第12話 見なかったことにしたい
まずい。
朝の視察を終えてから何度考え直しても、結論は変わらなかった。あれは、どう考えてもまずい。
できることなら見間違いだったことにしたいし、昨夜の安酒が時間差で効いて幻でも見せたことにしたい。だが残念ながら、俺はあの程度の酒で幻を見るほど安上がりな身体をしていない。
「……くそ」
領主館の一室で、積み上がった帳簿を前に声を押し殺した。
東区の備蓄倉庫に関する記録は、セドリックが言った通りよく整理されている。穀物、保存食、木材、石材、街道補修用の鉄具。数字を追えば多少どころではなく盛られている箇所もあるが、そこは今さら驚くところではない。
ヴァルターの帳簿が綺麗なわけがない。
むしろ綺麗だったら、昨日受け取った銀貨の意味を問い直さなければならなくなる。
問題は、帳簿に載っていない方だ。
倉庫の奥で作業員が木箱を動かした、ほんの一瞬。その後ろに隠れていた頑丈な箱の側面には、盾を二つ重ね、その中央を剣が貫く焼印が押されていた。
王国軍の管理印。
しかも横には、管理番号まで刻まれていた。
地方領主が金を積めば好きに買えるような代物ではない。王国軍の兵站を通して動く軍用品なら、払い下げにしろ移送にしろ、必ずどこかに記録が残る。
ところが今、俺の前にある帳簿には一文字もない。
「なんであるんだよ……」
額を押さえながら、もう一度考える。
正式な払い下げなら記録がある。別の領地から譲られたとしても届け出が必要だし、王国軍が一時的に置いているだけなら、わざわざ監察官の目から隠す理由がない。
都合のいい答えを一つずつ潰していくと、最後に残るものは大抵ろくでもない。
盗品か、横流しか。
あるいは、俺の想像力がまだ追いついていない、もっと面倒な何か。
箱の中身までは見ていない。それだけが今の俺に残された救いだった。
何が入っていたか知らない。俺は箱を見ただけだし、箱を見ること自体は罪ではない。
そうだ。そういうことにしよう。
だが王都へ戻ったあと、誰かに「ガストン監察官、東倉庫を視察なさいましたよね?」と聞かれた瞬間、この理屈は紙より薄くなる。
王都から監察官が来た。倉庫まで見た。軍用品が隠されていた。それなのに何も報告せず、ついでに領主から金まで受け取って帰った。
――はい共犯。
「冗談じゃねえぞ……」
椅子の背へ身体を預け、天井を睨む。
ヴァルターが税をごまかしているだけなら、まだよかった。
いや、よくはない。
よくはないが、俺にも扱える種類の悪事だった。少々数字を見なかったことにして、少々厚意を受け取り、少々機嫌よく王都へ帰る。
世の中、何事も少々で済ませるから丸く収まるのである。
軍用品の横流しは、その「少々」の箱に入らない。
俺は多少腐っている。それは認める。
だが腐り方にも格というものがある。
銀貨を何枚か懐へ入れるのは、小皿に乗る程度の腐敗だ。軍用品を横へ流して何か企んでいる連中と、同じ鍋へ放り込まれては困る。
こっちはまだ前菜だ。
向こうは宴会料理である。
一緒にするな。
苛立ちながら前髪へ手をやり、そっと位置を確かめる。
よし。
少なくとも頭の上だけは、まだ秩序が保たれている。
「ガストン殿」
「うおっ!」
扉の向こうから声をかけられ、椅子がぎしりと鳴った。
「失礼いたしました」
聞き慣れた穏やかな声。
セドリックだ。
今、一番聞きたくない声でもある。
「間もなく本日の確認事項が終了いたします。追加でご覧になりたい資料はございますか?」
扉越しだというのに、あの薄い笑顔が浮かぶ。
こいつは知っているのか。
あの箱を。
昨夜、盗聴具越しに聞いた会話では、倉庫に領主の衛兵とは別の連中を紛れ込ませていた。余計なものを見た場合は自分が判断する、とも言っていた。
俺が見たあれは、余計なものに入りますか。
聞いてみたい。
答えを聞いた瞬間、寿命が縮みそうなので聞きたくない。
「ガストン殿?」
「ああ、いや。もう十分だ。追加はない」
少し声が高くなったので、咳払いで誤魔化した。
「そうですか。では、お宿まで馬車をご用意いたします」
「いや、歩く」
口から出た。
扉の向こうで、ほんの一拍だけ間が空いた。
「歩いて、ですか?」
「ああ。せっかく現地まで来たんだ。帰りながら町の様子も見ておきたい。帳簿だけ眺めて監察した気になるほど、俺は怠け者じゃない」
自分で言っておいて感心した。
今のはなかなか監察官らしい。
王都の上司に聞かせてやりたいくらいだ。
「承知いたしました。では、門までお送りいたします」
「いや、それもいい。護衛もいるからな」
「かしこまりました」
足音が遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなってから、ようやく息を吐いた。
別に町を見たいわけではない。
領主側が用意した馬車に乗りたくないだけだ。
今朝、領主館から東倉庫へ向かい、こうして館へ戻ってくるまでは何事もなかった。だが、その時と今では事情が違う。
昨夜の盗聴。
今朝の箱。
俺が何か見たと相手に知られている可能性。
この状況で「どうぞこちらへ」と差し出された乗り物に素直に収まれる人間は、ずいぶん育ちがいい。
俺は育ちより警戒心を大事にしている。
特に、自分の命が絡む時は。
◇
館を出た頃には、空がすっかり夕方の色に染まっていた。
赤く照らされたカレドの町並みは、昼間より少し穏やかに見える。
俺の心は一切穏やかではない。
あの箱を報告するべきか、見なかったことにするべきか。それとも今夜のうちに王都へ逃げるか。
ヴァルターに聞く?
駄目だ。
もしあいつが何も知らなかったら、今度は俺が余計なことを教える側になる。
ではセドリックに聞く?
もっと駄目だ。
本人に「お前、俺を殺す気ある?」と尋ねるようなものだ。
どうする。
どうする俺。
まずは宿へ戻る。それから考える。できれば酒でも飲んで、頭の中に居座っているあの木箱を少し黙らせたい。
そんなことを延々考えながら、少し前を歩く鼠色の外套を無意識についていく。
「ふんふふ~ん」
鼻歌まで聞こえてきたが、今はそれどころではない。
報告するなら、どこまで書く。
王国軍の管理印を確認、と正直に書けば確実に大事になる。ぼかして書けば、後から「なぜ詳しく調べなかった」と俺が詰められる。
だったら先に証拠だけ――。
「……ん?」
ようやく、目の前の景色がおかしいことに気づいた。
商店がない。
家も減っている。
代わりに古い倉庫と高い塀ばかりが並び、人影まで妙に少ない。
猫ですら、もう少し賑やかな道を選びそうな場所だった。
俺は足を止める。
「おい」
「なんですの?」
ダリアが振り返った。
朝と同じ鼠色の外套にフード、顔の下半分も布で隠している。昨日の赤い女だとは、まず分からない。
そこまでは完璧だ。
問題は中身である。
「ここ、宿への道じゃねえよな?」
「ええ、違いますわ」
「…………」
あまりにあっさり認められて、言葉が出なかった。
「じゃあ、どこへ向かってる」
「人の少ないところへ」
「なんでだよ」
ダリアがわずかに首を傾けた。
フードの奥で、目元だけが楽しそうに細くなる。
「ずっとついてきている方々が、出てきやすいように」
数秒、意味を飲み込むのにかかった。
「先に言えええええ!」
俺の声が人気のない道によく響いた。
ダリアは人差し指を口元へ立て、少し迷惑そうに眉を寄せる。
「静かになさって。せっかくここまで来ていただいたのに、逃げてしまったらどうするんです?」
「逃げてくれ! 今すぐ逃げろ! できれば二度と戻ってくるな!」
「それでは困りますわ」
「俺は助かる!」
「わたくしが困ります」
「お前の都合で俺の命を使うな!」
護衛というものは普通、危険から遠ざける仕事だと思っていた。
どうやらこの女に頼むと、尾行してきた連中が襲いやすい場所へ護衛対象ごと誘導するらしい。
「お前、俺を餌にしたな?」
「ちゃんと護衛しておりますわ」
「餌を守りながら釣るのを護衛とは言わねえ!」
契約書を作っておくべきだった。
『護衛対象を餌として使用しないこと』
たった一行。
まさか必要になるとは思わない。
「何人いる」
「四人ほどかと思っていましたけれど、途中で一人増えましたから五人ですわね」
「五人もいて黙ってたのか!?」
「ちゃんと今お伝えしましたわ」
「報告には鮮度ってもんがあるんだよ!」
市場の魚でも、もう少しましな扱いを受ける。
俺が額を押さえていると、ダリアがふと視線を上げた。
さっきまで浮かんでいた悪戯っぽい笑みが少し変わる。
消えたわけではない。
むしろ、楽しそうな色だけが濃くなった。
「来ましたわね」
背後で足音が止まった。
胃のあたりが嫌な具合に縮む。
できれば振り返りたくない。
振り返らなければ、いないことにならないだろうか。
ならない。
世の中、こういう時だけ現実に厳しい。
ゆっくり振り返る。
道の向こうに三人、横の細い路地から二人。
どこにでもいそうな男たちだった。一人は作業着、一人は薄手のシャツ、もう一人など荷運びを終えた職人にしか見えない。
だが、何人かには見覚えがある。
今朝、東倉庫で見かけた男たちだ。
「……やっぱり、お前らか」
返事はない。
五人は一定の間隔を保ったまま広がり、こちらの前後と横を塞いでいく。動きに迷いがなく、領主の衛兵でもないらしい。衣服には紋章一つ見当たらなかった。
俺の嫌な予感が、朝から一つも外れていない。
たまには役に立たない勘であってほしい。
「なあ、ダリア」
相手から目を離さず、少しだけ女の方へ寄る。
「なんですの?」
「勝てるんだろうな?」
「まだ何とも」
「そこで慎重な回答はいらん! 今だけは根拠なくてもいいから勝てるって言え!」
「では勝てますわ」
にっこり笑われた。
「急に軽く言うな! さっきより不安になっただろうが!」
「注文の多い依頼人ですこと」
「命がかかってんだよ!」
五人のうち、一人が前へ出た。
「ガストン監察官」
低い声で名前を呼ばれた瞬間、背中に冷たい汗が流れる。
俺を知っている。
知っていて、館からずっとついてきた。
ますます帰りたい。
「何の用だ」
「少々、お話がございます」
「こんな場所へ五人で囲んでする話か? 俺はもっと明るくて酒のある場所が好きなんだが」
「東倉庫でご覧になったものについて、忘れていただきたい」
やっぱり、それか。
内心では頭を抱えつつ、表だけは何食わぬ顔を作る。
「何のことだ。俺は帳簿を見て、倉庫を見て、箱をいくつか見ただけだ。中身なんぞ何も知らん。そっちも俺が何も知らないことにしてくれれば、お互い平和に帰れるだろ」
我ながら素晴らしい提案である。
俺は黙る。
お前らも黙る。
誰も傷つかない。
世界は平和。
男は少しも表情を変えなかった。
「でしたら、話は早い」
お。
分かってくれたか。
「何も知らないまま、消えていただきます」
「そっちに早いのかよ!」
期待した俺が馬鹿だった。
男が上着へ手をかける。
武器かと思って身構えた次の瞬間、五人が一斉に外側の服を脱ぎ捨てた。
その下から現れたのは、頭から足元まで覆う黒いローブに、深いフードと顔を隠す黒布。
俺は思わず目を瞬いた。
「……待て。お前、さっきまで半袖だったよな? どこにそれ着てた」
「まあ。皆様、お着替えがお早いですこと」
隣でダリアが感心したように目を丸くする。
「速さの問題じゃねえ!」
一瞬だけ、敵に囲まれていることより服の収納場所が気になった。
怖すぎると、人間の頭はどうでもいいところへ逃げるらしい。
だが五人は説明する気などない。
黒ローブの一人が短剣を抜き、残る四人もそれぞれ剣や短刀を構えた。
それだけで、空気が変わった。
今朝、倉庫で見かけた時とはまるで違う。
俺でも分かる。
速そうだし、強そうだ。
どちらも今はいらない。
「な、なあ」
喉が少し乾いた。
「やっぱり勝てるんだろうな?」
「さあ」
「さっき勝てるって言っただろ!」
「おじ様が言えとおっしゃったから」
「この野郎!」
ダリアがくすりと笑った。
その笑い方が、むしろ嫌だった。
怖がっていない。
それどころか、完全に楽しみ始めている。
「まあ、ご安心を」
鼠色の外套を留めていた金具へ指をかける。
「ご依頼は護衛でしょう?」
「そうだ! 今こそ働け!」
「では、働くことにいたしますわ」
外套が肩から滑り落ちた。
その下から現れたのは、赤ではなく黒を基調にした軽装だった。
昨夜、俺が赤を着るなと散々言ったので、本当に我慢したらしい。
そこだけは褒めてやりたい。
今ではない。
ダリアは腰の剣へ手を添え、ゆっくりと前へ出た。
黒い鞘に深紅の帯が一本。銀色の鍔へ指を掛けながら、五人を順番に値踏みするように見回していく。
相手を値踏みするように目を細め、それでも口元は楽しそうに上がっていた。
「朝からずっと退屈でしたの」
五人の黒ローブが、一斉に地面を蹴る気配を見せる。
「ようやく、少しは楽しめそうですわね」
五人の重心が、ほとんど同時に前へ傾いた。
俺はその真ん中で、朝から何度目になるか分からない後悔をした。
見てはいけない箱なんぞ見つける前に、帳簿の数字だけ眺めて帰ればよかった。
いや、その前だ。
昨夜、盗聴なんぞしなければよかった。
もっと前まで戻れるなら、そもそもカレドへの左遷を――。
駄目だ。
後悔が長すぎる。
今は一つだけでいい。
やっぱり馬車で帰ればよかった。




