にある二つの地点の密度換算にミスがあると指摘した。捏造ではなく、旧式の公式を用いたせいだ。現在の数値を出すには一点三倍する必要がある。
その後、霊務局の白石から電話があり、林雨瞳の指摘が正しいことを認めた。二つの地点の実際の密度は報告よりも高く、今夜中にデータを更新するという。
林雨瞳は電話を切ると、特に感慨もなさそうに、修正後の数値を自作の表へと書き込んでいった。
葉 綺安が隣に座り、しばらく彼女を凝視していた。
「……何を考えてるの?」
「ワイスマンがこのラインに沿って侵攻してきた場合、私たちに何時間の猶予があるか計算していたのよ」
「……結論は?」
「想定より四時間、短いわね」
午後九時。大半のメンバーはそれぞれの部屋へと散っていった。
廊下は静まり返り、空調の稼働音と、遠くを走り去る車の音だけが残された。
俺は自室で椅子に座り、霊務局から渡された資料のサマリーを傍らに置いていた。明かりは点けていたが、もはや文字を追うことはしていなかった。
ノックの音がした。二回。重みはない。
「……入れ」
ドアが開いた。林雨瞳だった。
着替えたらしく、昼間よりは薄着だ。髪は無造作に下ろされ、手には保溫瓶を持っている。背後の廊下の照明が、彼女の輪郭を逆光で浮かび上がらせていた。
「入ってこいよ」俺は言った。「そこに立って何してるんだ」
彼女は入室し、ドアを閉めた。
「……寝ないの?」
「……目が冴えちまってな」
「資料を横に置いているからよ」彼女は床頭台にカップを置き、俺の隣に腰を下ろした。そして、その紙束を無造作に裏返した。「眠れない時に資料を読んでも無駄よ。ただ視線でなぞっているだけで、脳は停止しているわ」
「……なら、あんたは何しに来たんだ?」
彼女はその問いには答えず、資料を視界の外へ――床の上へと放り出した。
「士達」彼女が言った。「……今、頭の中では何を考えてる?」
「東地区の数値と、古い祠の横方向への拡散が――」
「そんなこと、聞いてないわ」
俺は口を噤んだ。
彼女がこちらへ寄ってきた。飛びついてくるのではない。彼女特有の、一つ一つの動作の重みを確かめるような、緩慢で、それでいて迷いのない動き。至近距離まで近づいた彼女の肩から、熱が伝わってくる。
「……どれくらい、張り詰めているの?」
「……かなりな。だが、まだ死ぬほどじゃない」
「そう。ならいいわ」彼女は言った。「……少し、私に時間を頂戴」
林雨瞳という女の「補魔(魔力供給)」のやり方は、何というか、実に彼女らしいスタイルだった。
彼女は最初から最後まで、ひどく理性的だった。熱に浮かされて我を忘れるようなことはなく、常に意識が覚醒し、すべての所作が計画表を完璧にこなしていくかのような――ある種の潔癖さと精密さ。苛立ちすら覚えるほどだが、その正確さに抗うことはできない。まるで、大学時代にこの手の「理論」をすべて修得済みであるかのような手際の良さだ。
事後、俺が言える感想はただ一つ。――「元・会計士」という肩書きは、伊達じゃなかった。
彼女は俺の身体で「計算」を行い、そしてそれは恐ろしいほど正しかった。
事が終わり、二人は並んで横たわっていた。彼女は俺の肩に頭を預け、呼吸を整えている。回復速度は俺より早い。
部屋は静寂に包まれていた。窓の外では風が吹き、空調が温度を低く保っている。寒さは感じないが、意識は研ぎ澄まされていた。
「……ねえ」林雨瞳が言った。眠りに落ちる寸前の、それでいて自分の声に引き戻されたような掠れた声。「初めてあなたに会った時、直感したわ。あなたは将来、とんでもない『厄介事』になるって」
「……なら、あの時逃げればよかっただろ」
「逃げたわよ、忘れたの?」彼女は言った。「二回逃げて、最後は逃げられなくなった」
「……どうして逃げられなかったんだ?」
彼女は数秒間沈黙し、こう漏らした。
「……あなたが、私に借金を作ったからよ」
「……例の、数百万のやつか?」
「あんなの、関係ないわ」彼女の声が沈む。「……あなたが私に負っているものは、もっと重いのよ」
俺はそれ以上、問い返さなかった。
彼女の呼吸が遅くなり、深く、安定した眠りへと落ちていく。
俺は明かりを消した。窓の外、東京の灯火はなおも輝き続けていた。
Day 2|T-48h|09:14
翌朝、老高が霊務局の更新データを持ってきた。白石 亜紀が修正した数値によれば、東地区の二地点が「橙色警戒」に引き上げられていた。当初は黄色だった場所だ。
「昨夜、また動いたわ」弥生が新旧のデータを照合しながら告げた。「奴は測っている」
「……何をだ?」海自の松浦 宏が、遠隔通信のスピーカー越しに問いを投げた。
「反応時間よ」弥生は淡々と返す。「私たちの感知速度を計り、それに合わせて侵攻速度を調整するつもりよ」
通信の向こう側で短い沈黙が流れた。「……つまり、こちらの監視を逆手に取っているということか」
「最初からバレているわ」エリスが断じた。「そんなことはどうでもいい。重要なのは、奴が動作を収束させていること。つまり、入場時間を決めたということよ」
俺は顔を上げた。「……奴はいつ来る?」
「T-22からT-18の間」エリスは言い切った。「それより早くはない。アンカーの確認が必要だから。それより遅くもない。それ以上遅れれば、結界は完全に閉塞してしまうからよ」
老高がホワイトボードにタイムラインを刻んだ。「……なら、俺たちの勝負所はその四時間ってわけか」
二十時間。俺はその数字を脳内のメモに刻んだ。計算ではない。ただ、その時間の重みの「無さ」を自分に叩き込んだだけだ。
午後、メンバーは再び各々の任務へと散った。
老高は桐島と封鎖プロトコルの最終確認へ、葉 綺安と林 小葳は東地区の「橙色警戒」地点へ実地測量に向かった。エリスとアピスは共有エリアのルーン防衛線を再編する。アピスは文字通り、足のつかないパトロールに奔走していた。材料を運び、死角のエネルギー漏洩を確認し、エリスへの報告を繰り返す。
「そこの自販機が邪魔で標記が打ち込めぬ!」とアピスが騒ぎ、エリスに「裏から回り込みなさい」と一蹴されていた。
その五分後、自販機の裏から「ドスッ」という鈍い音が響く。
「……生きてるか?」廊下から小葳が顔を出した。
「本精霊、健在なり!」アピスが埃まみれの翅を羽ばたかせて這い出してきた。「死角に足を取られたが、標記は完了したぞ」
小葳の「お疲れ」という短い返事を聞き届けると、アピスは自販機のコイン返却口を未練がましく覗き込み、何も入っていないことを確認してふいと飛び去った。
希は午後、共有スペースで刀を研いでいた。
あの台東から持ち帰った「番刀」だ。普段は鞘に収められているが、今は外聞を気にする状況でもない。彼女は静かに、そして確実にその刃を研ぎ澄ましていた。
向かい側に座る俺は、その手さばきを見つめていた。静かで、ぶれがない。山で生きる者特有の、全ての力が最適解へと収束していく動きだ。
「……牛小琴は何て言ってる?」俺が尋ねる。
希は目を上げない。「……東地区のあの地点、見覚えがあるって」
「見覚え?」
「あれは『あちら側(冥界)』の手法。生者の力じゃないわ」希は言った。「……彼女がいれば、誰の仕業か特定できるはずよ」
「……名前は?」
「……顔は知っているけど、名前は知らないって」
魔法瓶に動きはなかったが、青い蓋の瓶の温度がわずかに下がった。確信のサインだ。
希は刀を裏返し、研ぎを続ける。「……士達、あんたの残弾はあとどれくらい?」
「……まあ、なんとかなる」
「……足りない時は言いなさい」彼女は言った。「……私は、構わないから」
進捗報告のような、情緒を削ぎ落とした事務的な口調。それが彼女という人間だった。
そしてその夜の出来事は、俺の予想をわずかに超えていた。
希のそれは、昼間の刀の手入れと酷く似ていた。――着実で、静止せず、根の深い力が常に一定の圧をかけてくる。抗うことはできず、その必要もない。ただ、彼女が導く地脈のような流れに身を任せるだけだ。
俺が何かを口にしようとした時、彼女が制した。
「……喋らなくていいわ。あんたが喋ると、計算が狂う」
俺は口を噤んだ。
以降、事が終わるまで、静寂だけが部屋を支配していた。
やがて彼女は身を起こし、無造作に髪を掻き上げると、一瞥をこちらにくれた。
「……足りた?」
「足りたわ」彼女は言った。「あんたは?」
「……俺には魔力なんてない。ただの好奇心よ」
「……何の好奇心だよ?」
「このシステムエンジニアっていう生き物が、一体何をリソースにして動いているのかしらってね」
俺は数秒間、沈黙した。「……結論は?」
彼女は少し考え、「……予想よりは、使い物になったわ」
言い終えると彼女は浴室へと消えた。俺は横たわったまま、消灯された暗い天井を見つめていた。枕元に置かれた青い蓋の魔法瓶が、いつもより僅かに熱を帯びているのを感じる。牛小琴に何か言い分があったとしても、彼女はそれを口にすることはなかった。
Day 3|T-24h|07:33
三日目の朝。エリスは共有エリアのテーブルに、一列のルーン石を並べていた。左から右へ、寸分狂わぬ間隔で配置された石の列を、彼女は動かずにただ凝視している。
俺が中に入ると、彼女は顔を上げた。「東地区のあの祠、昨夜の熱反応が四分から十七分に延長されたわ」
「……昨夜のいつだ?」
「午前三時から三時四十分の間よ」
俺はお湯を沸かし始めた。「……ずっと見ていたのか?」
「寝ていたわよ」彼女は言った。「……石が私を叩き起こしたの」
傍らでアピスが煎餅の袋から顔を出し、「……本精霊も感知したぞ。もっとも、本精霊は夢だと思っておったがな」
俺はノーコメントを貫き、沸いた湯をカップに注いでコーヒーが落ちるのを待った。
老高が入ってきて、プリントアウトされた封鎖計画書をテーブルに叩きつけた。「陸自の確認が取れた。東地区の外縁路は今朝六時から規制が始まってる。名目は地下埋設管の緊急修繕、予定期間は三十六時間だ」
「……市民は納得してるのかしら?」葉 綺安が、林 小葳と共に買ってきたばかりの温かい弁当を抱えて入ってきた。
「納得するかどうかなんて関係ねえ。すでに執行されてるんだ」老高は言った。「今朝目覚めた東京市民は、東地区の七つの交差点がバリケードで封鎖されているのを目の当たりにしているはずだ」
「……ネット上の反応は?」
「昨夜から荒れ始めてる」
「……どれくらいだ?」
「俺が最後に見た時は四千二百件を超えてた。今はもっとだろうな。土地の買収だの、BOT開発だの、大財閥のための地上げだの、好き勝手言われてるよ」
「……オカルト関係の書き込みはないのか?」
「あるにはあるが」老高が言った。「三回削除されて、四回目が今も残ってる状態だ」
俺はコーヒーを一口啜った。熱く、そして苦い。砂糖を入れる習慣はないし、今この瞬間は特にそんな気になれなかった。
T-22h。
エリスが並べたルーン石の配置が、変質した。
一番左の石が、右側へ三ミリほど移動している。彼女が動かしたのではない。
彼女はノギスを取り出し、その移動距離を正確に測定した。三・一ミリ。
「……信念場が移動を開始したわ」彼女の声が低くなる。「――奴が、方向を選んだわね」
「……東か?」
「北東よ。地下を通ってる」
俺はその情報を松浦 宏に伝えた。通信の向こうで沈黙が走り、彼は「湾口方面の数値を再確認する」とだけ答えた。
隣にいる弥生の手がテーブルに置かれていた。手のひらを下に向けたその指先から、微かな「流れ」が伝わってくる。熱ではない。術者が領域を感知する際に生じる、微弱な電流のような感覚だ。
「……何を感じてる?」
「……奴は護国結界の薄い場所を探っているわ」彼女は言った。「攻撃じゃない。壁を撫でているのよ。暗い部屋に入った人間が、まず壁の感触を確かめ、進むべき方向を決めるように」
「……まだ決めてないのか?」
「……もうすぐ決めるわ」
午後四時。
俺は自室に入り、ドアを閉めた。ベッドに横たわり、二十分ほど目を閉じる。眠るためではない。脳内を一度空にするための儀式だ。
二度のノック。そして弥生の声がした。「私よ」
「入れ。鍵はかかってない」
嘘をついた。さっき確かに施錠したはずだった。だが確認すると、鍵は開いていた。俺がそう思い込んでいただけだったらしい。
弥生が入ってきた。いつもの薄い布包みを抱えている。彼女はそれを手放そうとはしなかった。ドアを閉め、彼女はベッドサイドに立ち、俺を見下ろした。
「……寝ていないのね」
「……試してみたが、ダメだった」
「……思考が止まらないの?」
「……空回りしてるよ」
彼女は布包みを脇に置き、ベッドの端に腰を下ろした。至近距離。膝の上に置かれた彼女の手は微動だにせず、ただそこに静寂が同居していた。
「……覚えているかしら」彼女が口を開いた。「大湊で、船に乗る前。あなたは『余計なことを考えるな』と言ったわね」
「……言ったな」
「……あの言葉を、ずっと考えていたわ」彼女は言った。「……あなたは、これより困難な局面を何度も乗り越えてきたと言った」
「……ああ」
「……それは、本当?」
「……半分は本当で、半分はハッタリだ。どれがどっちだったかは、もう覚えてないがな」
彼女は小さく笑った。彼女がめったに見せない、短く、不意を突かれたような純粋な笑いだ。作り笑いではない、心からの反応。
「あの……」彼女は言いかけ、止まった。
俺は首を傾けて彼女を見た。「……言えよ」
彼女は視線を落とし、自分の手を見つめた。「……一つ、聞きたいことがあるの。でも、笑わないで」
「……笑わないよ」
「……約束して」
「……弥生、何を聞きたいんだ?」
彼女の耳の付け根が、赤く染まっていくのが分かった。あの円卓会議で言い放った時と同じだ。だが、あの時は二十人以上の官僚の前で、今は二人きりの部屋。灯りは点いたままで、窓の外には東京の午後が広がり、車の音と鳩の羽音だけが聞こえていた。
「……私、あなたが今『補給』を必要としているのは分かっているわ」彼女は言葉を慎重に選んだ。「……私には、経験なんてないけれど。でも……」
後半の言葉を、彼女は口にしなかった。
その必要もなかった。
神代弥生という件について、ここで明確にしておかなければならない。
彼女には駆け引きも技巧もなかった。ただ、それが「初めて」であり、自分でもそれを自覚しているがゆえの、極めて真摯な、一点に執着するような集中。それは彼女が古い祠の数値を読み解く時の眼差しと、酷く似ていた。
俺の動作は、いつもよりずっと緩慢になった。
急げなかったのだ。彼女のあの真っ直ぐな反応の前では、速度を上げることなど不可能だった。虚飾のない、剥き出しの真実。それらを一つとして聞き逃したくない、見逃したくないという本能が、俺にブレーキをかけさせた。
やがて、彼女は俺の肩に顔を埋めた。乱れた、不均一な呼吸。彼女自身も、自分の身体が震えていることに気づいていただろうが、それを言葉にすることはなかった。
「……大丈夫だ」俺は言った。
「……分かっているわ」彼女の声は微かに曇っていた。「……ただ、知らなかっただけ。こういう『感覚』があることを」
「……どんな感覚だ?」
彼女はしばらく沈黙し、こう漏らした。
「……誰かが、ここにいるという感覚よ」
彼女の背に手を置いた。その背は驚くほど細く、肩甲骨の感触が指に直に伝わってくる。余分な肉を削ぎ落とした、長年術師として生きてきた者の身体。多くのものを擦り減らし、それでもなお、ここに在り続けるための身体だ。
「……ずっと、ここにいるよ」
俺がそう告げると、彼女はそれ以上、何も言わなかった。十分ほどして、彼女の呼吸が深い眠りのリズムへと変わったのを確認した。
その夜、俺は眠らなかった。
眠れなかったのではない。眠らないことを、自ら選んだのだ。
窓際に座り、更新されたばかりのデータをもう一度精査する。北東方面における信念場の移動は確定。エリスの最新のルーン観測によれば、T-6からT-8の間に、前兆となる広域干渉信号が発生するはずだ。老高の封鎖プロトコルはすでに準備が整い、自衛隊の三部隊も即応体制に入っている。
すべては軌道の上。
資料を置き、窓の外へと視線を投げた。
視界を遮る隣のビル。その窓のいくつかに、まだ灯りが点っている。残業に追われる者、あるいは眠りにつく前にスマホを眺める者。午前二時の東京は、今もなお呼吸を続け、脈打っている。地底で一人のドイツ人が自らの「壁」を執拗に撫で回していることなど、露ほども知らずに。
スマホが一度、短く震えた。
メッセージの送り主は、海上自衛隊情報部の松浦 宏。
【松浦 宏】01:54:「提督が伝言を。上陸を要求している」
俺はその数文字を、数秒間凝視した。
そして、短く返信を打つ。「……いつだ?」
【松浦 宏】01:55:「今朝だ。早ければ早いほどいい。ワイスマンに関わる事案であり、船上では語れぬことだと言っている」
スマホを置き、さらに一分間、窓の外を見つめた。
街の灯は、まだ消えない。
俺は上着を掴んで羽織ると、部屋を出て、老高のドアを叩いた。
山口 上陸
午前五時四十分。港区、某貨物ターミナル入口。
政府側からは桐島、雨宮、白石、そして三名の自衛官。さらには藤堂 知事の姿もあった。彼もまた、眠りとは無縁の夜を過ごしたのだろう。手にした魔法瓶はそのままに、その表情は円卓会議の時よりも色濃く疲労を滲ませていたが、瞳の奥に宿る光だけは鋭く研ぎ澄まされていた。
我ら側は老高、林雨瞳、エリス、弥生、そして俺。
埠頭には霧が立ち込めていた。東京湾特有の、朝の湿った霧。それは薄く、それでいて十メートル先の景色を曖昧にするには十分な密度を持っていた。
一隻の小艇が接岸する。
灯火もなく、エンジン音すら聞こえない。それは霧の向こうから唐突にその姿を現した。深い色の、沈み込むような輪郭。
やがて、甲板の上に一人の男が立った。
歩いてきたのではない。通常の物理的な移動手段を用いたわけでもない。彼はただ、船上の位置から、気付いた時には埠頭の上に立っていた。映像のジャンプカットのように。瞬きをした刹那、彼は俺たちの五歩手前の地点へと「転位」していたのだ。
陸自の橋爪が、反射的に腰のあたりへ手を伸ばし、そして止まった。そこには武器などない。今日は平服での会見だ。分かってはいても、身体が勝手に反応したのだ。戦士としての本能が。
海自の松浦 宏が、思わず半歩後ずさりした。
桐島慎二は踏みとどまったが、その顔色は尋常ではない。恐慌というよりは、人類としての本能が「眼前の存在は同じ系譜に属していない」と警告を発しているのだ。脳は理解しているが、身体がその事実との乖離を埋められずに遅延を起こしている。
知事は魔法瓶を握る手に力を込めた。
沈黙。
俺たちの前に立つ男。五十代半ばの外見、海軍制服。それは異常なほど整い、清潔だった。だが、その清潔さこそが異様だった。東京湾の湿った朝霧の中に立っていながら、その軍服には皺一つなく、湿気すら吸っていない。まるで、たった今収蔵庫から取り出されたばかりの展示品のように。
その貌もまた、正しくなかった。歪んでいるのではない。歳月が肌の上を通り過ぎた痕跡が、まるでないのだ。五十代の造作を持ちながら、その瞳の奥には生身の人間には宿り得ない「何か」が沈殿している。底の知れない井戸のような、深い闇。
彼は俺たちを見つめていた。
俺たちも、彼を凝視していた。
やがて、彼の視線が自衛官たちの方へと一度流れ、再び戻ってきた。
彼は、重々しく溜息を吐いた。
それは長く、沈み込むような一息だった。数十年の堆積物を一気に吐き出したかのような質量。しかし、それは全てを出し切ったわけではなく、ただその「分量」を誇示するための予兆に過ぎなかった。
「……山口 多聞だ」彼は言った。
声は正常だった。掠れてもいなければ、空洞に響くようなこともない。ただ一人の男としての声だ。だが、この霧深い埠頭において、その響きは周囲の空気の比重をわずかに、しかし確実に変質させた。
桐島慎二の唇が動いたが、声にはならなかった。
「……この名に」山口は続けた。その声は平穏で、皮肉ではなく、純粋な問いに近い響きを帯びていた。「……聞き覚えのある者は、この中にいるか?」
雨宮 静が口を開く。「……大和田機動部隊――」
「左様」山口が頷く。「大和田機動部隊だ」
彼は半歩横へ避け、埠頭の縁から東京湾の方角を一度見やった。「……私は昭和十七年六月五日、ミッドウェーにて没した。雷撃処分を受けたあの『飛龍』を、私は去らなかった」
沈黙が広がる。
「……今は」彼は空の角度を測るように見上げ、「……二〇二六年か?」
知事が答えた。「……そうだ」
山口は短く頷いた。情報を確認したのではなく、その事実を咀嚼し、自身の内に定着させるための動作だった。「……八十余年か。長いものだな」
桐島がようやく声を絞り出す。震えを隠しきれない声だ。「……あ、貴方は、まさか、あの――」
「……その『あの男』だ」山口が断じた。
自衛官の三人が互いに視線を交わし、最後は松浦を凝視した。――「指揮官、指示を」という無言の訴え。だが松浦に指示を下す余裕はなかった。彼の顔にも、他のみんなと同じ「致命的な遅延」が張り付いていたからだ。
知事の藤堂が喉を鳴らした。「……よろしい。山口提督。貴公には話すべきことがあると言ったな。伺おう」
この場で最初に「平時」へと復帰したのは、彼だった。
山口がこちらへ向き直り、知事を見据えた。「……ワイスマン。ハインリヒ・フォン・ワイスマンだ。リヴァイアサンの」
「……その男の名なら知っている」老高が言った。
「……では」山口が問う。「奴が最初に『召喚(呼び出した)』のが誰であるか、貴殿らは把握しているか?」
沈黙。
「……私だ」山口が言った。「奴が最初に声をかけたのは、この私だ」
埠頭の霧が、心なしか濃くなった気がした。あるいは、俺の錯覚か。
「奴は言ったよ。日本の護国結界は、日本を縛り付ける鎖に過ぎないと」山口の声は平坦だった。まるで、とっくに整理のついた古い報告書を淡々と読み上げるかのように。「結界さえ壊せば、ミッドウェーの屈辱は雪がれ、旧き日の傷跡をすべて裏返せると。……奴は私に、結界の破壊を手伝えと唆した。そうすれば、すべてをやり直せると」
桐島慎二が声を絞り出す。「……答えたのか? 貴方は」
山口は彼を一瞥し、即座には答えなかった。
やがて、彼は小さく笑った。
嘲笑でも苦笑でもない。それは、ある事象の真理を看破した者だけが浮かべる、あまりに旧く、そして儚い笑みだった。
「……首を横に振ったよ。奴が何を求めているのか、その時すでに理解していたからな。奴の目的は、復讐などという安いものではなかった」
「……ならば、奴の狙いは何だ?」知事が問う。
山口の貌から、一切の温度が消えた。
笑みが消えた次の瞬間、表情が塗り替えられる。その沈み込みは内側から滲み出し、まるで巨石が水底へ沈むかのように、彼の存在そのものの質量を重くさせた。
彼はその場にいる全員を、政府側から俺たちの方までゆっくりと見渡し、最後に知事へと視線を固定した。
「……護国結界の破壊など、奴にとっては第一歩に過ぎん」
霧は晴れず、東京湾は沈黙を保ったままだ。空は白み始め、夜明けの気配が混じり出す。しかし、それは光ではなく「灰色の停滞」だった。
「ワイスマンはな」山口が、埠頭の隅々まで響き渡る低い声で宣告した。
「……東京都の全人口を、生贄にするつもりだ」
誰一人、声を上げられなかった。
冷徹な声が続く。
「――奴は、リヴァイアサンを召喚ぼうとしている」
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




