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S2第八十一章 任務完了

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

車は、俺の知らない名前の通りで停車した。

 助手席の連絡員はエンジンを切らず、ただ前を見つめたまま三秒ほど沈黙し、それからようやく口を開いた。「これより先は、あなた方の領域です」

 俺は窓の外を仰いだ。

 ここはさっきの古い建物よりもさらに深く、暗く、そして――たとえ白昼に通りかかったとしても、ただの行き止まりの路地だとしか思わないような場所だった。無人ではない。意図的に「近づく必要がない」と思わせるような気配が漂っている。両脇の古い壁には苔がむし、街灯の光は一端で断ち切られ、その先には灯火の一つもありはしない。中央の狭い路地を奥へと進むと、突き当たりには古い石造りの門枠があった。その枠の中に、過剰なまでの厚みを持った木製の門が鎮座している。木肌は幾世代もの水に浸されたかのように黒ずみ、現代的な鍵も、標識も、設備も一切ない。ただ、頂部から底部まで一直線に走る継ぎ目と、枠と同化して判別もつかないほど古びた銅板があるだけだ。

 車を降り、その門へ歩み寄る。

 近づくにつれ、足の裏から「感覚」が伝わってきた。地震の揺れではない。耳を澄ませば、地底の奥深くで何かが低周波の振動を上げているのが分かる。まるで、地表から遥か深淵に設置された、巨大で、あまりにも旧い機械が、今まさに起動したかのような。

 (シキ)が俺の隣に並んだ。タブレットの波形はすでに基準線を見失うほどに乱れている。彼女は二秒ほどそれを見つめ、口端を引き結んだ。

「……あなたがお出ましだって、気づいているわね」

「まるで歓迎されてるみたいな言い草だな」

「歓迎じゃないわ」彼女は言った。「ただ、ずっと待っていて、今、認識しただけ」

「歓迎」と言われるより、よっぽど頭皮が粟立つセリフだ。

 (リン)さんが門の前に立ち、手を伸ばしたが、木面に触れる直前で止めた。手のひらを上へ向け、目に見えない何かの温度を測るような仕草。

「外層の封印(シール)は、すでに消失しているわ」

「いつの間に?」

「六本の釘が座に収まった瞬間よ」彼女は手を引いた。「あの封印は人が施したものではない。こいつ自身が閉じていたもの。六本が戻ったことで、自ら一層分を開いたのね」

「待てよ」老高(ラオガオ)が口を挟む。「つまり、この門はずっとこいつ自身によって施錠されていたってことか?」

「鍵じゃないわ」林さんは振り返った。「あなたを知らなかっただけ。今はもう、知っている」

 老高が、珍しく一拍ほど沈黙した。

 俺は門の前まで進み、その表面に手を置いた。

 木門は想像以上に冷たかったが、死物の冷たさではない。長時間眠らずにいた人間が保っている、あの生きている低体温だ。掌を押し当てた瞬間、地核から伝わってくるような極めて低い脈動が、木肌を通じて伝わった。一定の、そして重い。心拍よりも遅く、そして深い。

 そして、門が動いた。

 重低音の響きはない。

 ただ、中央の継ぎ目が左右へと一寸ずつ後退した。二つの古い巨石が互いを認識したかのような、短く乾いた摩擦音。それから、門はゆっくりと内側へと道を開いた。パスワードも、鍵も、現代的な認証も必要ない。ただ、いつか現れると告げられていた者が、その手を置くのを待っていたのだ。

 刹那、内側の「気」が溢れ出した。

 冷たい。だがエアコンのそれではない。長年閉ざされていた地底の、石の気配と、古い木材と、堆積した湿気。そして――名も知らぬ、もっと(いにしえ)の何かが混ざり合った臭気。大きく息を吸い込むと、鼻腔から肺の奥までが凍てつく。第六本目を手放してようやく緩みかけていた呼気が、再び硬く強張るのを感じた。

 目の前には、下方へと続く廊下があった。

 さっきの階段よりもさらに狭く、深い。石積みの壁の隙間には、石材と見分けのつかない黒い何かが層を成している。等間隔に配置された灯火は、電灯ではない。ガラスの覆いの中に、見たこともない燃料で灯された旧式のランプだ。その橙色の(くま)が、廊下を「獲物を待ち受ける長い長い喉」のように見せていた。

「……クソが」俺は呟いた。

「どうした?」老高が尋ねる。

「何でもない。ただの愚痴だ」

 深く呼吸し、内側へと足を踏み入れる。

 一歩進むごとに温度は下がり、逆にあの低周波の振動は鮮明になっていく。足裏に響くそれは、機械というよりは、もっと古く巨大な「存在」そのものだ。闇の中で自らの存在を極限まで押し殺し、呼吸すら聞こえるほどの静寂の中で、俺が目の前に辿り着くのを待っている。

 三分ほど歩いたところで廊下が折れ、視界が唐突に開けた。

 広いのではない。「高い」のだ。

 先ほどの承座室を遥かに凌ぐ高さを持つ、円柱状の空間。頂部は見えず、完全な漆黒へと消えている。壁に沿って配置された古い灯火だけが、階層を成して上方へと連なり、遠ざかるにつれて小さくなっていく。まるで天へ向かって掘り進められた「逆さまの井戸」だ。

 中央の床には、地面と地続きになった円形の領域。外周は石で構成され、その表面には、さっきの承座よりもさらに密で、古く、そして――何かを生きながらにして釘付けにしたかのような、悍ましい紋様が刻まれていた。

 その円形の正中央に、一条の亀裂があった。

それは単なる亀裂ではなく、意図された設計だった。左右対称のその造作は、床そのものを巨大な扉と見立てたかのように、中央の縫い目から紋様が放射状に広がっている。床全体がその「門」の延長戦上にあるのだ。縫い目の縁からは、微かな光が漏れ出していた。金色ではない。もっと古びた白――深淵から滲み出すような「旧白(アンティーク・ホワイト)」だ。その奥には何かが潜んでおり、まだ完全には微睡みの中に落ちていないことを示唆している。

 入り口に立ち、俺はその隙間を見下ろした。脳内に浮かんだのは、身も蓋もない一言だ。

(……マジかよ)

 門樁(アンカー)未だ固まらず。

 比喩ではなかった。文字通り、物理的な意味で「門」がここに存在し、そして未だ固定されずに立ち往生しているのだ。

 一歩踏み出すと、隙間の光が微かに明滅した。さらにもう一歩。また明滅。まるで侵入者が待ち望んでいた「その人」かどうかを、一歩ごとに執拗に確認しているかのようだ。

 背後で老高(ラオガオ)が低く呟く。「……認別(アイデンティファイ)を開始したぞ」

「分かってる」

「どうやって固定(フィックス)するつもりだ?」

 俺は(シキ)を振り返った。

 彼女が凝視するタブレットには、もはや無秩序な波形ではなく、見たこともない図形が描かれていた。外側へと展開していく幾重もの光輪。彼女は顔を上げ、一秒だけ俺と視線を交差させた。

「……あなたが固めるんじゃないわ」

「じゃあ誰がやるんだよ」

「……あいつがあなたを認定し、自ら固まるのよ」

 俺はその隙間の前に立ち、下方を見つめた。未だ完全には閉ざされぬ旧き門。地底から突き上げてくる低周波の振動が足裏を伝い、俺の喉元まで這い上がってくる。上着の内ポケットにある山口(ヤマグチ)の遺品が、今までになく冷たく主張し始めた。まるで「俺はまだここにいるぞ」と警告するかのように。

 俺は膝をつき、隙間の傍らにある紋様へと手を置いた。

 世界が、一拍だけ静止した。

 刹那、隙間の両脇にある紋様が一斉に輝きを放った。縁から始まり、一層、また一層と外側へ拡散していく光。掌からは、地底の骨組みが組み替えられるような、強烈で深遠な「力」が伝わってきた。痛みではない。ただ圧倒的な「(プレッシャー)」だ。その凄まじい質量に、指一本動かすことすら拒絶されるような重圧。しかし、それは俺を排除しようとしているのではない。この「重量」を支えきる器があるかどうかを試しているのだ。

 俺は動かなかった。

 ただ、その重みに耐え、踏みとどまる。

 門の隙間から溢れる光は輝度を増し、円形の床面全体が旧白の光に飲み込まれた。その光は壁を伝い、階層を成す灯火を次々と点火しながら、頂の見えない闇の深淵へと這い上がっていく。

 耳元で、音が響いた。

 「カチッ」という乾いた音ではない。

 それは、巨大な岩石と岩石の間にあった空気が完全に押し出され、密着した瞬間にのみ生じる、重く低い――「ドムッ」という沈黙の音だった。

 そして、隙間が閉じた。

 消失したのではない。両側から中心へと収束し、最後には髪の毛一本分ほどの細い線だけを残して「合致」したのだ。その線は淡く発光し、まるで縫合されたばかりの「傷跡(スカー)」のようにそこに刻まれている。

 それは、門が閉ざされたことを示し、同時に――かつてそこが裂けていた事実を、永久に記憶させるための(しるし)だった。

 地底を揺るがしていたあの振動が、消えた。

 消失したのではない。さらに深い深淵へと沈み込み、耳を澄ませなければ聞こえないほどの、極めて微かな低鳴へと変質したのだ。空間の気圧が揺らぐ。先ほどまでの、呼吸すら許されない緊迫感が、巨大な建築物が自らの自重を大地へと預け、安定した時のような、確かな「踏実(とうじつ)」へと転換された。

 俺は床から手を引き、立ち上がった。

 掌は痺れているが、熱はない。今度こそ、あの焼き切れるような熱は去った。

「……固まったか?」老高(ラオガオ)が問う。

「固まったわ」(シキ)がタブレットを見つめたまま、その声音に初めて別の色を混ぜた。「外周は安定、内城門樁(ないじょうもんとう)は固定。(システム)全体が成立(エスタブリッシュ)した」

 (リン)さんは壁にそっと手を触れ、目を閉じて、ささやくように言った。

「……ありがとう、と言っているわ」

「誰がだよ?」

「この場所よ」彼女は手を離し、淡い光を放つ細い縫い目を見つめた。「その感謝は古いもの。今夜生まれたんじゃない。ずっと、誰かがこの仕事を完遂してくれるのを待ち続けて、ようやく零れ落ちた言葉よ」

 俺はその隙間の前に立ち、しばらくそれを見つめていた。

 そして、山口多聞(ヤマグチ・タモン)のことを思い出した。

 あの旧軍港での最初の第一声。あの釘を示した時の横顔。陸奧(むつ)の副桟橋で規律を語り、「旧軍は入城せず」と説き、そして俺が船を降りる際、あの「得体の知れないブツ」を押し付けてきた時の姿。――「見つからなければ捨てても構わん」などと、本心とは程遠い無頓着さを装っていたあの老いぼれを。

(……チッ。あのクソジジイ、最初からここがゴールだって分かってやがったな)

 俺は上着の内ポケットを弄った。遺品はまだそこにある。冷たい。だが、先ほどまでの「死」を想起させる凍てつきは消え、代わりに、極めて細い――時計の歯車が一目盛り分だけ進んだような、微かな熱を帯び始めていた。

 俺は余計な思考を振り払い、出口へと視線を向けた。

「行くぞ」俺は言った。「ここでの仕事は、もう終わりだ」


 地上では、東京という都市が二度目の「異響」を奏でていた。

 一度目よりも軽く、言葉に尽くしがたい響き。最初が地底からの衝撃であったなら、二度目は、遥か深淵で何かが静かに「閉じられた」ような感覚。読み終えた本が最後の一ページを閉じるように。開いたままだった戸棚が、誰かの手でそっと閉められたように。あるいは、横たわった瞬間に「鍵はもう、あるべき場所に戻したのだ」と思い出した時のような安堵感。

 誰もが気づいたわけではない。だが、それを感じ取った者たちの証言は、奇妙なほど一致していた。

 レインボーブリッジの上。二時間近くも渋滞に囚われていたタクシーの運転手が、ふと呟いた。渋滞への罵倒よりも軽く、おやすみの挨拶よりも厳かな口調で。「……なんだか、軽くなったな」

 後部座席の客は、何が軽くなったのかを問おうとして、自分もまた同じ感覚を抱いていることに気づいた。説明はつかない。ただ一秒前、肩にのしかかっていた重荷が消え去ったような、そんな感覚。

 お台場海浜公園。愛犬を連れてナイトランをしていた女は、連れていた犬が鼻を鳴らすのを止めたことに気づいた。海上にあの三隻が現れてから、その犬はずっと怯え、同じ場所を回り、彼女を反対方向へ引きずろうとしていた。だがその瞬間、犬は足を止め、その場に座り込んだ。首を東京の内陸へと向け、静かに数秒間見つめた後、遥か遠くの虚空に向けて短く、一度だけ吠えた。

 女は後にSNSでこう綴った。――あの鳴き声は警告でも興奮でもなく、まるで誰かに「挨拶」をしているかのようだった、と。

 晴海(はるみ)にある高層マンションの十五階。就寝前に窓を開けるのが習慣だった老人は、その時刻、唐突に目を見開いて飛び起きた。悪夢でも、騒音でもない。ただ、何年も耳元でささやき続けていた「何か」が、突然黙り込んだのだと感じた。そのささやきの内容は一度も理解できなかったが、「沈黙」したという事実だけは明瞭だった。隙間風を吹かせていた窓が、外側から誰かの手で、ついにぴたりと閉められたかのような沈黙。

 彼は暗闇の中でしばし佇み、最後に独り言を漏らした。

「……済んだのかい?」

返答はなかった。

 しかし、その沈黙はどんな言葉よりも深く、男を安堵させた。

 彼は再び横になり、瞬く間に眠りへと落ちた。それは、ここ数十年で最も穏やかな安らぎだった。

 ネット上の第二波は、第一波よりも静かで、そしていっそう混乱していた。何が起きたのかを断定できる者は誰もいない。しかし、多くの人間が、共有(シェア)というよりは自問に近い投稿を同時に発信し始めていた。

『……今の、また動いたか? さっきとは違う感じだ』

『気のせいじゃないよな。何かが「終わった」気がする』

『東京は今夜、定期メンテナンスでもやってるのかよ。一晩中これかよ』

『おばあちゃんが、何かが「閉まった」音がしたって言ってる。ずっと閉まりきっていなかった音が、今やっと消えたんだって』

『みんな「軽くなった」って言ってるけど、俺も同じだ。でも……あの三隻の船、まだあそこにいるぜ?』

 三隻の巨影は、確かにそこにいた。

 陸奧(むつ)翔鶴(しょうかく)瑞鶴(ずいかく)。東京湾の外縁に鎮座し、立ち去る気配は微塵もない。だが、いつからだろうか。岸からそれを見つめる人々の感覚は、先ほどまでの「あれは何だ」「何をしようとしている」「どうすればいい」という圧迫感から、さらに説明のつかない感情へと変質していた。

 それは脅威でも誇示でもなく、ただ、そこに「停まっている」だけなのだ。

 ――ある「報せ」を、待つために。


 艦橋の風は、相変わらず潮の香りを孕んでいた。

 山口多聞(ヤマグチ・タモン)は依然としてそこに立ち、微動だにしない。

 彼が感知したのは、振動でも音でもなかった。それは彼の意識の最深部において、極めて静謐に、一つの「目盛り」が噛み合った感覚。長年抱え続けてきた問いに対し、今夜、ようやく答えが書き込まれた。良き答えか、あるいは悪しき答えか。そんなことは重要ではない。ただ、物事がようやく「完遂」されたという、その事実だけがあった。

 彼は手すりから手を離した。

 踵を返し、艦橋の内部へと歩を進める。

 老水兵が歩み寄り、半歩下がった位置で足を止めた。一言も発さず、(こうべ)を垂れる。

 山口は艦橋中央に置かれた古い海図の前で止まった。彼は図面を、長い時間見つめていた。やがて右手を上げ、人差し指で最後の一つのマーキングをそっと叩く。一秒の静止。それから指を滑らせ、他の五つの節点をなぞった。

 六つ。

 全点、合致(チェック)

 彼は海図から指を引き、手を背後へ回した。

 後ろに控えていた老水兵が、ようやく口を開く。その声には、死してなお消えぬ、深い敬畏が込められていた。「提督、出港いたしますか?」

 山口は即座には答えなかった。

 彼は艦橋右舷の窓際へ歩み寄り、東京を見つめた。街の灯火は相変わらずそこにある。闇の奥へと連なり、広がっている。だが、彼の感知(センサー)の中では、先ほどまで絶えず微細な震えを上げていた「歪み」が、今は沈み、安定している。打ち終えたばかりの博打の卓が、ようやく片付けられた後のような静寂。

「……まだだ」彼は言った。

「何を、お待ちになるのですか?」

「あいつが、出てくるのを待つ」

 水兵はそれ以上、問わなかった。

 山口は窓辺に立ち、東京を見つめ続けていた。何も語らず、先ほどの微笑さえも、もはやそこにはなかった。今の彼の表情は凪いだ水面のように平坦で、底知れぬ深淵を感じさせた。それが待機なのか、思索なのか、あるいはすでに思考を終えた後の空白なのか、誰にも判別はつかない。彼はただそこに立ち、事態がその本来の終着点へと辿り着くのを、見届けようとしていた。

 彼の右手の親指が、また一度、左手薬指の空白を撫でた。

そこは、未だ空白のままだった。

 彼は掌を見つめ、極めて低く、ささやくように一言だけ漏らした。その声は彼自身にしか届かぬほどに細く、傍らに控える老水兵にさえ聞き取ることはできなかった。

 後にその老水兵はこう証言している。――提督が口にしたのは、ある「地名」であった、と。

 それは東京ではなかった。

 もっと遠く、もっと旧い場所。この長い旅路において、一度として誰も口にしなかった場所。

 しかし、その地名を告げる彼の声音には、命令も予告も含まれていなかった。

 それはむしろ、「惜別(わかれ)」に近い響き。

 あるいは、ようやく「ある事象」を、次なる停留所へと進ませる準備が整ったという――安堵にも似た響きだった。

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【同時刻 東京湾臨時危機対策室】

「行かせなさい。我々はただ、その背後を外さないように追うだけよ」

 主座の女がそう言い放った後、室内には十秒ほどの沈黙が降りた。

 異論がないわけではない。異論を持つ者たちが、その十秒間を使って、自分たちの意見にまだ「効力」があるかどうかを確認していただけだ。そして導き出された結論は、否。無力、であった。

 観測システムは稼働を続けている。最後のノードは待機状態のまま、そこにある。まるで解答の最後の一行、数式はすべて完璧に解かれ、あとはイコールの先に答えを書き込むだけの状態だ。対策室の面々の大半は、その「答え」の正体を知らない。ただ、それが埋まらぬ限り、東京の地底に潜む主幹結界(メイン・フレーム)は、最後の一息を欠いたままだ。それは五つの穴を塞ぎながらも、最後の一つから絶えず「風」を漏らし続ける網に等しかった。

 老練な専門家(ベテラン)は椅子を引き寄せ、メインモニターの傍らに腰を下ろした。

 退勤を待っているのではない。「待機」しているのだ。

 彼は誰よりも長く、その欄を見つめていた。その眼差しは、生涯拝むことなどないと思っていた「奇跡」をようやく捉えた者のようであり、同時に、瞬き一つでそれが霧散することを恐れる者のようでもあった。時折、部下が確認を求めて資料を差し出すが、彼はそれを受け取り、一瞥し、判を押し、返す。その一連の動作の間、彼の視線がメインモニターを離れることは、三秒とてなかった。

 一方、主座の女の前には、二つの新たな監視ラインが展開されていた。

 一本は、(ジョウ)たちの車両の追跡。九段を抜け、市ヶ谷のさらに深淵へと切り込んでいくその軌跡を、彼女は旧い図面と現行の地図を重ね合わせながら凝視していた。車両が停止した地点――彼女が長年探し求め、ようやく旧図の上に同定したその場所を確認し、彼女は沈黙のまま、薄い唇をきつく結んだ。

 もう一本のラインは、依然として東京湾に留まる三隻の巨影を、冷徹に捉え続けていた。

 船影に動きはない。だが、観測データ上では、翔鶴(しょうかく)瑞鶴(ずいかく)による外周圧制圏が緩やかに縮小を開始していた。撤退ではない。以前のような外部への威嚇陣型を解き、陸奧(むつ)を護るためのより強固な防衛圏へと収束していく。旧式艦隊の術語に明るい分析官が「守勢(しゅせい)に入った」と低く漏らした。隣の者がその真意を問うと、彼はこう答えた。――あちら側は、事態が好転したと判断したのだ。もはや、東京湾全体に牙を剥く必要はなくなった、と。

 あちら側が、いかなる手段でそれを察知したのかを知る者はいない。

 そして、それを深く追及しようとする者も、今夜は一人もいなかった。

 深夜一時十七分。最後のノードが、動いた。

 唐突な跳ね上がりではない。それは、停滞していた長い年月を埋めるかのように、一筆一筆、確実な足取りで「句点(ピリオド)」を打っていくような速度で輝きを増した。縁から中心へ。やがてノードは他の五点と同じ色彩に染まり、シーケンスは完遂され、六つの極点が列を成した。ずっと「未固(アンセット)」のまま停止していた欄が、別の二文字へと切り替わる。

已固(セット)

 誰一人として、言葉を発しなかった。

 三十秒近い沈黙の後、後方の席から掠れた声が漏れた。「……成ったぞ」

 その声は決して大きくはなかったが、室内には爆音のごとく響き渡った。歓喜ではない。それは「弛緩」だ。ある時点から極限まで張り詰め、もはや自覚することさえできなくなっていた緊張が、事象の着地と共にようやく崩れ落ちたのだ。

 老練な専門家(ベテラン)は椅子を下げ、背もたれに身を預けて長く、重い息を吐き出した。

 彼は『已固』の文字を、そして第一から第六までの完璧なシーケンスを、数十年待ち望んだその光景を網膜に焼き付けるように見つめ、隣の者には理解し得ぬ一言を零した。

「……感謝する、君たち」

 その感謝が誰に向けられたものなのか、問う者はいない。

 主座の女が向き直り、並んだ光点を見つめた。その表情は先ほどよりは幾分和らいだが、それも僅かなものだ。事象は常に重層的に展開する。今夜完遂されたのは、彼女が一度として「本当に終わるのか」と確信を持てずにいた一段階に過ぎない。そして、この一歩の先に待ち受けている事態は、おそらくこれまで以上に膨大で、複雑で、対策室のモニターや旧案を知る老人たちだけでは処理しきれないものになるだろう。

 彼女は外海に佇む三隻の即時映像(ライブ)を見つめ、しばしの沈黙の後、問いかけた。

「……明日、誰があの連中に『挨拶』へ行くの?」

 室内は、再び静寂に包まれた。

 ベテランは彼女を一瞥し、手元のびっしりと書き込まれた古い手帳を捲った。真っ白な新頁(しんぺい)に、今夜の時刻と、あの二文字を刻み込む。

已固。

 彼はペンの動きを止め、その横に自言自語のような、小さく乱れた文字を書き添えた。

『長く、待ちすぎた。ようやく誰かが、最後の一本の釘を打ち込みに帰ってきた』

 窓の外、東京はなおも輝いている。

 三隻の船も、依然としてそこにある。

 だが、今夜この街を包む空気は、もはや昨日までと同じではなかった。


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