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S2第八十章 東京都第24特区

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

六本すべてがそこに収まっている。微塵の揺らぎもなく、完璧な適合。それがいくつかの県を跨ぎ、幽霊船を越え、東京の半分を縦断して俺が抱えてきたモノだとは、自分でも信じがたいほどだ。天井ドームの光網はなおも流動を続けているが、先ほどのような焦燥感はない。呼吸の律動を取り戻した後のような、静かな平穏。暗金の紋様は、ある箇所では安定し、ある箇所ではなおも微細な震えを残している。崩壊の予兆ではない。それは「傷」だ。長い年月をたった一人で耐え忍び、最後の一本の釘を打った程度では即座に癒えることのない、深い旧傷の疼き。

「……行くぞ」俺は言った。

 (シキ)はすでにタブレットのデータを保存し終え、無言で背を向けた。(リン)さんはゲートの向こう側でゆっくりと光を失っていく空間を一瞥し、最後に部屋を出る。殿(しんがり)を務める老高(ラオガオ)が、俺の横を通り過ぎる際に低く呟いた。

「あと一歩だ」

「分かってる」

「分かっているのと、その先にある地点がどんな姿をしているかを知っているのとは、別の話だぞ」

「だから、この目で見に行くんだよ」

 老高の口角が微かに動いた。満足したらしい。それ以上の追及はなかった。

 階段を上がる間も、俺の手は金属プレートを握りしめたままだった。重くも軽くもない。だが、「古きもの」に認められてしまったというあの奇妙な感触が、掌に張り付いて離れない。

 ふと、ある確信が脳裏をよぎった。陸奥の地を踏みしめ、山口(ヤマグチ)のクソジジイに東京へと送り出されたあの日から、この一連のプロセスは「逃走劇」などではなかったのだ。それは、あらかじめ敷設されたレール。起点は幽霊船、経由地は靖国、そして承座。終着点は、このプレートが指し示す「さらに内側」で待つ門だ。

(……クソが)

 語彙の少なさを呪うが、今の俺にはこの一言がどんな緻密な分析よりも腑に落ちる。

 古い建造物の外へ出ると、東京の夜風が顔を叩いた。地下の停滞した空気とは違い、外の世界は「生きて」いる。車両の走行音、遠くの群衆のざわめき、どこか遠くを旋回するヘリの重苦しい羽音。三ブロック先では、報道陣か救護車両か判別のつかない赤色灯が、断続的に夜を切り裂いている。

 待機していたエージェントが車を回し、傍らで立っていた。その表情には「中で何が行われたかを知る必要はないが、尋ねるのも恐ろしい」といった色が露骨に浮かんでいる。

 俺は歩み寄り、男の鼻先に金属プレートを突き出し、最後の一行を指差した。

「『内城(ないじょう)』――この住所、どこか分かるか?」

 男が身を乗り出し、数秒間凝視する。みるみるうちに、顔から血の気が引いていく。

「……分かります」声は、先ほどよりもさらに乾ききっていた。

「入りにくい場所か?」

 男は喉を鳴らし、どこまで話すべきか逡巡した。

「困難です。ですが今夜までは、そこへ入る必要はないと考えていました」

「なぜだ?」

「……あそこの門は、閉ざされているものだとばかり思っていましたから」

 車内に、一秒間の沈黙が落ちた。

 後部座席に身を沈め、プレートを裏返してもう一度その文字を見る。――『受領者、内へ』。

 (リン)さんの言葉を思い出す。外周の六釘は、門を付け直しただけ。内側のそこは、門が勝手に開かないようにするための(かんぬき)なのだと。

 門が閉じているからといって、それが「内側から開こうとしていない」理由にはならない。

 そして俺が今から向かうのは、その門の、真正面だ。

 エンジンが始動し、車は九段の夜道を抜け、東京の深淵へと切り込んでいく。背もたれに体を預け、上着の両ポケットを確かめる。

 一方は、金属のプレート。もう一方は、山口から託された未達の遺品。

 どちらも氷のように冷たく、その重さを競い合っている。

(……全くだ。東京、お前もつくづく業の深い街だよ)





 同時刻、東京湾臨時危機対策室。

「報告」

 その二文字が発せられた瞬間、室内の緊張が一段階跳ね上がった。

 上座に座る女が、海上のモニターから視線を外した。すぐには問い詰めず、提示されたノードの連なりを一瞥する。その眉が、微かに動いた。

「跳ね上がったのは、いつだ?」

「十七分前です」

 彼女はまる五秒間沈黙し、最後列に座るベテランの名を呼んだ。普段は存在感すら希薄なその男は、今夜ずっと部屋の隅に座っていた。名を呼ばれると、彼はゆっくりとメインモニターの前まで歩み寄り、提示されたノード配列シーケンスを凝視してから問いかけた。

「……承座(ソケット)を『成立(エスタブリッシュ)』させたのは誰だ?」

「不明です」

「この配列は、六つの座標すべてが埋まったことを示している」彼はモニターを指差した。「自然発生する現象ではない」

「……『埋まった』とは、どういう意味ですか?」誰かが思わず尋ねた。

 老練な専門家はその男を一瞥し、それが無知ゆえの真面目な問いであることを確認してから口を開いた。

「今夜、何者かが最後の一本を送り届けたということだ。承座(ソケット)へな。現在の用語で翻訳するなら、それは東京の最深部に横たわる主幹結界基座(メイン・フレーム)に近い。外縁の封印群はすべてそれに依存している。我々がこれまで操作可能だと思い込んでいた封印節点(ノード)など、所詮はその外枠、支柱に過ぎなかったのだ」

 上座の女が口を開く。「六本すべてが補完された。それは主幹が再起動したという意味か?」

「主幹は成立し、外周の受脈も安定した。だが――」

 彼の「だが」の後に続く沈黙は、誰よりも完璧なタイミングで場を支配した。

「シーケンスの後半に、未完了のフラグが残っている」

 彼は手を挙げ、ノード列の最後の一欄を指し示した。その箇所は他の節点のように輝くことはなく、起動と待機の境界線上――何らかの手順が整い、最後の一動作を待っているかのような状態で停止していた。

内城門樁(ないじょうもんとう)……未だ固まらず」

 その四文字が発せられた瞬間、室内にいた年配の職員たちの顔色が一変した。全員ではない。ある程度の旧い極秘記録に目を通したことがあるか、あるいはかつての会議で断片的な単語を耳にしながらも、それを一つの意味として繋げる機会がなかった者たちだ。今、彼らの中でそのパズルが完成し、その表情はメインモニターの光よりも白く染まった。

 女は深く息を吸い込んだ。

「つまり……今夜の連中は、逃亡や示威のために船を降りたのではないと?」

「ええ」

「最後の一本を叩き込み、そのまま『さらに奥』へ進むつもりか」

 彼女は一度目を閉じ、再び開いた。その語気は「頭痛」の段階を飛び越し、事態がもはや自身の裁量を超えたことを受け入れる、ある種の「諦念」へと変質していた。

「……今から、阻止できるか?」

 ベテランは『未固』と表示された欄を見つめ、数秒後に答えた。

「阻止、つまり場所を特定して塞ぐことは可能です。しかし、もし阻止した結果、あの『門』が勝手に開くようなことがあれば……その災厄は我々にではなく、東京という都市そのものに向けられることになります」

 壁の向こうで暖房が唸り、無機質な空調が役に立たない冷気を吐き出し続けている。モニターには東京湾の外側に佇む戦艦の影と、市街地のリアルタイム映像が切り替わり続ける。

 最後に、女が声を一段落として告げた。

「……阻止はしない」

 沈黙。

「だが、誰かを同行させなさい」

 ベテランが彼女を振り返った。

「あそこへ送り込めるレベルの人材など、もう我々には残っていませんよ」

 彼女は点灯しない最後のノードを凝視したまま、淡々と言った。

「分かっているわ」

「では、どうするおつもりで?」

 彼女は、自分自身に言い聞かせるように言葉を繋いだ。

「行かせなさい。我々はただ、その背後を外さないように追うだけよ」







東京湾 戦艦陸奧(むつ)

 艦橋を抜ける風は弱いが、酷く潮の香りが強かった。

 山口多聞(ヤマグチ・タモン)は陸奧の艦橋の縁に立ち、片手を古い手すりに添えたまま、沈黙を守っていた。眼下には東京が広がっている。都市の光は広大に展開し、湾口から内陸へと、高層ビル、橋、港湾、街灯のすべてが混ざり合い、昼間の日常を塗り潰す巨大な輝きと化していた。

 だが、彼は街を見ていたわけではない。

 彼は、聴いていた。

 その信号は音ではなかったが、彼には判った。東京の灯火が微かに揺らいだあの瞬間、彼はすでに理解していた。数値でも波形でもない、死してなお甲板のあらゆる欠片、船骨の隅々にまで残留し続けているある種の感覚――。地底から突き上げ、東京湾の海水を伝い、彼が立つこの船の竜骨を駆け上がってきた「何か」が、足の裏で一度だけ止まったのだ。

 そして、すべてが噛み合った。

 彼は背を向け、艦橋の奥へと数歩歩み寄ると、長年見つめ続けてきた古い海図の前で足を止めた。それは、現行のいかなる海事図よりも古く、戦時の測量法と旧式標識で描かれた地図だ。座標の多くは現代のそれとは狂っているが、そんなことは重要ではない。彼が見ているのは座標ではないからだ。

 彼が見つめるのは、旧式術語で「応力節点」と記された、いくつかのマーキング。

 六つ。

 今夜、最後の一つが、ついに灯った。

 図面が物理的に発光したわけではない。ただ、彼は知っていた。現世のいかなる人間にも説明のつかない方法で、彼はそれを確信していた。

 海図の縁から手を引き、彼は再び甲板越しに東京の夜景へと視線を移した。右手の親指が、左手の薬指があった場所を微かに撫でる。そこは虚空で、何も存在しない。だが、彼は今も時折この仕草を見せる。死してなお、完全に拭い去ることのできなかった、古すぎる習慣のように。

 彼は、あの台湾から来た、道中ずっと口を休めることのなかった男を思い出した。

 第六本目の魂釘(ソウルネイル)を抱え、短艇を降りていったあの姿を。

 あの男は自分が何をしているのか、その真意を完全には理解していないだろう。だが、理解など必要ないこともある。ただ抱え、十分に強く握り、十分に遠くまで運び、そして正しい場所で手を離す。

 奴は、その点においてのみは、完遂してみせた。

 背後から一人の老水兵が近づき、無言で彼の傍らに立った。数十年間変わらぬ姿勢で、共に入口の東京を見つめる。山口は振り向かず、しばしの沈黙の後に口を開いた。

「翔鶴と瑞鶴に、援護の深度を下げさせろ」

「外縁の圧制は、継続いたしますか?」

「……必要ない」

「では、艦隊は……」

「待て」山口は言った。「あいつの歩みは、まだ終わっていない」

 水兵はそれ以上、言葉を重ねなかった。

 甲板の灯りは灯り続け、翔鶴と瑞鶴は遥か外縁で静かに、そして揺るぎなく滞空している。山口は視線を東京のさらに奥へと滑らせ、光の海に埋もれて視認すら不可能な、だが彼の感覚の中ではどんなネオンよりも鮮明な「一点」を見出した。

 その点は、まだ動いていない。

 だが、待っている。

 彼は視線を落とし、手すりから手を引いて背後に回すと、直立不動の姿勢を取った。それは、運命を決する戦役の火蓋が切られる直前、指揮官が独り艦橋に立ち、陣列の不備を確かめる時の姿そのものだった。

 遠い昔、彼は同じことをした。あの時は、最後まで辿り着けなかった。

 だが今回は、その後半戦を、あの口が悪く、不運で、ルールの断片すら知らないくせに、最後まで荷物を壊さずに運んだ男に託した。

 山口多聞は陸奧の艦橋に立ち、東京を見つめ、何も語らなかった。

 ただ、極めて淡く、それが実在したのかどうかさえ定かではないほど微かに、その口角を上げた。


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