第9話 物騒なくらいがちょうどいい
夜もすっかり更けた頃、俺は酒場の隅で一杯の安酒をちびちび舐めていた。
昼間、《葡萄樽亭》では飯にありつけず、そのあと別の店でどうにか腹を満たしたと思えば、今度はレイモンドに懐をほとんど持っていかれた。領主から貰った――いや、遠路はるばる訪れた監察官への労いとして預かった革袋は、今や見る影もない。
あの中には銀貨だけではない。肉もあった、酒もあった、今夜の幸福まで詰まっていた。それを眼鏡の借金取りが、利息などという無粋な言葉で根こそぎ持っていったのだ。
「……くそ」
杯を傾ける。安い酒だったが、残金を考えれば文句も言えない。一気に飲めばすぐになくなるので、一口飲んでは杯を置き、しばらく眺めてからまた口をつける。
貧乏くさいのではない。酒と長く付き合っているだけだ。
そう自分に言い聞かせながら、明日の予定を思い返した。
東区の備蓄倉庫を視察し、穀物や保存食、街道補修用の資材を眺めて、適当に頷き、適当に褒める。それで終わり。
領主ヴァルターの帳簿が多少怪しいことくらい、もう分かっている。だが、こちらも厚意を受け取った身だ。多少のことなら多少見えなくなる。
人間の目というものは、銀貨を与えると随分と融通が利くらしい。
……もうその銀貨はないが。
杯へ手を伸ばしかけたところで、ふと思い出した。
「そういや……」
仕掛けたままだった。
懐を探り、小さな黒い器具を取り出す。耳の穴へすっぽり収まるほどの魔道具で、以前、違法な魔道具を扱っていた商人から押収した品だ。
本来なら証拠品として王都の保管庫へ運ばれるはずだった。
ところが不思議なことに、一組だけ俺の懐へ収まったまま、今日まで忘れられていた。
世の中、説明のつかないこともある。
片方を耳へ押し込む。もう片方は昼間、ヴァルターの執務室へ置いてきた。
もちろん、立派な監察活動の一環である。監察官が帰ったあと、相手が何を話すのか確認するのも仕事のうちだ。
何か弱みでも拾えれば、次の厚意がもう少し重くなるかもしれない――などと考えたのは、あくまで副次的な効果にすぎない。
耳元で、ざり、と小さな雑音が鳴った。
『――では、明日は予定どおり東倉庫をお見せすればよいのだな?』
ヴァルターだ。
『はい。街道補修用の資材と備蓄量をご確認いただけば、ガストン殿も納得なさるでしょう』
続いてセドリック。昼間と変わらない、落ち着いた声だった。
『帳簿の方は大丈夫なのだろうな』
『整えてあります』
『さすがだ、セドリック』
思わず鼻で笑った。
ほら見ろ。やっぱり何かやってやがる。
まあ、そこまでは想定内だ。税をごまかし、その帳尻を合わせる。地方領主なんぞ、叩けば大抵そのくらいの埃は出る。
俺は安酒を一口含んだ。
『ガストン殿も話の分かる方のようだ。今日の品も、随分と喜んでおられた』
おい。余計なことを盗聴器の前で言うんじゃない。
『ええ。なら問題はないでしょう』
椅子を引くような音が聞こえた。
『では私は休む。明日はアルヴィンにも同行させよう。あやつにも領地経営を学ばせねばならん』
あの息子も来るのか。
嫌な情報を拾った。
昼間、食堂を壊しかけた馬鹿に領地経営を学ばせる前に、まず食堂の使い方から教えた方がいいと思う。
『承知しました、ヴァルター様』
扉の開閉音がして、そのまましばらく静かになった。
税のごまかしは確定。明日は見せたいものだけ見せるつもり。それなら予定どおり適当に済ませればいい。
俺も魔道具を外そうとした、その時だった。
『……もうよろしいですよ』
セドリックの声。
手が止まる。
誰に言った?
少し間を置いて、知らない男の声が聞こえた。
『監察官は?』
低く、必要なことだけ喋れば十分だと思っていそうな声だった。
『今のところ問題ありません。ただし明日は東倉庫へ入ります。表へ出る者には十分注意するよう伝えてください』
『あの男が余計なものを見た場合は』
一瞬、沈黙が落ちる。
『その時は私が判断します』
『承知しました』
俺は無意識に杯を置いていた。
やけに物騒だ。
税をごまかしているだけなら、監察官に「余計なものを見られた場合」なんて言い方をする必要はない。帳簿を隠すなり、倉庫の奥へ入れないなりすれば済む話だ。
『それと、明日は目立つ真似をしないように。あなた方は、その格好だけで十分目立つのですから』
少し間があった。
『……分かっております』
『少なくとも倉庫内では、いつもどおり作業員に紛れてください』
『承知しました』
そこで会話が途切れた。
俺はしばらく耳から魔道具を外せなかった。
「……おいおい」
税のごまかしだけじゃない。
何かいる。
セドリックの下に、領主の衛兵とは別の連中がいる。しかも明日、俺が行く倉庫に。
何をしている連中かまでは分からない。だからこそ余計に嫌だ。
分かっている危険なら避けようもあるが、分からない危険については、とりあえず俺を殺すものとして考えた方が長生きできる。
前髪へ手をやり、そっと位置を確かめた。
大丈夫。髪は大丈夫だ。
問題は首の方である。
明日の視察を中止するか。
駄目だ。今日あれだけ「明日は現地を確認する」と偉そうに言っておいて、翌朝いきなり腹痛では怪しすぎる。
なら今夜のうちに王都へ逃げるか。
もっと怪しい。
それに、もし本当に税以外の何かがあって、それを見逃したまま帰ったらどうなる。
王都から派遣された監察官が来た。帳簿を見た。領主から金まで貰った。その直後、何か大問題が発覚した。
完璧じゃないか。
共犯者として。
「冗談じゃねえぞ……」
領主の不正を見逃して銀貨を貰うのと、正体不明の連中の仲間にされるのとでは話が違う。
俺は多少の不正には寛容だ。自分にも他人にも。
だが重要なのは程度と配分である。つまり、俺に迷惑がかからない範囲でやれということだ。
これはもう、迷惑の範囲に片足どころか首まで入りかけている。
必要なのは護衛だ。
領主の人間ではなく、腕が立って、明日の朝すぐに動ける奴。多少物騒でも構わない。というより、今は物騒なくらいでちょうどいい。
そんな都合のいい人間が、この町に――。
酒場の扉が開いた。
夜気と一緒に入ってきた女を見て、俺の手が止まった。
淡い栗色の髪に赤い上着、腰には一本の剣。
いるじゃねえか。
赤のダリア。
賞金稼ぎとしては一流。賞金首としてもなかなか立派。賞金首を捕まえて役所へ突き出しながら、その同じ役所の壁には自分の手配書が貼られているという、役人からすると頭痛の種みたいな女である。
普通なら関わりたくない。道の向こう側で見つけたら、俺はさらに向こうへ渡りたい。
だが今だけは、あの赤い服が妙に頼もしく見えた。
領主の息子についていた護衛四人を叩きのめし、衛兵まで振り切った女だ。少なくとも俺よりは戦えるし、比べること自体失礼なくらい戦える。
ダリアは店内を見回し、空いている卓へ向かおうとした。
「おい、そこの赤いの」
足を止めたダリアが、ゆっくりこちらを向いた。
「……わたくし?」
「他にそんな目立つ格好の奴がいるか」
「まあ。女性を服の色で呼ぶなんて、随分と洒落っ気のない方ですこと」
呆れたように片眉を上げると、ダリアは俺を上から下まで眺めた。やがて視線が頭の辺りで止まり、ほんの少し口元が緩む。
「では、わたくしも分かりやすい特徴でお呼びしましょうか」
「何だよ」
「……髪、少しずれてますわよ」
「はぁ!? ずれるとかねえし! これはちゃんと頭皮から生えてる地毛だしぃ!」
反射的に両手で頭を押さえたところで、ダリアが黙った。
まずい。
「…………」
「何だよ」
「いえ。わたくし、髪がずれているとしか申してませんけれど」
「うるせえ!」
ダリアは目を細め、いかにも面白いものを見つけたようにくすりと笑った。
嫌な女だ。
会って一分もしないうちに、触れてはいけない場所のすぐ脇まで踏み込んできやがった。
「女性へ声をかけるなら、もう少し洒落た言葉を選んではいかが?」
「今は洒落てる場合じゃない」
「そうですの。では、ごきげんよう」
あっさり興味を失ったらしく、赤い上着を翻して背を向ける。
「待て、赤のダリア」
その名を出すと、今度は肩越しにこちらを見た。
「まあ。わたくしをご存じで?」
「賞金稼ぎとしても、賞金首としてもな」
「どちらでご用件かしら?」
「今日はどっちでもない」
卓へ身分証を置くと、ダリアは戻ってきてそれを覗き込み、それから俺の顔へ視線を上げた。
「王都から来た監察官、ガストンだ」
「ガストン様?」
「様はいらん」
「では、おじ様」
「なんでそうなる」
ダリアは俺の顔を改めて眺め、何がおかしいのか口元を楽しそうに緩めた。
「その方がお似合いですもの」
「勝手に決めるな」
「では、監察官様に戻します?」
「……好きにしろ」
「では、おじ様で」
即決しやがった。
妙な呼び名を許してしまった気がするが、今はそこへ使う気力が惜しい。
「それで、おじ様はわたくしを捕まえますの?」
「捕まえない」
「あら、残念。少しくらい追いかけていただけるのかと思いましたわ」
冗談なのか本気なのか分からない笑顔を浮かべている。
「昼間もう十分追われただろ。おかげで俺は飯を食い損ねた」
「それはお気の毒に」
口ではそう言いながら、声に同情は一滴も入っていない。
「それで、おじ様がわたくしに何のご用?」
「明日、俺の護衛をしろ」
「嫌ですわ」
「早いな!」
「だって護衛でしょう? おじ様の後ろを歩いて、書類を眺めている間ずっと立っているだけ。退屈そうですもの」
想像しただけでうんざりしたのか、ダリアは小さく息を吐いて片肩をすくめた。
「普通の護衛はそれでいいんだよ」
「では、なおさら嫌ですわね」
迷いがない。
やっぱりそういう女か。
「領主の備蓄倉庫を視察する」
「領主?」
さっきまでの退屈そうな顔が少し変わった。
「ああ。昼間、お前が殴り飛ばした馬鹿息子の親父だ」
「まあ。それで?」
「領主の帳簿が怪しいのは分かってるが、それとは別に、明日見る倉庫には妙な連中がいるらしい。領主の衛兵じゃない。作業員に紛れていて、俺に余計なものを見られると困るそうだ」
ダリアは今度こそ完全にこちらへ向き直った。
「それは、どなたから?」
「言えん。監察官には監察官のやり方がある」
押収品を懐へ入れて盗聴していたとは、さすがに言いづらい。
しばらく俺の顔を眺めていたダリアだったが、やがて口元がゆっくり上がった。
「何があるか分からないのに、明日そこへ行くんですの?」
「行かなきゃならん。だから護衛を探してる」
「最初からそこまで仰ればよろしいのに。少し面白そうですわね」
食いついた。
「だったら立ってないで座れ。もう少し話す」
向かいの椅子を顎で示すと、ダリアはすぐには座らず、俺の卓へ目を落とした。
置いてあるのは、半分以下まで減った安酒だけ。
「ご馳走してくださるなら」
「護衛を頼まれる側が飯まで要求するのかよ」
「では、やめておきますわ」
「座れ!」
なんで俺が折れるんだ。
◇
結局、ダリアは俺の向かいへ腰を下ろし、当然のように料理まで注文した。
しかも肉だ。
焼き目のついた厚切り肉に果実酒まで付けやがった。
俺が一杯の安酒を長持ちさせるため、舐めるように飲んでいる横で、ダリアは切り分けた肉を口へ運び、満足そうに頬を緩めている。
「……うまそうだな」
「美味しいですわよ」
「感想を聞いたんじゃねえ」
ダリアは少し考えるように俺と皿を見比べ、一切れをフォークで持ち上げた。
「一口いります?」
「いる」
差し出された肉へ手を伸ばした瞬間、すっと皿ごと引かれた。
「冗談ですわ」
「お前ぇ……」
こいつを雇うの、今からやめられないだろうか。
とはいえ、他に当てもない。
ダリアは何事もなかったようにその肉を自分で食べ、果実酒を一口飲んでから俺を見る。
「それで、その妙な方々について、どのくらい分かっていますの?」
「人数も武器も腕前も分からん。分かってるのは、領主の衛兵とは別口で、明日の倉庫じゃ作業員に紛れてるってことくらいだ」
肉を切っていた手が止まり、ダリアが少し呆れた顔になる。
「ずいぶん情報の少ないお仕事ですこと」
「全部分かってたら護衛なんぞ探してない」
「それもそうですわね」
納得するところなのか。
「で、どうだ。やるか?」
ダリアは答える前に果実酒を一口飲み、杯を置いた。
「倉庫を見て回るだけなら退屈ですけれど、妙な方々がいて、何を隠しているのかも分からないのでしょう?」
「ああ」
「でしたら、お受けしますわ」
実に楽しそうに言いやがる。
なるほど。こいつを動かすのは金じゃない。
面白いかどうかだ。
命が危ないかもしれない場所へ「面白そう」でついてくる人間とは、できれば一生分かり合いたくない。だが今だけは、その頭のねじの緩さがありがたい。
「報酬も出す」
「あら。それはなお結構」
「金額を聞かないのか?」
「面白ければ多少お安くても構いませんわ。つまらなければ高くいただきますけれど」
「逆だろ」
「わたくしの時間を無駄にした迷惑料ですもの」
当然でしょう、とでも言いたげにダリアは肉をもう一切れ口へ運んだ。
「お前、賞金稼ぎだよな?」
「ええ。良心的でしょう?」
商売人として何かが壊れている気がする。
まあいい。安く済むなら、俺にとっては正しい料金体系だ。
「ただし、仕事中は俺の指示に従え。勝手に人を殴るな、剣を抜くな。何か見つけても一人でどっか行くなよ」
「注文が多いですわね。何もなければ、大人しくしておりますわよ」
そう言って肩をすくめる顔には、何かあってほしいと書いてある。
不安しかない。
だが腕については信用できる。性格については、最初から信用しないことにした。
「それと、明日はその格好で来るな」
ダリアが肉を切る手を止めた。
「変装しろってことですの?」
「今日、領主の息子を殴った女を、そのまま俺が連れて行けるわけないだろ。髪と顔はなるべく隠せ。服も目立たないやつにしろ」
ダリアは自分の赤い上着を見下ろし、ひどく難しい注文をされたように眉を寄せた。
「目立たない……」
「灰色でも茶色でも何でもいい」
「赤では駄目?」
「目立たないって意味分かってるか?」
「せめて、どこか一か所くらいなら」
「何のために」
「わたくしのためですわ」
知らんがな。
「一日くらい我慢しろ。あと顔も隠せよ」
「顔まで?」
「今日の今日だぞ。それに、領主の馬鹿息子も一緒に来るらしい」
ダリアは露骨に顔をしかめた。うげぇ、とでも言いたげな顔である。
「……昼間の、あの面倒な方も来ますの?」
「名前くらい覚えてやれよ」
「何でしたっけ?」
「アルヴィンだ」
「そうでしたわね。別に覚えなくても困りませんもの」
「本人が聞いたら泣くぞ」
「昼間は元気に喚いていましたから、大丈夫でしょう」
泣くか喚くかの二択しかねえのか、あの馬鹿息子は。
ダリアはそんな俺の内心など知る由もなく、すっかり変装の話へ意識を戻している。
「では、灰色の外套にしましょうか。髪は隠して、顔も半分ほど」
「最初からそうしろ」
「剣は?」
「持って来い。抜くなって言ってるだけだ」
「まあ。そこまで取り上げられたら、さすがに帰るところでしたわ」
「お前、護衛を何だと思ってんだよ」
「面白そうなお仕事」
「もういい」
そのあとも、集合時間や倉庫で妙な連中を見つけた場合の動きについて、いくつか細かいことを詰めていった。
もっとも、俺が「勝手なことはするな」と言うたび、ダリアは「状況によりますわね」と笑うので、話が詰まっているのか、俺の不安だけが積み上がっているのか分からない。
それでも護衛が決まっただけ、さっきまでよりはましだ。
そう思いながら杯を傾けると、中身はもうほとんど残っていなかった。
向かいでは、ダリアが店員を呼ぼうとしている。
「おい。まさか二皿目じゃねえだろうな」
「もう少し食べようかと」
「待て。誰が払うと思ってる」
「おじ様では?」
「仕事の話と飯代は別だ!」
「まあ。細かいですこと」
「細かくなるほど金がねえんだよ!」
結局、明日の打ち合わせは、料理の代金をどこまで報酬に含めるかという話まで広がることになった。
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