番外編 〈提督と空いた場所〉
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
──山口多聞視点──
夜の十一時を回った陸奥の甲板は、ひどく静まり返っていた。
無人なわけではない。ただ、そこにいる者たちは決して音を立てないのだ。彼らはただ、数十年前からそうであったように自らの持ち場に立ち、なすべきことをこなしている。まるでこの艦そのものが、命令を介さずとも動き続ける巨大な老いた機械であるかのように。
山口はこの時間を好んでいた。
数少ない、己が提督という役割を脱ぎ捨てることを許される時間。
艦橋の背後に位置する小部屋。そこには作戦図も通信設備もなく、ただ古い机と灯り、たまに彼が腰を下ろす椅子、そして――なぜ今も持ち続けているのか自分でも判然としない、小さな木箱だけが置かれていた。
掌ほどの大きさの木箱。表面の漆はとうに剥げ落ち、下地の木目が剥き出しになっている。角には年月を物語る亀裂が走っていた。壊れているのではない、老いているのだ。その中身は、空だった。
ずっと空だったわけではない。
ただ今夜、その中身を取り出し、他人の手に委ねたのだ。
彼は椅子に座り、空の木箱を机に置いて見つめた。灯りに照らされた木目は、昼間よりも鮮明にその年輪を浮き上がらせている。古いものというのは、闇の中にこそ、自らの歩んできた轍をより深く刻み込むものらしい。
彼は、かつてそこにあったものを思い返した。
決して、高価な品ではない。
それは古びた銅の印章だった。家の家紋が刻まれ、側面には幼い頃には理解できず、大人になっても深くは考えなかった、けれどいつからか説明のつかない重みを持つようになった一文字が彫られていた。その印は長年、彼と共にあった。初めての航海、太平洋の戦場、ミッドウェー。沈みゆくあの艦の上でさえ肌身離さず、その後も自分でも説明のつかない形で、彼についてきたもの。
それを、例の台湾から来た男に預けた。本家に届けてくれ、と。
「見つからなければ、捨ててしまって構わん」
そう告げた時、彼は自らが嘘を吐いていることを自覚していた。
大きな嘘ではない。口にした自分ですら完全には信じられないような、そんな類いの嘘。もし、あの印が帰り道を見つけることができたなら、それは本家がまだ存続していることを意味する。それは、彼が死後に確認する術のなかった「ある事柄」への回答となる。
だが、もし帰り道が見つからなかったなら。あの男が最後にそれを捨ててしまったなら。彼は真実を知らぬまま、その問いを意識の片隅に「空いたまま」残しておくことになる。
どちらの結果も、受け入れるつもりだった。
ただ、自らの手で確かめることだけはしたくなかった。
だからこそ、彼はそれを「安易に物を捨てられない男」だと知っている者に託し、無関心を装うという嘘を吐いたのだ。
山口多聞は空の木箱を眺め、右手の親指で左手の薬指の付け根をなぞった。
そこは空いている。もう、随分と前から。
ミッドウェーで死ぬまで、彼は独身を通した。それは事実だ。だが、意識の最も深い場所には、誰にも口にしたことのない「何か」が存在していた。それは住人を失い、清掃だけが済まされた部屋に似ている。部屋の形は残っているが、中には何もない。それが何なのか、彼には分からない。歩み切れなかった誰かの記憶か、口にできなかった言葉か、あるいは――存在することを許されなかった「可能性」が遺した輪郭なのか。
ただ、そこが空いているということだけを彼は知っていた。数十年の間、時折そこをなぞっては、空席であることを確認し続けてきた。
灯りの光量に変化はない。けれど、部屋の空気が微かに変わった。
音でも光でもなく、一つの場所に長く留まった後、ふと自分が何を考えていたかに気づく、あの感覚。山口は空の木箱を見つめ、あの印を送り出す前、甲板から長い間東京の街を眺めていたことを思い出した。
初めて艦隊を率いて東京湾に入った時の感覚。
今夜のことではない。今夜は二度目だ。街中の人間に知らしめるべく、自ら選んだ高飛車な帰還。一度目は遥か昔、まだ生きていた頃。もはや年号さえ定かではないある日の午後。現役の軍人として初めて目にした東京湾の水線と街の輪郭。あの時、彼はそれを「守る価値のあるもの」だと感じたのだ。
その後、彼は守りに行った。
守り方は予期したものとは違っていたし、守り抜いた結果もまた、望んだ形ではなかった。
けれど今夜、彼は六根をすべて還し、網の目を繕い、門を固めた。口の悪い台湾人の手を借り、幽霊船と二隻の幽霊空母を駆使し、存命の官僚たちが頭を抱えるような、あまりに規格外なやり方で。
これで、どうにか筋は通した。彼はそう思った。
すべてではない。けれど、ずっと抱えていた「最後の一歩」だけは、ようやく踏み出し終えたのだ。
他は立ち上がり、空の木箱を閉じると、それを机の隅へと戻した。小部屋を出て、艦橋の正中心へと歩みを進める。艦橋の外に広がる夜は、相変わらずだった。東京は光り輝き、その外周では翔鶴と瑞鶴が静かに海面を鎮めている。甲板上の水兵たちはそれぞれの持ち場にあり、すべては数十年来の幾多の夜と、何ら変わりはなかった。
ただ、底層に澱んでいたあの感覚だけが、今は静かに閉じられている。
老水兵が歩み寄り、音もなく彼の傍らに立った。
山口は前方の東京を凝視し、しばしの沈黙の後、ようやく口を開いた。
「翔鶴と瑞鶴に、灯を半分落とせと伝えろ。全消灯ではない。残しておけ。だが、整列して輝かせる必要はもうない」
「はっ」
「陸奥はこのまま停泊を続ける」
「夜明けまで、でありますか?」
「あいつが出てくるまでだ。あいつが出てきた時、俺たちがまだここにいることを見せてやれ。それから、行かせろ」
「提督。その後は?」
山口は、しばし沈黙した。
「次の戦だ。次の戦のことは、その時に話す」
老水兵は、それがどのような戦なのかとは問い返さなかった。
山口多聞に付き従う者たちは、疾うに知っている。この男は、前の戦の幕が下りきる前に、次の戦を語るような真似は決してしないのだ。
山口は手を後ろに組み、最後にもう一度、東京を眺めた。長く、長く。やがて翔鶴と瑞鶴の甲板灯が一列、また一列と半分にまで減らされ、東京湾の夜色が深夜特有の深い闇へと戻っていくのを見届けてから、ようやく背を向けた。
艦橋へと戻り、数十年来座り続けてきたあの古い椅子に深く腰を下ろすと、ゆっくりと瞼を閉じた。
眠るのではない。
ただ、あの「空いた場所」で、己を静寂に浸らせるために。
窓の外では、東京がまだ輝いている。
三隻の艦は、そこにある。
夜明けを待つ。
あの男が、歩み出てくるのを待つ。
そして、次の戦が、自ずと門を叩くその時を待つ。
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