第11話 三行では足りません
昼時だというのに、僕とオルレアは食堂の一番奥、表通りからはほとんど見えない席に座っていた。
窓際の方が明るくて好きだけれど、今日は文句を言える立場ではない。昨日、《葡萄樽亭》から衛兵に追われたばかりで、赤い服の女と緑色の髪の男という組み合わせは、どうやら思った以上に覚えられているらしい。
「エルン、もう少しフードを深く被ってください。横から髪が見えています」
向かいに座るオルレアが、自分のこめかみを指差して教えてくれる。
「食べる時までこれなの? 結構邪魔なんだけど」
「捕まって食事どころではなくなるよりいいでしょう」
少し眉を寄せ、まるで僕の方がわがままを言っているような顔をされた。
それはそうなんだけど。
この食堂はボルクさんの知り合いが営んでいて、事情を話すと嫌な顔一つせず裏口から入れてくれた。昨夜泊まった《赤い鳥亭》の主人も同じで、僕の顔を見るなり「今日は表から出るな」と裏階段を教えてくれたうえ、衛兵が聞き込みに来ても知らぬ存ぜぬで通してくれたらしい。
「みんな親切だなあ」
思わず呟くと、オルレアは水の入った杯を口元まで運びながら、じっと僕を見た。
「あなたに親切というより、領主一家に協力したくないんじゃありませんか?」
「そんなに嫌われてる?」
ちょうど料理を運んできた店主さんが聞きつけ、鼻で笑った。
「嫌われてるなんてもんじゃないさ。税だの許可料だの、何かにつけて金を取るからな。息子の方も町で好き勝手してるし、昨日の件だって先に絡んだのは坊ちゃんの方なんだろ?」
豆と野菜、それに細かく切った肉を煮込んだ皿が置かれる。焼いたパンまで付いていて、思ったより豪華だった。
「僕はほとんど何もしてないんですけど」
「だったらなおさらだ。ボルクの知り合いなら、飯を食わせて裏から帰すくらい構わんよ」
店主さんは笑いながら厨房へ戻っていった。
僕はその背中を見送り、パンをちぎる。
「……よっぽど嫌われてるんだなあ、ここの領主さん」
「そこで安心した顔をしないでください」
オルレアが呆れたように眉尻を下げた。
「してないよ」
「しました。ほんの少しだけ」
また顔で分かったらしい。
僕の顔は、自分で思っているよりずっとよく喋る。
煮込みを一口食べる。味は悪くないけれど、肉を噛んだところで塩気が強いことに気づいた。
「この肉、保存用だね」
「食べただけで分かるんですか?」
「塩がかなり強いから。ここで食べるならいいけど、商品としてルーデンまで持って帰るなら僕は買わないかな。保存は利くけど、その頃には塩味ばっかりになりそうだし」
オルレアが匙を止めた。
大きな淡い青紫の瞳が、少しだけ丸くなる。
「……ちゃんと商人をしてるんですね」
「してるよ!」
昨日から、僕は何だと思われているんだろう。
抗議すると、オルレアは慌てて澄ました顔を作ったけれど、口元は隠しきれずに緩んでいる。
「昨日は知らない女の人と手を繋いで逃げたり、屋根の上を走ったりしていたので、つい」
「あれは商売とは関係ないから。むしろ、あんなことしてる暇があったら商品を見ていたかったよ」
「それなら今日は、ちゃんとお仕事してくださいね」
偉そうに言いながら、どこか嬉しそうだ。
朝から――もう昼だけれど、オルレアは機嫌がいい。
本人に言えば絶対に否定するので、言わないでおく。
◇
食事を終え、僕たちは人通りの多い中央通りを避けながら市場を回った。
乾燥香草や南方産の豆を見て回ったあと、オルレアの足が露店の前でほんの少し遅くなる。
並んでいるのは指輪や耳飾り、細い鎖の首飾りに髪飾り。高価な宝石というほどではないけれど、色のきれいな石を銀細工で囲んだものが多い。
オルレアは何も言わず通り過ぎようとした。
けれど視線だけは、淡い青紫の石を使った髪飾りに残っている。
「気になるの?」
「別に」
返事だけは早かった。
僕が髪飾りを手に取ると、今度はぱちりと目を見開く。
「エルン、勝手に触らないでください」
「売り物なんだから見るくらいいいでしょ。ほら、この石、オルレアの目と似てる」
髪の横へ軽く合わせてみる。
長い白銀の髪に、淡い青紫の石がよく映えた。
「似合うね」
「……っ」
オルレアの目が大きくなった。
すぐに顔を横へ向けたけれど、白銀の髪の間から覗く耳まで少し赤い。
「そ、そういうことを簡単に言わないでください」
「本当に似合ってるから言ったんだけど」
「なお悪いです!」
何が悪いのか分からない。
店番の女性が僕たちを見て、楽しそうに笑った。
「まあ、可愛らしいお嬢さんだこと。その色、本当によく似合うよ。こっちの首飾りも合わせてみるかい?」
「い、いりません!」
オルレアが慌てて断る。
その横を通り過ぎた若い男まで、一度こちらを振り返っていた。
やっぱり初めて見る人には目立つらしい。
僕は髪飾りの値札を見る。
「これくらいなら――」
「戻してください」
さっきまで赤かった顔が、値札を見た途端に真面目になった。
「急だね」
「婚約者の財産形成を確認しに来た者の目の前で、無駄遣いしようとしないでください。ルーデンへ戻ってから困るのはあなたなんですよ」
「オルレアが欲しそうだったから」
「欲しそうになんてしてません!」
言い切って髪飾りを棚へ戻したものの、指を離す前に石を一度だけ撫でた。
……覚えておこう。
「今、あとで買おうと思いましたね?」
「どうして分かったの?」
「顔です」
もう隠す方法が分からない。
◇
次に入ったのは、保存食を扱う小さな店だった。
ここもボルクさんの知り合いで、店主さんは僕のフードから覗いた緑色の髪を見るなり「ああ、お前か」と妙に納得した顔をした。
「帰りは裏から出ろよ。表じゃ衛兵がうろついてる」
「……ありがとうございます」
この町では、僕が思っている以上に昨日の話が広まっているらしい。
「それで、干し肉を少し見たいんですけど」
「悪いな。今日は残ってる分だけだ」
言われて棚を見ると、確かに寂しい。干し肉は半分以下で、豆や乾燥野菜もところどころ空いている。
「ずいぶん売れたんですね」
「売れたというか、持ってかれたというか。昨日の夕方、領主様のところから大口の注文が入ってな。干し肉も豆も塩漬けも、あるだけ寄越せって話だ」
店主さんは空いた棚を見て、うんざりしたように肩を落とした。
「金はちゃんと払ってくれたから文句は言えんが、こっちは今日売る物がなくなっちまった」
「備蓄用ですか?」
「さあな。注文を回してきたのはセドリック様のところの連中だよ。若いのに、倉庫も仕入れも何でも仕切ってるお人さ」
セドリック。
領主の側近らしい。
「この時期に何をそんなに集めるんでしょう」
「それが分かれば俺も知りたいね」
店主さんは苦笑した。
残っている干し肉の中から状態のいいものを少しだけ選び、代金を払っていると、隣にいたオルレアの表情が変わった。
さっきまで商品を覗き込んでいた目がすっと細くなり、通りの向こうをじっと見ている。
「どうしたの?」
「あの人たち……」
声まで少し低い。
視線の先には三人の男がいた。一人は薄い茶色のシャツ、もう一人は作業用の上着、最後の一人は荷車を引いている。どこにでもいそうな格好で、荷車には油の壺と大きな包みが積まれていた。
三人は向かいの革屋で止まる。
「丈夫な革を、あるだけ欲しい」
聞こえてきた言葉に、革屋の主人が露骨に顔をしかめた。
「またかよ。昨日も随分持ってっただろ」
「足りない。ある分を出してくれ」
「何に使うんだ、こんなに」
「お前には関係ない」
感じのいい客ではない。
男が金袋を卓へ置いた拍子に、袖が少しずれた。
「あれ?」
手首に黒い線が見えた。
輪のような形だった気がする。
目を凝らした時にはもう見えなくなっていた。
「エルン」
オルレアが僕の袖を軽く掴んだ。
表情から、さっきまでの照れも機嫌の良さも消えている。
「あの人たち、嫌な感じがします」
「知ってる人?」
「いいえ。だから気になるんです」
男の一人がこちらを向いた。
目が合う。
睨まれたわけでもないし、怒っているようにも見えない。それなのに、胸の奥をざらりと撫でられたような感覚が残った。
人と目が合ったというより、草むらの向こうから大きな獣に見返されたような――いや、それとも少し違う。
「……僕も少し変な感じがする」
「でしょう?」
オルレアは僕の袖を掴んだまま、まだ男たちを見ている。
干し肉、豆、油、革。
どれも旅や野営では使うけれど、一度にこれだけ集める理由までは分からない。
男たちは仲間同士で短く何かを話し、荷車を引いて去っていった。
「追いかけたりしませんよね?」
オルレアがこちらへ向き直った。
大きな瞳に、今度は露骨な警戒が浮かんでいる。
「しないよ。昨日の今日だよ?」
「本当に?」
「首を突っ込んでもいないのに衛兵に追いかけられたんだから、今日はもう何にも関わりたくない」
僕が両手を軽く上げると、ようやくオルレアの険しかった眉が少し下がった。
「それならいいです。エルンは妙なところで人がいいから心配なんです」
「心配してくれてるんだ」
「今のは一般論です!」
言った途端、また少し頬が赤くなる。
さっきまでの真剣な顔はどこへ行ったんだろう。
◇
ひと通り店を見て回る頃には、昼を少し回っていた。
食堂へ戻って荷物を受け取り、店主さんへ礼を言う。
「もう帰るのかい?」
「はい。このまま実家へ戻ります」
オルレアが答えると、店主さんは思い出したように手を叩いた。
「そういや嬢ちゃん、ヴェルノ地方のルーデンだったな。それなら昼過ぎに北行きの馬車が出るぞ。まだ間に合うはずだ」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
オルレアはにこりと笑って、それだけで断った。
「そうか? まあ、気をつけて帰りな」
店主さんは少しだけ不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は聞かなかった。
僕も特に気にしない。
「行きましょう、エルン」
「うん」
店の裏口から出て、町の北側にある街道口まで一緒に歩いた。
そこまで来ると人通りも少なく、僕もようやくフードを少し上げることができた。
「本当にもう帰るの? 昨日来たばっかりなのに」
「何度聞くんですか。確認したいことはもう確認しました」
オルレアはそう言って胸を張ったけれど、歩く速度はさっきから少し遅い。帰るつもりはあるけれど、急いで別れたいわけでもないらしい。
「僕がちゃんと商売してるか?」
「それもです。それから、知らない女の人と手を繋いで逃げ回っていないかも確認しました」
そこで頬をぷくっと膨らませる。
「昨日の一回だけだよ」
「一回あれば十分です。それに、次からはあんなことにならないようにしてください」
「僕だってなりたくないよ」
「でしたら、昨日の赤い人には近づかないことです」
「向こうから来た場合は?」
オルレアが言葉に詰まった。
昨日はまさにそれだった。
「……逃げてください」
「そうするよ」
「それから、さっきの人たちにも近づかないでください。あちらは冗談ではなく、本当に嫌な感じがしましたから」
今度は眉を寄せ、少し心配そうに僕を見上げる。
「分かった。そっちも近づかないよ」
「本当に?」
「今日は同じことを何回確認するの?」
「エルンだからです」
どういう意味だろう。
反論しようとしたけれど、オルレアの顔が本気で心配しているように見えて、やめた。
しばらく二人で街道口に立っていると、風が吹いた。
長い白銀の髪がふわりと持ち上がる。
「それから手紙ですけど、次はもう少しちゃんと書いてください。三行で『元気です。商売は順調です。次はカレドへ行きます』では、手紙とは言いません」
「ちゃんと手紙だと思うけど」
「報告書より短いです!」
オルレアはむっと眉を寄せ、僕の胸元へ人差し指を突きつけた。
「もっと町のこととか、食べた物とか、どんな人に会ったとか、そういうことを書いてください」
「分かった。今度は長く書くよ」
「本当ですね?」
「うん」
やっと満足したらしく、人差し指が下がる。
オルレアは数歩街道へ進み、そこで一度振り返った。
「エルン」
「なに?」
さっきまでの勢いが少し消え、今度は両手の指を胸元で重ねている。
「……次の手紙、待ってますから」
声も少しだけ小さい。
「うん。ちゃんと書く」
「最初からそうしてください」
そう言いながら、口元は嬉しそうに緩んだ。
僕も笑って手を振る。
「じゃあ、気をつけてね」
「エルンこそ。絶対に変なことへ首を突っ込まないでくださいね」
「分かってるよ」
白い姿が街道の先へ遠ざかっていく。
しばらく手を振ってから、僕も町へ戻った。
一人になると、少しだけ寂しく感じた。
昨日まで一人で旅をしていたのだから、元に戻っただけなのに。
肩掛け鞄の位置を直し、もう一度フードを深く被る。
まだ少し買い付けが残っている。
あとは市場へ戻ってそれを済ませ、ボルクさんのところで商品を整理してから宿へ帰ればいい。
できれば、今日はもう誰とも揉めたくない。
裏通りを選んで市場へ戻る途中、薬屋の前から店主の愚痴が聞こえてきた。
「包帯までまとめて持ってかれちまったよ。セドリック様の注文じゃ断れねえしなあ」
思わず足が少し遅くなる。
保存食に油、革、今度は包帯。
ずいぶん色々買うんだな。
領主というのは、そういうものなんだろうか。
僕には分からないし、今は分からなくていい。
昨日、それを嫌というほど学んだ。
薬屋を通り過ぎ、市場へ向かいながら、ふと思う。
昨夜は宿の主人に匿ってもらい、今日はボルクさんの知り合いに裏口から飯を食べさせてもらった。
本当に、ここの領主一家はよほど嫌われているらしい。
ありがたい話ではあるけれど、できれば明日はもう、誰にも匿われずに済む一日にしたい。




