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トライノット ―旅路の結び目―  作者: ヤソタケル


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第6話 笑顔の取り立て

「なんだこりゃあ」


 《葡萄樽亭》の入口に立ったまま、思わず声が出た。


 遅めの昼飯ならここがいい。肉料理がうまく、カレド名物の果実酒も悪くない。


 そう聞いて、わざわざ中央通りまで足を運んできたのだ。


 それがどうだ。


 椅子はあちらこちらでひっくり返り、中央の大テーブルには割れた皿や食べかけの料理が散乱している。床には酒まで広がり、脚の折れた椅子が壁際へ無残に積み上げられていた。


 店員たちは片づけに走り回り、客らしい客はほとんど残っていない。その代わり、槍を持った衛兵が何人も店内をうろついている。


 どう見ても営業中の食堂ではない。


 戦でもあったのか。


「……俺の昼飯は?」


 誰に聞くでもなく呟いた。


 朝から領主のありがたい長話を聞かされ、腹にはろくなものを入れていない。しかも今日は、領主殿から心のこもった労いまで頂いて懐にも余裕がある。


 普段なら値段を見て諦める肉を頼む。少し高い酒も飲む。食後には菓子まで付けてやる。


 そんな夢を膨らませ、空腹までご馳走の一部だと思って我慢してきたというのに、どこの馬鹿か知らないが、そのささやかな幸福を皿ごと床へ叩き落としてくれたらしい。


「ふざけやがって……」


 腹が減っていると、人間は心まで狭くなる。


 いや、これは俺が狭いんじゃない。昼飯を食わせない世の中が悪い。


 近くを通った衛兵を呼び止めた。


「おい。ここで何があった?」


 革鎧の肩にカレドの紋章を付けた若い衛兵だった。手には何やら書き付けを持っている。


「今、取り込み中だ。関係ないなら外へ出てくれ」


 それだけ言って、足すら止めずに通り過ぎようとした。


 ……ほう。


 昼飯を潰されたところへ、この態度か。


 じわじわとこめかみが熱くなり、無意識に前髪へ手が伸びた。指先で軽く撫で、位置を確かめる。


 よし。


 髪は問題ない。


 問題があるのは、こいつの態度だ。


「おい」


「だから今は――」


「俺が誰だか知ってて言ってるのか?」


 少し声を低くすると、ようやく衛兵が振り返った。


 顔を見ても分からなかったらしい。


 まあ、それは仕方ない。地方の衛兵が王都の役人の顔を一人残らず覚えていたら、それはそれで気味が悪い。


 だが、知らないなら教えてやればいい。


 こういうものは、使えるときに使うために持っているのだ。


 懐から身分証を取り出し、目の前へ突きつける。


「王都より派遣された監察官、ガストンだ」


「……え?」


 衛兵は身分証と俺の顔を二度ほど見比べた。


 次の瞬間、さっきまでの面倒そうな顔がきれいに消える。


「し、失礼いたしました! ガストン監察官殿とは存じ上げず!」


 背筋まで見事に伸びた。


 ほら見ろ。


 やればできるじゃないか。


「最初からそうしてりゃいいんだ」


「申し訳ありません!」


「うむ」


 悪くない。


 王都ではこの肩書きのせいで辺境まで飛ばされたというのに、地方へ来れば一声で人間の腰が低くなる。


 同じ肩書きでも、使う場所を選べばちゃんと役に立つらしい。


「で、何があった?」


「それが、その……」


 今度は急に言葉を濁し始めた。


 さっきまでのぶっきらぼうな態度はどこへやら、口を開くたびにこちらの顔色を窺っている。


 この顔は知っている。


 話の中に、面倒な偉い奴が混じっている顔だ。


「言え」


「アルヴィン様が、こちらで騒動に巻き込まれまして」


「ああ」


 それだけで、かなり納得した。


 つい数時間前、領主の館で聞いたばかりだ。


 町の視察に熱心なご子息。


 そして道中で耳にした噂によれば、親の権力を笠に着て町で随分好き勝手やっているらしい。


 そのアルヴィン様が食堂で騒動。


 どちらが先に何をしたのか、聞く前からだいたい想像がつく。


「何をやらかした?」


「いえ、その、アルヴィン様がやらかしたと決まったわけでは……」


「分かった分かった。そこはそういうことにしておけ」


「はあ……」


 衛兵が困った顔をした。


 可哀想に。


 上に馬鹿がいると、下で働く人間は余計なところで頭を使わされる。


 俺には関係ないが。


「相手は?」


「旅人らしき女です。アルヴィン様のお話では、ご自分は普通に食事をしていただけなのに、突然因縁をつけられて暴行を受けたと」


「普通にねえ」


 その時点でだいぶ怪しい。


「さらに金銭まで奪われたとのことで」


「ほう」


 これは半分どころか、四分の一くらいで聞いたほうがよさそうだ。


「それで護衛の方々が止めようとしたのですが、全員やられまして」


「全員?」


「四名とも」


 思わず店内を見回した。


 領主の跡取りにつける護衛なら、そこらの酔っ払いや賊よりはまともな腕をしているはずだ。


「衛兵が到着したあとも抵抗されまして……」


「お前らもやられたのか?」


「……何名か」


 そこだけ急に声が小さくなった。


 なるほど。


 領主の護衛四人を倒し、駆けつけた衛兵まで相手にした。


 ずいぶん元気な旅人だ。


 いや、元気で済ませていいのか、それ。


「どんな女だ?」


「背の高い若い女です。淡い栗色の髪で、赤い服を着ていました。腰には剣を一本。黒い鞘に赤い飾りがあり、銀色の鍔も少し特徴的だったそうです」


 そこで、頭の奥に何かが引っかかった。


 赤い服。


 栗色の髪。


 黒い鞘に赤い飾り。


「それと、ダリアと名乗っていたそうです」


「ダリア?」


 今度ははっきり引っかかった。


 どこかで見た名前だ。


 王都の役所へ送りつけられてくる、山のような書類のどこかにあった。


 税の報告、事件記録、指名手配書、賞金首の一覧。


 その中で、妙に何度も目にした女が一人いる。


「……待て。赤のダリア?」


 衛兵が目を見開いた。


「ご存じなのですか?」


「知ってるというか、役人なら一度くらい名前を見ててもおかしくない」


 ようやく思い出した。


 赤のダリア。


 名の知れた賞金稼ぎ。


 そして、本人も賞金首。


「確か、賞金首を捕まえて金を稼いでるくせに、自分の首にも賞金がかかってる女だ」


「そんな人がいるんですか?」


「いるから役所が困ってんだよ」


 賞金首を捕らえては役所へ突き出し、堂々と報奨金を受け取って帰っていく。その本人の手配書が、同じ役所の壁に貼ってある。


 捕らえようとした役人や兵士まで返り討ちに遭ったとかで、今では報奨金だけ渡して、とっとと帰ってもらう役所まであるらしい。


 聞いているだけで頭が痛くなる話だ。


 武勇伝だけなら立派な賞金稼ぎである。山賊の一団を一人で潰した、名の通った賞金首を何人も捕まえた――ここまでならいい。


 問題は、その武勇伝と同じくらい騒動の記録も多いことだ。


 酒場を壊した。捕らえようとした兵士へ抵抗した。有力者の屋敷へ勝手に入り込んだ、なんて報告まであったはずだ。


 賞金稼ぎとしては一流。


 社会人としてはだいぶ怪しい。


 しかも厄介なことに、妙な噂まで山ほどある。


 数百人に囲まれて笑っていた。崖から落ちた翌日、別の町で何事もなかったように賞金首を捕まえていた。


 もちろん噂なんぞ、放っておけば勝手に足が生えて走り回る。全部を信じるほど俺も馬鹿じゃない。


 だが、改めて《葡萄樽亭》の惨状を見ると、少しくらいなら信じてもいい気がしてきた。


 ひっくり返った椅子。壊れた大テーブル。護衛四人。衛兵まで何人かやられた。


「……案外、噂も馬鹿にできねえな」


「はあ」


 それにしても、領主の馬鹿息子も大した引きの強さである。


 町には若い女なんぞいくらでもいるだろうに、よりにもよって役人の間でも名前が知られている賞金首に声をかけるとは。


 女を見る目だけはある。


 悪い意味で。


「それと、若い男が一人、一緒に逃げています」


「男?」


「緑色の髪で、旅商人のような格好をしていたそうです。名前はエルンと」


「エルン……?」


 聞いたこともない名前だった。


 それより、赤のダリアに仲間なんていたか?


 少なくとも俺が見た報告では、あの女はどこへ行くにも一人で好き勝手やっている印象しかない。


「まあ、どうせその場で拾った男か何かだろ」


「拾った……?」


「あの手の女の考えることを真面目に考えるな。頭が疲れる」


 衛兵はまだ何か言いたそうだったが、これ以上付き合っても失われた昼飯が戻ってくるわけではない。


「もういい。ご苦労だったな」


「はっ!」


 きれいに頭を下げる衛兵を見て、少しだけ満足する。


 うむ。


 最初からそれでよかったんだ。


 《葡萄樽亭》をあとにした。


 さて。


 事件はどうでもいい。


 問題は昼飯である。


 肉を食う気満々でここまで来たせいで、今さら軽いものでは腹が納得しそうにない。


 確か少し戻ったところに焼き鳥の店があったが、今日は懐が暖かい。もっと上等な店へ行っても罰は当たらないだろう。


 焼いた魚に厚切りの肉。果実酒を一本つけて、食後に菓子まで頼む。


 領主殿から頂いた厚意を、少しくらいこの町へ還元してやるのも監察官の務めというものだ。


 うむ。


 立派な地域貢献である。


 そんなことを考えながら中央通りを歩いていると、背後から柔らかな声がした。


「ガストンさん」


 足が止まった。


 ついでに心臓まで一瞬止まったような気がした。


 聞き覚えがある。


 できることなら、今すぐ記憶ごと捨ててしまいたい声だった。


「お久しぶりですね」


 恐る恐る振り返る。


 そこには、すらりとした青年が立っていた。


 濃紺の上着に白いシャツ。革靴まできれいに磨かれ、黒髪も短く整えられている。細い銀縁眼鏡の奥には、いつもと変わらない穏やかな目。


 どこから見ても、礼儀正しい商家の若旦那といった風貌だった。


 それなのに俺の目には、街道で武器を構えた賊よりよほど恐ろしく映る。


「レ、レイモンドさん!?」


「はい。レイモンドです」


 にこりと笑う。


 爽やかで、穏やかで、実に感じがいい。


 だから怖い。


 さっきまで肉だ魚だ酒だと騒いでいた胃袋が、一瞬で「水だけでも十分です」と言い出した。


 無意識に前髪へ手が伸びる。


 なぜいる。


 王都にいるはずじゃなかったのか。


 まさか俺を追って、こんな辺境まで来たわけじゃないだろうな。


 いや。


 あの手の連中なら来る。


 金の匂いさえすれば、国境の一つや二つ笑顔で越えてきそうだ。


「いやあ、奇遇ですねえ!」


 自分でも驚くほど声が上ずった。


「本当に。こんなところでお会いするとは思いませんでした」


「ですよねえ! いやあ、驚きましたよ。ははは!」


 笑っておく。


 とりあえず笑っておけば、敵意がないことくらいは伝わる。


 借金取り相手に敵意を見せて得をした人間を、俺は知らない。


「お元気そうで何よりです」


「ええ、おかげさまで! レイモンドさんも、ますますお元気そうで!」


「ありがとうございます」


 何だこの会話。


 互いの健康を喜んでいるだけなのに、背中がじっとりしてきた。


 さっき衛兵相手に見せた威厳はどこへ行ったのか。


 知らん。


 必要のない威厳は、しまっておくに限る。


「こちらにはお仕事ですか?」


「え、ええ! 国の監察でしてね。いやあ、忙しい身というのは困りますな。あっちへ行け、こっちへ行けと、まったく休む暇もない!」


「それは大変ですね」


「本当に! 役人というのも楽じゃありませんよ!」


「お察しします」


 実に優しい。


 優しすぎる。


 こういう男が笑顔で相槌を打っているときは、たいていこちらの財布に悪いことが起きる。


「ところで」


 来た。


 胸の奥がきゅっと縮んだ。


 そこまで天気の話でもしていたような気軽さで、レイモンドは続ける。


「先月分のお支払いが、まだでしたね」


「ああー……」


 思い出した。


 いや、忘れてはいない。


 決して忘れていたわけではない。


 思い出さないように努力していただけだ。


「もちろん覚えてますとも!」


 胸を張るところではないが、声だけは明るくしておく。


「それはよかった」


「ただ、ほら! 急に地方へ派遣されましてね。王都へ戻ってからまとめてお支払いしようと思っていたんですよ!」


「なるほど」


 レイモンドは穏やかに頷いた。


 よし。


 少しは通じたか。


「ですが、期日は過ぎておりますので、すでに利息が少々」


「ですよねえ!」


 通じてなかった。


 知ってる。


 知ってるとも。


 知りたくなかっただけだ。


「もちろん、すぐにお支払いいただけるのであれば問題ありません。ただ、さらに遅れるようでしたら――」


「いやいやいや!」


 その先を聞く前に頭を下げた。


 さっきまで衛兵に頭を下げさせていた男と同一人物とは思えないほど、きれいに腰が曲がった。


 だが恥ではない。


 これは処世術だ。


 払えない人間ほど、頭くらいは無料で下げておくべきなのである。


「忘れてたわけじゃないですよ! 本当に! ちょうど今、お支払いしようと思っていたところでして!」


「そうでしたか」


「ええ、もう本当にちょうど!」


 我ながら無理がある。


 だが、言い切れば多少は事実に近づくかもしれない。


 懐へ手を突っ込む。


 指先に革袋が触れた。


 領主殿から頂いた、心のこもった厚意。


 ほんの少し前まで、この袋には肉と酒と甘いもの、それから数日分の余裕まで詰まっていた。


 それを手放す。


 嫌だ。


 ものすごく嫌だ。


 だが、レイモンドの笑顔はもっと嫌だ。


「こちらで!」


 両手で革袋を差し出した。


 片手ではない。


 両手だ。


 こういうところで誠意を見せておくのは大事である。


「ふむ」


 レイモンドが受け取り、紐をほどく。


 銀貨の音がした。


 領主の館ではあれほど美しく聞こえた音が、今では自分の財布から寿命を抜かれているようにしか聞こえない。


 レイモンドが銀貨を一枚ずつ数えるたび、俺の昼飯と酒と、その先の幸福まで目の前で着実に減っていく。


 頼むから、そんなに丁寧に数えないでくれ。


「では、先月分と利息分を頂きますね」


「……はい」


 銀貨の大部分が、きれいにレイモンドの懐へ消えていった。


 返された革袋を受け取る。


 軽い。


 悲しいほど軽い。


 さっきまでは未来が入っていたのに、今では風でも詰めて返されたのかと思うほどだった。


「領収書はいりますか?」


「もちろんお願いします!」


 今日一番迷いのない返事が出た。


 レイモンドが一瞬だけ目を丸くし、それから俺の顔を見て何とも言えない間を置いた。


「……承知しました」


 何だ、その顔は。


 当然だ。


 金を払った証拠を残さないほど、俺は金に無頓着ではない。むしろ金のことだからこそ証拠が大事なのだ。


 レイモンドがさらさらと領収書を書き上げる。


 受け取ると、まず金額。次に日付。最後に署名。


 よし。


 間違いない。


 これだけは何があってもなくさない。


「では、次回もよろしくお願いしますよ」


「もちろんですとも!」


 払えるとは言っていない。


 よろしくすると言っただけだ。


「それでは」


 レイモンドが歩き出す。


 俺は深々と頭を下げ、その背中を見送った。


 終わった。


 銀貨は減った。昼飯は安物に格下げされた。


 だが、これであの笑顔から解放される。


 命までは取られていない。


 今日は勝ちということにしておこう。


「ああ、そうそう。ガストンさん」


「はい?」


 数歩進んだレイモンドが振り返った。


 いつもの柔らかな笑顔だった。


「髪、少しずれてますよ」


「えっ」


 反射的に両手が頭へ伸びた。


「あ、ありがとうございます!」


「いえいえ。それでは」


「どうも、ご親切に……!」


 ぺこぺこと頭を下げながら見送る。


 レイモンドが人混みへ消れてからもしばらくその背中を目で追い、もう近くにはいないことを念入りに確かめてから、ようやく顔を上げた。


「……くそっ、あの眼鏡野郎」


 軽くなった革袋を握り、もう片方の手で前髪を何度も撫でる。


 本当にずれているのか。


 ずれているならどちらなのか。


 触れば触るほど正解が分からなくなる。


 銀貨は持っていく。昼飯の夢は潰す。最後には髪まで不安にさせていく。


 借金取りというのは、本当にろくな商売じゃない。


 そう毒づく俺の手には、しわくちゃになりかけた領収書だけが、しっかりと握られていた。


 借りた金を返しているだけだという事実については、今は考えないことにした。

お読みいただきありがとうございます。

全22話執筆済みです。毎日1話ずつ更新予定です。

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