第10話 赤くないダリア
赤くない。
宿の小さな鏡に映った自分を見て、朝から気分がよろしくなかった。
肩まで覆う鼠色の外套に、髪は後ろでまとめて大半をフードの中へ押し込み、首元の布も鼻先近くまで引き上げている。昨夜、おじ様から「目立たない格好で来い」と言われた結果がこれだった。
地味。ひたすらに地味ですわ。
灰色でも茶色でも何でもいい――服を選ぶ言葉として、これほど心のこもっていないものがあるでしょうか。
せめてどこか一か所くらい赤を残したかったのに、それも却下された。護衛を頼んでおきながら、わたくしから個性まで取り上げるとは、随分と横暴な雇い主である。
仕方なく外套の襟を整え、最後にもう一度鏡を見る。
……やっぱり地味。
◇
「……不服そうだな」
待ち合わせの酒場前へ着くなり、おじ様は開口一番そんなことを言った。
「別に」
「その顔で別にって言われてもな」
「きちんとご希望どおりにして差し上げたではありませんの」
両腕を少し広げて見せると、おじ様はわたくしを上から下まで確かめ、満足そうに頷いた。
「そうだな。昨日より百倍マシだ」
百倍。
聞き捨てなりませんわね。
フードの奥から睨んでやると、おじ様は何事もなかったように目を逸らした。
「いいか。今日は極力喋るなよ。昨日、領主の馬鹿息子とあれだけやり合ったんだ。顔を隠してても、声で気づかれるかもしれん」
「わたくしの声は、それほど印象に残ります?」
「顔を殴った女の声なら覚えてても不思議じゃねえだろ」
なるほど。殴ったわたくしより、殴られた方がよく覚えているかもしれない。
「それと、昨日は護衛なんぞ連れてなかったからな。向こうに聞かれたら、今日は倉庫まで市中を歩くうえ、その後も何か所か見て回る予定だから念のため雇った、と俺が話を合わせる。お前は余計なことを言わず、後ろで立ってろ」
「まあ。そこまで考えていらしたのね」
「俺を何だと思ってんだ」
昨夜、一杯の安酒を少しでも長持ちさせようと舐めていたおじ様。
とは口にしないでおいた。
これも立派な「余計なことを喋らない」の範囲でしょう。
「あと剣も抜くな。妙なものを見つけても勝手に近づくな。俺が合図するまでは普通の護衛らしくしてろ」
「何もなければ?」
「それが一番だ」
「それでは、わたくしを雇った意味がありませんわね」
「あるだろ。何かあった時のためだ」
「でも、何かあってはいけないのでしょう?」
おじ様は口を開きかけて、そのまま閉じた。しばらく眉間へ皺を寄せたあと、朝からもう一仕事終えたように息を吐く。
「……お前、喋るなって言った意味分かってる?」
「まだ領主館ではありませんもの」
「今から黙る練習しろ」
失礼な。
わたくしだって黙ろうと思えば黙れる。その分、頭の中で好きなだけ喋るだけですわ。
領主館が見えてくると、おじ様の様子が変わった。背筋が伸び、歩幅まで少し大きくなる。
「ガストン監察官殿、お待ちしておりました」
門番へ鷹揚に頷く姿は、昨夜と同じ人間とは思えない。
「うむ。本日もよろしく頼む」
ここぞとばかりに監察官らしい顔を作っている。
まあ。
どちら様かしら。
昨夜のおじ様なら、わたくしが二皿目を頼もうとしただけで「細かくなるほど金がねえんだよ!」と叫んでいたはずですけれど。
本人は至って真面目な顔で館の敷地へ入っていった。ただし門を抜けたところで一度だけ頭へ手をやった。
そこだけは変わらないらしい。
玄関前には、すでに二人の男が待っていた。
一人は三十代半ばほどで、短く整えた灰褐色の髪に濃紺の簡素な服。派手さはないけれど姿勢がよく、こちらを見る目にも落ち着きがある。
「おはようございます、ガストン殿。本日は私が東区の備蓄倉庫までご案内いたします」
男は薄く笑みを浮かべ、行き先を示すように片手を差し出した。
「よろしく頼む」
「それと、本日はもう一人同行いたします」
男が半歩退いた。
その向こうに立つ人物を見た途端、昨日の光景が蘇る。
白い上着に淡い金髪。そして頬には薬布を当て、その上から白い包帯まで巻いていた。
見覚えのある顔だった。
昨日、わたくしの拳と随分親しくなった方である。
包帯の下でも片側が少し腫れているのが分かり、灰色一色だった朝の気分がほんの少しだけ持ち直した。
「父上から、領地経営を学ぶよう申しつけられましてね」
本人はそんな顔のまま、やけに得意そうに胸を張った。
「せっかく王都から監察官殿がお越しなのです。次代を担う者として、領地がどのように管理されているか、この機会に私自身の目で確かめておこうと思いまして」
頼まれたから来たのではありませんでしたっけ。
もう自分から志願したことになっている。
「アルヴィン殿も同行されるのか」
おじ様が名前を呼んだ。
ああ、そうそう。
アルヴィン。
昨夜、教えていただいた名前がようやく戻ってきた。
「ええ。この町について何かご質問があれば、遠慮なく私にもお尋ねください。父上ほどではありませんが、日頃から領民の様子にはよく目を配っておりますので」
言い終える頃には、胸が先ほどより一段高くなっていた。
そこまで張ると、上着のボタンが気の毒ですわね。
アルヴィンの視線が、ようやくわたくしへ向く。
「ところで、そちらの方は?」
「今日から雇った護衛だ」
おじ様は間を置かず答えた。
すると、隣の濃紺の男がわたくしへ軽く目を向けた。
「護衛の方ですか? 昨日はいらっしゃらなかったようですが」
「昨日は館と役所を行き来するだけだったからな。今日は倉庫まで市中を歩くうえ、視察後も何か所か見て回るつもりだ。王都から来た人間が供もつけず歩き回るのも不用心だろう」
眉一つ動かさず、すらすらと出てくる。
昨夜二人で決めた話とはいえ、最初からそういう予定だったように聞こえるから大したものだ。
「なるほど。用心に越したことはありませんね」
濃紺の男は薄く笑って頷いた。
「仕事柄な」
おじ様も何食わぬ顔で返す。
こうして見ていると本当に立派な監察官ですわね。昨夜の酒場を知らなければ、ですけれど。
「こちらで雇われたので?」
「ああ。昨日、腕の立つ者がいないか尋ねて見つけた。無口だが仕事はする」
勝手に性格まで付け足された。
「ほう」
アルヴィンが一歩近づき、遠慮なくわたくしを眺め始める。
「随分と顔を隠しているな。何か事情でもあるのか?」
ありません。
むしろ隠している方が惜しいくらいです。
「古傷でも?」
ありませんってば。
つい口を開きそうになったところで、おじ様が横から割って入った。
「腕が立てば顔などどうでもいい。護衛に必要なのはそっちだ」
なかなか良いことを言う。
最後の一言だけ余計ですけれど。
「まあ、そういうものか」
アルヴィンはようやく興味を失ったらしく、満足したように顎を上げた。
人の顔を散々覗き込んでおいて、随分勝手な方ですこと。
「では参りましょう」
濃紺の男が薄い笑みのまま片手を上げ、自然に話を切り上げた。
ありがたい。
今のところ、この中で一番話が早い。
東区へ向かう途中、アルヴィンはよく喋った。この通りは自分も以前から整備すべきだと思っていた、あそこの店は昔から知っている、向こうの水路についても父へ進言したことがある――口を開くたびに、自分が町のことをどれだけ理解しているか披露したくて仕方ないらしい。
実際に何をしたのかは、よく分からない。
「セドリック、あちらの水路は今年も補修する予定だったな?」
「はい。秋頃を予定しております」
「そうだった、そうだった。私も早めに済ませるべきだと思っていたところだ」
濃紺の男――セドリックは、薄い笑みを浮かべたまま「そうですね」と軽く頷き、ときおり片手を添えて進む方向を示している。
なるほど。
この方、聞き流すのがお上手ですわね。
そうして何度か名前を呼ばれているうちに、わたくしもようやく濃紺の服の男と「セドリック」という名前を頭の中で結びつけた。
やがて町並みが途切れ、東区の備蓄倉庫が見えてくる。
大きな倉庫がいくつも並び、その周囲を荷車や作業員が行き交っていた。中へ入れば、積まれているのは穀物袋、干した野菜、保存食、木材、石材、工具。
見事なまでに面白くない。
「こちらが昨年増やした穀物備蓄になります。以前の量では凶作時に不安が残りましたので、ヴァルター様のご判断で増やしております」
セドリックは積み上がった袋へ軽く手を向け、薄い笑みを崩さないまま説明を続ける。
「ふむ。こちらの街道補修用資材は?」
「昨年秋から順次購入したものです。西街道の橋梁補修にも使用しました。記録はこちらに」
ガストン監察官が尋ねれば、すぐ書類が出てくる。説明にも淀みがなく、倉庫番へいちいち確認する様子さえない。
さすがに手際がいい。
昨夜、おじ様があれほど警戒していたので、もう少し何か出てくるものと思っていたのだけれど、今のところわたくしの前にあるのは袋と木箱と数字ばかり。
剣を抜く理由もなければ、誰かを殴る理由もない。
せめて木箱の一つくらい勝手に開いて、中から面白いものでも出てきませんこと?
「いやあ、我が領地もなかなかのものでしょう?」
横からアルヴィンが口を挟んだ。
説明したのは最初から最後までセドリックなのに、なぜか一番満足そうなのはこの方である。
「父上は常日頃から領民の暮らしを第一に考えておられますからね。備蓄についても、実を言えば私も以前から増やすべきだと思っていたのですよ」
包帯の巻かれた頬を残したまま、得意げに顎を上げる。
「そうでしたか」
セドリックは薄く笑って小さく頷いた。
否定もしない。かといって、はっきり肯定しているわけでもない。
便利ですわね、その相槌。
「こういうことは先を見る目が大切なのです。私もいずれ領地を預かる身ですから、普段から町へ出て、領民が何を求めているかこの目で確かめるようにしていましてね」
町へ出る。
便利な言い方ですこと。
昨日も確か、《葡萄樽亭》で随分熱心に領民と交流なさっていた。
「実は昨日も、町の治安を乱す者を私自ら注意したのですよ」
来た。
アルヴィンは武勇伝でも披露するつもりなのか、包帯を巻いた顔のまま胸を張った。
そのお顔で始めますのね。
「ほう」
おじ様は帳面から目も上げずに返す。
「赤い服を着た女だったのですが、店内で随分と目立っていましてね。私が親切に声をかけ、旅人としての振る舞いを少し教えてやろうとしたところ、突然殴りかかってきまして」
親切。
突然。
昨日の拳で、都合の悪いところだけ綺麗に抜け落ちたらしい。
「こちらとしては穏便に済ませるつもりだったのですが、相手がまるで話の通じない女でして。少々腕は立ったようですが、粗暴で品もない。私もあまり本気を出すわけにはいきませんから、困ったものですよ」
少々腕は立った。
本気を出すわけにはいかなかった。
なるほど。
顔に包帯を巻くと、昨日の出来事まで随分立派に見えてくるらしい。
前を歩くおじ様の肩が、ほんの少し揺れた。
笑いましたわね?
わたくしがじっと見ていると、本人は振り返らず、片手だけ腰の後ろへ回して軽く押さえるような仕草をした。
分かっています。
何もしませんわよ。
今のところは。
「しかも一人ではなかったのです。緑色の髪をした男も一緒でしてね。いかにも気の弱そうな、間の抜けた商人風の男でしたよ。あの女に振り回されているようでしたから、まあ気の毒ではありましたが」
……間の抜けた?
昨日、わたくしの拳を何度向けても、ひょいひょいと避けていった青年の顔が浮かんだ。
少なくとも、わたくしの拳をきっちり顔で受け止めた方が口にしていい評価ではない気がする。
言い返せないのが少しだけ惜しい。
「最後にはその二人、衛兵にまで逆らって逃走しましてね。私としては寛大に済ませてやるつもりだったのですが、いやはや、最近は旅人の質も落ちたものです」
アルヴィンは困ったものだと言わんばかりに首を振る。
寛大。
それも便利な言葉ですこと。
エルンが聞いたら、きっと困った顔で「僕、何もしてないんですけど」と言うのでしょうね。
そう考えると、少しだけ可笑しくなった。
「アルヴィン様」
セドリックの静かな声が割って入った。
薄い笑みは崩さず、ほんの少しだけアルヴィンへ顔を向ける。
「監察官殿は備蓄確認のためにいらしています。そのお話は、また後ほどになさってください」
「あ、ああ。そうだったな。昨日のことだから、つい参考になるかと思って話してしまった」
何の参考ですの。
自慢話を止められただけなのに、本人だけは有益な情報提供を中断したつもりらしい。
それにしても、セドリックは見事だった。
声を荒らげるでもなく、眉一つ動かすでもなく、このお坊ちゃんを二言で黙らせる。
あれも一種の腕前ですわね。
そのまま倉庫の奥へ進むうち、最初の違和感を覚えた。
穀物袋を肩へ担ぐ男、木箱を二人で運ぶ男たち、帳簿を持って行き来する倉庫番。見たところ、どこにでもいる働き手にしか見えない。
けれど、わたくしの横を通り過ぎた男は、重そうな袋を担いでいるわりに足運びが妙に静かだった。
別の一人は手ぶらなのに、右手を腰の近くからほとんど離さない。そこには今、武器などない。それでも、何かあればすぐ抜ける位置へ手がある。
癖でしょう。
戦う者の。
退屈していた頭が、ようやく少しだけ目を覚ました。
さらに一人。
木箱を床へ下ろした拍子に袖がずれ、手首に黒い筋が見えた。
入れ墨かと思った。
三か所が欠けた輪。その中央に、縦に細い瞳。
ほんの一瞬だったけれど、妙に目へ残る形だった。
けれど次の瞬間には消えている。袖の下へ隠れたのではなく、本当に皮膚の中へ沈んだように見えた。
男がこちらを見る。
ほんの一瞬、視線が合った。
ぞわりと首筋を何かが撫でる。
殺気とは少し違う。
もっと粘ついていて、刃物を突きつけられたというより、暗い穴の底から何かにじっと見上げられているような、ひどく嫌な気配だった。
まあ。
フードの奥で、ほんの少し口元が緩んだ。
ようやく袋と木箱以外のものが出てきましたわね。
一人ではない。
少し離れたところに二人、さらに奥にも一人いる。互いに合図を送り合っている様子はないのに、わたくしたちを囲むには妙に都合のいい位置に立っている。
倉庫番ではない。
衛兵でもない。
少なくとも、わたくしたちの見学を心から歓迎している方々ではなさそう。
「どうかされましたか?」
声をかけられ、視線を戻した。
セドリックがこちらを見ている。
相変わらず薄い笑みを浮かべたまま、わずかに首を傾けていた。
わたくしは何も答えない。
今日は極力喋るなと言われているし、こういう時だけはおじ様の言いつけも役に立つ。
「無口な護衛でな。仕事中は余計なことを喋らん。気にしないでくれ」
おじ様が代わりに答える。
「なるほど。失礼しました」
セドリックは軽く会釈し、それ以上追及せず前へ向き直った。
先ほどの男たちとは違い、この方自身から妙な気配は感じない。薄い笑みも、落ち着いた仕草も最初からほとんど変わらない。
だから余計に分からない。
あの者たちはこの方の部下なのか、それとも別の誰かに雇われているのか。
まあ、どちらでもいい。
無関係なら退屈なだけ。何か繋がりがあるのなら、そのうち向こうから何かしてくださるでしょう。
楽しみは、先に全部開けない方がいい。
「では最後に、こちらを」
セドリックが次の区画へ片手を向けた。
補修用らしい木材や鉄具が積まれた一角で、おじ様が帳面へ目を落としながら歩いていた時だった。
奥で荷を動かしていた作業員が、一つの木箱を横へずらした。
ほんの一瞬、その後ろに隠れていたものが見えた。
箱なのか、札なのか、何かの印なのか、わたくしには分からない。
ただ、おじ様の足がぴたりと止まった。
それまで気だるそうに帳面をめくっていた顔から、さっと色が消える。
あら?
「ガストン殿?」
セドリックが薄い笑みのまま呼びかける。
おじ様は一拍遅れて顔を上げた。
「……いや、何でもない。続けてくれ」
「何かお気づきの点でも?」
穏やかな声だった。
「ない。少し目が疲れただけだ」
「そうですか」
セドリックは軽く頷いた。
笑顔は変わらない。
けれど、その目だけが一度、おじ様の向こうへ流れた。
先ほど木箱を動かした男が、何事もなかったように荷を元へ戻す。
隠れた。
「では、こちらで東倉庫の視察は以上となります」
「……うむ」
おじ様が頷く。
声も顔も、もういつもの監察官らしいものへ戻っている。
それでも分かる。
さっき、何かを見た。
そして、できることなら見なかったことにしたい顔だった。
倉庫を出ると、外はよく晴れていた。
アルヴィンは早速「我が領地では」と次の自慢話を始め、セドリックが薄く笑って相槌を打っている。おじ様だけは、さっきまでより口数が減っていた。
わたくしは少し後ろを歩きながら、一度だけ倉庫を振り返った。
入口の脇に、先ほどの男が立っている。
もう荷物は持っていない。ただこちらを見ていた。
目が合う。
今度は逸らさない。
あの嫌な気配が、先ほどよりもはっきり肌へ届いた。
わたくしはフードの中で笑った。
昨夜のおじ様。
どうやら、完全な外れではなかったようですわね。




