番外編〈東京の灯火(ともしび)は、かつてとは違う〉
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
東京の灯火は、かつてとは違う。
──舊帝國海軍二等兵 田中義雄──
自分が今、幾つなのかはもう覚えていない。
死んだ時は、確か二十一だった。それから何年が過ぎたのか、数えるのも止めた。痛みはなく、空腹も感じない。ただ立っている。立つべき場所に立ち、呼ばれれば答え、命じられれば遂行し、また立ち続ける。
今夜、俺は右舷の二番目に立っている。
左隣には松本。俺より三日早く死んだ男だ。ミッドウェーの南西海域、死ぬ間際に「塩辛すぎる」と毒づきながら乾パンを咀嚼していた横顔を今も覚えている。右隣には山下。飛龍が沈む時、機関室にいた。だからだろうか、数十年経った今でも、奴の身体からは微かに重油の匂いが漂ってくる。
俺たち三人は、今夜、東京を見つめていた。
記憶の中の東京とは、似ても似つかない。
俺の知る東京は、もっと「黒」かった。灯火管制が敷かれ、窓には遮光紙が貼られ、空を恐れて光を拒んでいた。死ぬ前に一度だけ、入隊前に父と訪れたことがある。街はすでに疲弊し、誰もが他人の顔を見ず、ただ前だけを向いて急ぎ足で歩いていた。父は飴玉を一袋買い、その半分を俺に寄越してこう言った。「お前が帰ってきたら、また東京へ飴を買いに来よう」
俺は帰ってきた。だが、父はもう、とうの昔にどこかへ行ってしまったのだろう。
目の前の東京は、紙を貼らない。
不快なほどの光が溢れている。どのビルも、道も、橋も、爛々と輝いている。「レインボーブリッジ」とかいう派手な橋が、海面に美しい光の線を引いている。初めてこの光景を目にした時、松本は言った。「先に死んでおいて正解だったな。こんなに腐り果てた姿を見ずに済んだんだから」
だが、俺はそうは思わない。
どう説明すればいいのか分からないが、この街は腐ってはいない気がする。光が多いことが堕落ではない。歩みが速いことが悪ではない。俺たちの時代と違うからといって、それが間違いだとは限らない。松本には言わない。奴は死んで数十年経っても、他人に反論されるのを嫌うから。
今夜、一人の男がこの船を降りていった。
右舷から見下ろすと、短艇が暗い岸壁へと滑っていく。何かを必死に抱え込んだその男が、東京の土を踏む。提督は言った。「旧軍は入港すれど、入城せず」と。だが、提督は「生者」を降ろした。あの規律は俺たちのためのものだ。生者には生者の、俺たちには成し得ない「仕事」がある。
短艇が接岸し、男が立ち上がる。一度だけ、陸奧を振り返った。
彼に俺たちの姿が見えていたかは分からない。だが、俺にははっきりと見えた。
男はひどく疲れ切っていたが、同時に「諦める」という選択肢を失っている顔をしていた。長い戦役の終盤、恐怖ではなく、ただ「やり残したことがある」という理由だけで立ち続けている兵士の顔だ。
『お前が帰ってきたら、また東京へ飴を買いに来よう』
俺は帰れなかった。あの飴は、きっと父が一人で食べてしまったのだろう。
だが今夜、俺は東京の外海にいる。眩暈がするほどの光の中に、あの台湾から来た男が、俺たちの代わりに「最後の仕事」を届けに行った。
これが一つの「帰還」の形なのだとしたら。
……それも、悪くない。
俺は岸壁から視線を戻し、背筋を伸ばして再び前を見据えた。
左に松本、右に山下。
船は揺れ、灯火は輝き、東京はそこにある。
それでいい。
それが、いい。
〈投稿すべきではなかった〉 ── 会社員・佐藤の証言
──上班族 佐藤健二 三十四歲 ──
その動画を投稿したのは、午後十一時四十七分のことだった。
俺はレインボーブリッジの上に立ち、スマホを掲げ、後先なんて何も考えずにただ目の前の光景を撮り、送った。「クソ、これ何だよ」という一言を添えて、三百七十人が参加している社内のグループチャットへ。
そして、すぐに後悔した。
それが偽物だったからじゃない。あまりにも「本物」すぎたからだ。
動画はグループから漏れ出し、別のグループへ、そして掲示板へと拡散され、スクリーンショットが撮られ、拡大された。誰かが俺が撮った船の一部を、画素が崩れるまで拡大して投稿した。そこには「甲板に人影がある。しかも、その直立不動の姿勢は異常だ。船上で働く人間のそれじゃない」というコメントが添えられていた。
その投稿へのリプライは、俺が眠りにつくまでに八千件を超えていた。
俺はただの広告代理店勤務のサラリーマンだ。記者でもなければ、人気配信者でもない。有名になりたかったわけじゃない。今夜、接待を終えてタクシーで帰宅する途中、レインボーブリッジの渋滞に巻き込まれ、窓の外を見て――「それ」を見てしまっただけなんだ。
俺は動画を六回見返した。繰り返すたびに、不快感が増していった。
理解できないからじゃない。見れば見るほど「理解できてしまう」からだ。
船は実在し、旗も本物で、甲板の縁に立つ影も実在していた。あの人影の整列は、あまりにも整然としすぎていた。あれを無理やりクルーズ船や貨物船だと言い張ろうとしても、最後には自分自身の嘘に耐えられなくなるほどに。
実家の母親から、あれはお前が投稿したのかとメッセージが届いた。
俺は否定した。
母さんは「見れば分かる」と言った。画面の端に映り込んだ髪の毛が俺のだと。
髪の毛なんて誰のものでも同じだろうと返すと、母さんは言った。「あんたを三十四年見てきたんだから、一目で分かるわよ」と。そして、続けてこう聞いた。「あの船が何なのか、知ってるの?」
知らないと答えると、母さんは「私は知ってる」と言った。子供の頃、おばあちゃんから聞いたのだという。時折、あいつらは戻ってくることがあるのだと。驚かせるためじゃなく、まだ自分たちを覚えている人間がいるかどうか、確かめるために。
俺は聞いた。投稿してしまったのは、まずかっただろうか。
母さんはしばらく沈黙した後、こう返してきた。
「覚えていれば、それでいいのよ。広めるかどうかなんて、もっと複雑な話だもの」
スマホの電源を切り、ベッドに横たわって天井を見つめた。
外ではヘリの爆音が響き、遠くのパトカーのサイレンが鳴り、どの方角からか群衆のざわめきが伝わってくる。今夜の東京は、おそらく誰もまともに眠れないだろう。だが、俺はこうして横たわり、脳裏にあの六回の映像を焼き付けながら、妙に平穏な気分でいた。
何かを悟ったわけじゃない。
ただ、見てしまったものは、見てしまったのだ。投稿したかどうか、理解できたかどうか、信じるかどうかに関わらず。
今夜、何かが帰ってきた。
そして一つの「仕事」を終え、おそらく去っていった。
それで、十分だ。
スマホを裏返し、画面を伏せて、目を閉じる。
明日はプレゼンの提案書を作らなきゃいけない。
けれど、今夜の出来事は――俺はおそらく、一生忘れないだろう。
〈バイトは多くを知るべきではない〉
── 港湾局外部委託アルバイト 渡邊蓮 二十歳 ──
今年の四月から、港湾局でアルバイトを始めた。
主な仕事は書類のファイリング、報告書の整理、たまに正職員の使い走りをすることだ。時給は高くないが、大学に近いし、何より大抵の時間は暇で、後ろの方でこっそりスマホをいじっていてもバレない。主任は、このバイト最大の利点は「思考停止」だと言った。マニュアル通りに動き、分からないことは聞かず、聞いても教えられないというのがここのルールだ。
帰宅途中、赤信号で止まって空を見上げた。
星はなかった。東京の空に星なんて見えやしない。だが、今夜の闇はいつもより深く、まるで何かが光をすべて飲み込み、余った「暗がり」だけを天に返したかのようだった。
甲板に立っていたあの影たちを思い出す。
彼らはきっと、長い間待っていたのだ。
理由は分からないが、ふと俺も「ありがとう」と言いたくなった。誰に向けたものかは自分でも分からないし、夜空に向かって呟くのも妙な気がして、その言葉を胸の内に押しとどめたまま、青信号と同時にバイクを走らせた。
寮に戻ると、ルームメイトが「今日は遅かったな」と聞いてきた。
「……残業だ」俺は答えた。
「港湾局で残業なんて珍しいな」
「今夜は、特別だったから」
「何が特別なんだよ?」
俺は少し考え、こう言った。
「……何かが帰ってきて、そして去っていった。俺はその使い走りをしただけだ」
ルームメイトは「意味不明だ」と笑った。
俺も、これ以上どう説明すればいいのか分からなかった。
シャワーを浴び、歯を磨き、横になって目を閉じる。
俺はおそらく、今夜のあの出来事に最も近く、そして最も「何もしなかった」人間の一人だろう。
けれど、なぜだろうか。
今夜、あそこにいられたことが、どこか誇らしく、良かったと思えた。
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