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S2第七十九章 再起動

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

六本目の魂釘(ソウルネイル)承座(ソケット)に喰らいついた瞬間、東京は神の奇跡のように輝くことも、どこかの街路が唐突に裂けることもなかった。

 ただ、極めて軽く、そして整然と――何かが街の底をそっと突き上げた。

 それは地震ではなかった。

 あまりに短く、大半の人間が反応する間もなく過ぎ去ったからだ。だが、その短さこそが不快だった。自然界には存在し得ない揺れ。大型車両の通過でも、重機作業でも、ビルの共振でもない。

 それは、都市という巨大な生物の「骨」を、誰かが外側からコンと軽く叩いたような、そんな響きだった。

 九段下付近、営業中のコンビニ。

 店員が最後の一列の缶コーヒーを棚の手前へ補充しようとした時、頭上の蛍光灯が一斉に、瞬き一度分だけ明滅した。自動ドアのガラスが微かに震え、ドア横に吊るされた入店チャイムがチリッと細い音を立てる。ホットスナックのケース前で唐揚げを選んでいたサラリーマンが顔を上げ、照明と外の様子を交互に確認して眉を寄せた。

「……今、揺れたか?」

 店員は口を開きかけたが、自分でも確信が持てないことに気づく。レジ横で二十四時間、絶え間なく広告フレーズを垂れ流していたコーヒーマシンが、その一瞬だけ、不自然に半拍ほど沈黙し、その後は何事もなかったかのように続きを歌い始めたからだ。

 レインボーブリッジの上、渋滞の列。

 タクシーの運転手は、後部座席の客と「今夜の東京はどうなっちまったんだ」と毒付いていた。海上の三隻の黒船、デタラメなニュース、走り回るパトカー、そしてスマホで撮影するために不必要にブレーキを踏む先行車。

 罵倒を吐き捨てようとしたその時、ハンドルから微かな振動が伝わった。車の故障でも、橋脚の揺れでもない。極めて細い「力」が、橋の構造体を伝って底から這い上がり、次の瞬間には霧散した。

 客は半秒ほど沈黙し、海に向けていたスマホを引っ込めた。録画画面を凝視しながら、うわごとのように呟く。

「……今、海が光りませんでしたか?」

 晴海埠頭では、夜景を撮りに来ていたカップルのレンズに、遠方の黒い巨船が収まっていた。

 女子がピントを合わせようとした瞬間、画面が大きくブレた。手ブレかと思い撮り直そうとしたが、そうではないとすぐに悟る。海面に散らばっていた街の灯が、ある一瞬、目に見えない櫛で梳かれたかのように、整然と同じ方向へと収束したからだ。

 男子が「おい」と声を上げ、二人は同時に東京の市街地へと目を向けた。

 何も変わらない。ビルはビルのまま、橋は橋、灯火は灯火のままだ。

 だが、説明のつかない確信が彼らの中にあった。――この街は今、吐き出していた呼気を、無理やり肺の奥へと飲み込まされたのだと。

 地上二十七階、高層ビルの一室。

 残業中の女性職員が資料を抱え、会議室から出てきたところで足を止めた。

 躓いたわけでも、疲労のせいでもない。耳の奥で、遥か遠くの金属を叩くような音が響いたからだ。

 幻聴にしては小さすぎ、だが、あまりに明瞭だった。彼女はその場に二秒ほど立ち尽くし、自分の聞き間違いを疑う。

 隣のデスクにいた同僚が顔を上げ、怪訝そうに尋ねた。

「……あなたも、聞こえた?」

 二人は顔を見合わせたが、結局、それが何の音に似ていたのかを言葉にすることはできなかった。

 ただ、その音は耳元で鳴ったのではなく、足の裏、もっと深い地底から突き上げてきたことだけは分かっていた。

九段下(くだんした)付近の異様さは、さらに際立っていた。

 夜のルーティンとして神社周辺を走っていた男が、唐突に足を止めた。足が攣ったわけでも、息が上がったわけでもない。ただ、理由もなく胸の奥が締め付けられ、直後にふっと解放されたからだ。だが、その解放感こそが男を戦慄させた。自身の体調の問題ではなく、普段は意識すらしない周囲の「何か」が、今この瞬間、自分と完全にピントが合ってしまったような――そんな(おぞ)ましい感覚。

 男は闇に沈む老木や石段、黒ずんだ塀の輪郭、そしてその奥に潜む判別不能な地形を振り返り、無意識のうちに総毛立った。

 一方、ネット上は別のベクトルで混迷を極めていた。

 東京湾に出現した三隻の幽霊船の動画が拡散される中、それらを上書きするように、断片的で脈絡のない投稿が次々と溢れ出す。

『……今の、微震か?』

『いや、こっちも一瞬だけ電気が消えた』

『海面が変だったって気づいたやつ、他にもいる?』

『レインボーブリッジが今、ガクンってなった気がするんだが……気のせいか?』

『気のせいじゃない。コンビニにいたけど、冷蔵庫のドアが勝手にガタついたぞ』

『今日の東京、都市伝説のフルコースでもやってんのかよ』

 当然、錯覚だ、過労だ、スマホの手ブレだという冷笑も並んだ。だが、真に背筋を凍らせるのは、互いに見ず知らずの人間たちが、異なる場所で、同時刻に、ほぼ同一の違和感を吐露し始めたという事実だ。

――照明が一拍だけ落ちた。

――地底から一度だけ叩かれた。

――海面が何者かに梳き取られた。

――この街が、内側からカチリと施錠された。

 地上に生きる人々は知る由もない。

 それが事故でも偶然でも、ましてや集団心理の産物でもないことを。

 自分たちが海を、橋を、スマホの画面を凝視していた数秒の間に、地底深くで「最後の一本の鋲」が完璧に打ち込まれたことを。

 その時、俺はまだ地下に立ち尽くし、伸ばした手を完全には引き戻せずにいた。

 正直なところ、あの衝撃の直後に抱いたのは、感動でも達成感でもなかった。

(……クソが。マジで効きやがった)

 ただそれだけだ。そして、それこそが何よりも恐ろしかった。

「効果がある」ということは、つまり俺がこれまで追い回され、得体の知れないブツを押し付けられ、あのクソジジイに宅配便扱いされてきた一連の騒動が、集団発狂の産物ではなかったことを意味している。このドブネズミのような計画は、最初から最後まで、俺の手にあるこの最後の一本を補完することだけを目的として、精密に設計されていたのだ。

 承座(ソケット)の輝きは続いていた。

 先ほどのような無秩序な発光ではない。より細く、より深層部へと浸透していくような流動。外縁の暗金紋様は拍動を安定させ、血管が血流を取り戻したかのように脈打ち始める。ドーム天井の線網も、荒れ狂う拡張を止め、静かで深い拍動へと移行した。東京湾、都心、山並み、旧港、封印節点(ロックポイント)――それらが一つに繋がり、折り畳まれてボロボロになっていた古地図が、眼の前でゆっくりと平らにならされていく。

 その時、承座(ソケット)の中央から二度目の音が響いた。

 六本目が噛み合った時の「カチッ」という音ではない。

 もっと硬質で、何かが内部で一目盛り分だけ滑り落ちたような音。

 金属と金属が擦れ合う、短く、乾いた、精密な音。

「……まだ何かあるのか?」俺は反射的に半歩下がった。

 (シキ)はタブレットを凝視していた。その瞳に宿るのはデータへの執着ではない。彼女自身、まだ理解したくない「何か」を突きつけられたような、そんな眼差しだ。

「異常じゃないわ」彼女は言った。

「そのセリフで始まる時、大抵ロクなことにならないんだが」

承座(ソケット)が、データを吐き出しているのよ」

「……はぁ?」

 老高(ラオガオ)も身を乗り出し、深く眉根を寄せた。「機械式か?」

「機械じゃないわ。旧式の応答(レスポンス)よ」(リン)さんは承座の中央を見据えたまま、声を押し殺した。「この場所は、釘を収めるだけのゴミ箱じゃない。六本すべてが揃った時、それは『回報』を開始する」

 チッ、やっぱりだ。

「よし、釘も刺さったし、みんなで拍手して寝るか」なんてハッピーエンドで終わるはずがなかった。

 承座の中央、井戸の底のように澱んでいた闇が、左右へとゆっくり割れていく。

 大きくはない。古い鋼鉄板の隙間から、何かが這い出してくるためのわずかな「口」が開いた。

 そこから、細長い金属片が、異様なほどゆっくりとせり上がってくる。

 あまりにも、遅い。

 それはせり上がっているというより、ここにいる連中に、それを拝む「資格」があるかどうかを確かめているかのようだった。

 それは(てのひら)ほどの長さの、古びた銅か、あるいは長年潮風に晒されて腐食した真鍮(しんちゅう)のようなプレートだった。縁はどす黒く変色し、その表面には微細な文字がびっしりと刻み込まれている。現代の印刷でも電子表示でもない。一筆一筆、硬い執念で彫り込まれた古式ゆかしい刻印。その細さは、どこか「凶」の気配を孕んでいた。

 俺が手を伸ばそうとすると、(シキ)がそれを遮った。

「焦って触らないで」

「……いつもは俺を真っ先に厄介事に放り込むくせに、珍しいな」

「熱いものに触れとは言ったけれど、人を選ぶようなモノに触れとは言ってないわ」

 相変わらず食えない女だが、俺は大人しく手を止めた。

 (リン)さんが微かに身を屈め、金属プレートを二秒ほど凝視する。そして、第一行目を低く読み上げた。

「……第六位、成立(エスタブリッシュ)

 後頸部に、ぞわりとした悪寒が走った。

 フレーズが格好良いからではない。その語り口が、あまりに不快だったからだ。とうの昔に書き上げられたマニュアルをなぞっているだけの感覚。俺はたまたまこの時代に生き、その欠陥を埋めるためのパーツとして使われたに過ぎないのだと思い知らされる。

 (シキ)も解読に加わった。その速度は遅い。勿体ぶっているわけではなく、そこに刻まれた文字が現代の語彙ではないからだ。旧地名、旧制用語、そして明らかに「こちら側」ではない者たちに向けた専門術語の羅列。

承座(ソケット)閉鎖。東京受脈(じゅみゃく)安定。外環回圧(がいかんかいあつ)成立。内……」

 彼女の言葉が止まり、眉根が深く寄せられた。

「内、何だよ?」俺が促す。

「……内城門樁(ないじょうもんとう)、未だ固まらず」

 空気の温度が、一気に数度下がった。

「……やはりか」老高(ラオガオ)が毒を吐くように言った。

「『やはり』じゃねえよ」俺は即座に彼を睨みつけた。「あんたたちはいつも半分だけ知っていて、俺だけが最後まで荷物を運ばされた挙句に、後出しで仕様書を見せられる。そういう決まりなのか?」

「ただ、この手のシロモノが一段階だけで終わるはずがないと知っているだけさ」老高は平然と返した。「もしこの国の結界が、君が釘を一本刺すだけで大団円を迎えられるほど安っぽい代物なら、これまで消えていった死人や官僚、狂人、そしてあのクソジジイたちの苦労が報われないだろう?」

 チッ。

 癪だが、筋は通っている。あまりに合理的すぎて反吐が出る。

 (シキ)がさらに読み進める。今度の声は、先ほどよりもさらに沈んでいた。

「受領、未だ尽きず。内承(ないしょう)へ転化せよ。定標(ターゲット)は以下の通り――」

 承座の周囲にある暗金紋様が、言葉に呼応するように細く輝いた。ドーム天井の線網が変形を開始する。広域に展開していた東京のレイヤーが急速に収束し、いくつもの節点が削ぎ落とされ、光の点は極少へと絞り込まれていく。

 最後に残ったのは、たった一つ。

 東京のさらに内側、そして、より「古い」地点。

 海岸沿いでも、港区でもない。俺たちが今いるこの円室よりも、さらに深く、地表からは決して察知できない、呪われた中心部。

「……おい、そこは一体どこだ?」その光点を見つめる俺の頭皮が、嫌な予感で強張る。

 (シキ)は直接答えず、タブレットの数値と天井のマーカーを照らし合わせた後、ようやく口を開いた。

「新しい座標じゃないわ」

「じゃあ何だ?」

「……眠っていた古い住所(コード)が、叩き起こされたのよ」

 (リン)さんがその言葉を引き継ぐ。

「外周の六釘は、全体を再構築するための『枠組』に過ぎない。網を真に固定すべき(コア)は、ここにはないわ」

「ここが中継地点だってのか?」

「いいえ」彼女はその一点を見つめ、刃の背のような冷ややかな声で言った。「ここは門を付け直しただけ。その内側にある『そこ』は――門が勝手に開かないようにするための、(かんぬき)よ」

 俺の脳裏に、先ほどの地図で見えた細かな「震え」が蘇った。

 補完はされた。

 成立もした。

 だがそれは、内側に潜む厄介事が消えたことを意味しない。

 外周のリベットをようやく打ち終え、構造体がようやく「構造体」としての形を思い出した。だが、その構造体がいつかまた自ら裂け、裏返り、異形へと変貌するかどうかは、さらに深層にある「門樁(モンとう)」次第だというわけだ。

 門樁、未だ固まらず。

 その四文字だけで、奥歯が砕けるほどに苛立ちが込み上げてきた。

俺は自分の手元を見下ろした。

 さっきまで掌を焼き切らんばかりだった六本目は、今は承座(ソケット)の奥で安らかに沈黙している。胸骨までを蝕んでいたあの熱は、ようやく俺の手を離れた。本来なら、ここで安堵の溜息の一つもつくべきなのだろう。だが、このクソッタレな承座が吐き出した一枚のプレートが、残酷な現実を突きつけてくる。

(……お前は、配達を終えたんじゃない。

 最初の荷物を、次の伝票が発行される場所に届けただけだ)

「そのプレートを見せろ」俺は言った。

 今度は(シキ)も止めなかった。

 手を伸ばし、金属牌を掴み上げる。触感は氷のように冷たいが、縁のあたりにだけ、永い眠りから目覚めたばかりのような微かな熱が残っていた。刻まれた文字は、目を閉じても筆順が辿れるほど深く彫り込まれている。すべてを読み解くことはできないが、最後の一行だけは、なぜか網膜に直接焼き付くように理解できてしまった。

 難解だからではない。あまりに、直截的(ストレート)だったからだ。

『受領者、(うち)へ』

 クソが。

 その場に叩きつけてやりたい衝動に駆られた。

 この手の書き方が一番性質(タチ)が悪い。解説も、背景も、注釈も、善意に満ちたフローチャートも一切なし。ただ、このルールを書いた何者かが、遥か昔からこう確信していたのだ――「ここまで辿り着いた奴は、結局、自ら奥へと踏み込むしかないのだ」と。

 その一行を睨みつけながら、俺の脳内はたった一つの思考で埋め尽くされた。

(……ああそうかよ。俺は届け物を終えた「配達員」じゃなかった。

 こいつらに道中選別され続け、最終的に自分自身をさらに奥へとデリバリーさせられる「生贄」だったってわけだ)

 俺の面構えを見て、老高(ラオガオ)は俺が心の中で東京中の先祖を罵倒しているのを察したらしい。彼は心底不謹慎な笑みを浮かべた。

「おめでとう」

「……何がめでたいんだよ」

「君の荷物(デリバリー)がアップグレードされたのさ」彼はプレートを指差し、続けて天井ドームで静かに、そして傲慢に輝き続ける「内城」の光点を示した。「今はもう発送じゃない。受領のフェーズだ」

 二秒間、奴を射殺せんばかりに睨みつけたが、結局は低く毒を吐くしかなかった。

「……チッ。山口(ヤマグチ)のクソジジイ、本当に死んでてくれよ。生きてたら、絶対にこのツケを払わせてやるからな」

 だが、口ではそう罵りつつも、理解はしていた。

 あの老いぼれは、おそらくすべてを知っていたのだ。

 六本目を東京に届けることが終着点ではないことも。承座(ソケット)が何かを吐き出すことも。真の厄介事は黒船の上でも港でもなく、もっと「内側」にあることも。

 そして何より反吐が出るのは――。

 奴が、俺を完璧に「ここまで」運んでみせたという事実だ。

 金属牌を握り締め、収束された唯一の光点を見上げる。恐怖でも勇気でもない、奇妙な感覚が胸を支配した。それは、迷路の迷走も、殺し合いも、死体からの遺品も、魂釘(ソウルネイル)の補完も、すべてが自分をここへ追い詰めるためのプロセスだったのだと悟った瞬間の、諦念に近い納得感。

 六本の釘は打たれた。

 東京という都市(システム)も呼応した。

 そして今、その内側にある「門」が俺を呼んでいる。

 俺は一つ吐き出し、プレートを上着のポケットに突っ込んだ。山口の遺品とは別の、反対側のポケットに。

 片方は、あいつの家。

 もう片方は、この国の門。

 どちらも重すぎて、肩が外れそうだ。

「いいだろう」俺は言った。「で、誰か教えてくれ。この『内へ』ってのは、どの方角に行きゃいいんだ?」

「とても面白い」★四つか五つを押してね!


「普通かなぁ?」★三つを押してね!


「あまりかな?」★一つか二つを押してね!

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