第5話 名前を呼ばないで
「ぶっ――!」
少し離れたところから金髪の青年が吹き飛んできて、中央の大きなテーブルへ背中から突っ込んだ。
皿や杯がひっくり返り、昼食だったものが卓上いっぱいに散らばる。
僕はそろばんを持ったまま固まった。
「……うわ」
何が起きたんだろう。
ついさっきまで普通に昼ご飯を食べていたはずなのに、いつの間にか店の真ん中で喧嘩が始まっている。
いや、喧嘩と呼んでいいのだろうか。
一方だけ、ずいぶん景気よく飛んでいた。
吹き飛ばされた青年は、護衛らしい四人に抱き起こされながら殴られた顔を押さえている。その向こうには、淡い栗色の髪をした赤い服の女性が立っていた。
腰には一本の剣。
けれど、手には何も持っていない。
あの人が殴ったんだろうか。
たぶん殴ったんだろうな。
そうでなければ、あの青年が自分からあんな勢いでテーブルへ飛び込んだことになる。
それはそれで怖い。
「な、何してる! 全員でやれ! その女を捕まえろ!」
金髪の青年が顔を真っ赤にして怒鳴った。
連れの四人が顔を見合わせる。誰一人として乗り気には見えないけれど、命令には逆らえないらしい。
一人がため息でもつきそうな顔で肩を落とし、拳を握って赤い服の女性へ近づいた。
剣は抜いていない。
そこだけは少し安心した。
昼間の食堂で刃物まで振り回されたら、料理どころではない。
いや、もう十分料理どころではないけれど。
男が大きく踏み込み、女性の顔めがけて拳を振る。
彼女はほんの少し身体を傾けただけだった。
空振りした腕を掴み、そのまま身体を入れ替える。何をしたのか僕にはよく分からなかったけれど、次の瞬間には大柄な男の背中が床へ叩きつけられていた。
「ぐっ!」
「痛そう……」
思わず口から漏れた。
痛いのは僕じゃない。それでも痛そうなものは痛そうだ。
「二人で行け!」
今度は左右から二人が飛び込んだ。
片方が殴りかかり、もう片方が蹴りを放つ。
女性は拳をかわしながら一歩下がり、続けてきた蹴りの下へ身体を沈めた。そのまま足を払って一人を転ばせると、背後から掴みかかったもう一人の腕を取り、肩越しに放り投げる。
男は近くの椅子まで巻き込みながら、派手に床を転がった。
「うわぁ……」
今のも痛い。
僕なら最初に投げられた時点で、「今日はここまでにしましょう」とお願いする。
たぶん土下座だって考える。
店内はもう、すっかり食事どころではなくなっていた。
「喧嘩だ! 外へ出ろ!」
「子供を先に!」
客たちが次々と席を立ち、入口へ向かっていく。給仕たちも壁際へ避難し、そのうち一人が人混みをかき分けて裏口へ走った。
「衛兵を呼んできます!」
ぜひお願いします。
できれば早めに。
ものすごく早めに。
僕も逃げたほうがいい。
そう思って席を立ちかけたところで、目の前のテーブルが視界に入った。
伝票、硬貨、ノート、そろばん。
全部出しっぱなしだった。
「あっ」
これはまずい。
この騒ぎで踏まれても困るし、硬貨を一枚でも落とせば、この人混みでは探すのも大変だ。
椅子の背から肩掛け鞄を引き寄せ、まず硬貨を集める。伝票はまとめてノートへ挟み、そろばんも中へしまった。
「ぐあっ!」
すぐ近くで声がして、肩が跳ねた。
顔を上げると、四人目の男まで床に転がっている。
僕が荷物を片づけている間に、何があったんだろう。
知らなくても困らない気がする。
むしろ知らないほうが胃には優しい。
赤い服の女性は、息一つ乱していなかった。
対して、最初に投げられた男が腰を押さえながら起き上がり、その隣では足を払われた男もよろよろと立ち上がる。
「くそっ……!」
一人が腰へ手を伸ばした。
金属が鞘を擦る音がして、剣身が抜かれる。もう一人も続いた。
いやいや。
それは駄目でしょう。
さっきまでだって十分危なかったのに、剣まで出したら本当に大怪我をする。
二人の剣先が女性へ向いた。
「女! 調子に乗るなよ!」
彼女も腰へ手をやり、剣を少しだけ引き抜く。
やっぱり使うんだ。
そう思ったのに、途中で手が止まった。
女性は自分の剣を見て、それから目の前の二人を見る。何か考えたあと、なぜかそのまま鞘へ戻した。
「何だ、びびったのか?」
「いいえ。さっきお肉を食べたところですので」
男が眉をひそめる。
「……は?」
「あなた方の切り身で、せっかくのおいしい記憶を上書きされたくないだけですわ」
やめてほしい。
僕は思わず口元を押さえた。
想像してしまった。
さっきまで美味しかったはずの昼ご飯が、急に胃の中で落ち着かなくなってくる。
「気持ち悪い……」
「馬鹿にしやがって!」
男が斬りかかった。
女性は身体を横へ流して刃をかわす。振り抜かれた剣が近くの椅子へ食い込み、背もたれが大きく削れた。
あの椅子、僕の席からそんなに離れていない。
やっぱり逃げよう。
今すぐ逃げよう。
肩掛け鞄を抱え直している間にも、もう一人の剣が彼女へ迫る。
赤い服の女性は近くの椅子を片手で引き寄せ、背もたれで剣筋を外した。そのまま椅子ごと押し込み、体勢を崩した男の腹へ拳を叩き込む。
「ぐっ……!」
身体を折った男の横から、もう一人が剣を振り下ろした。
それもするりとかわし、今度は腕を掴んで前へ投げる。
床へ叩きつけられる音を聞くだけで、こっちの背中まで痛くなってきた。
どうして僕は昼ご飯を食べに来ただけなのに、こんなものを見ているんだろう。
残った一人が後ずさりしながら、こちらを見た。
目が合った。
嫌な予感がした。
「お前、来い!」
「え、僕?」
返事を待つ気などなかったらしい。
腕を乱暴に掴まれ、そのまま引き寄せられた。背中へ男の身体がぶつかり、首元に太い腕が回される。
「ちょ、ちょっと待ってください! 僕、本当に関係ないですよ!」
「うるせえ! 女、動くな!」
なんで僕なんだ。
ちゃんと逃げようとしていたのに、荷物だって全部しまった。
あと少しだった。
もう少しで、何事もなかった顔をして平和に店を出られたのに。
赤い服の女性が、見るからに呆れた顔をした。
「まあ。ずいぶん情けないことをなさいますのね」
「黙れ! こいつがどうなっても――」
彼女が踏み込んだ。
速い。
そう思ったときには、拳が僕の顔のすぐ横まで迫っていた。
「うわっ!」
反射的に首を傾ける。
拳は頬すれすれを通り抜け、そのまま背後にいた男の顔へ突き刺さった。
「ぶっ!」
首へ回っていた腕が外れ、男がひっくり返る。
僕は急いで距離を取った。
「あ、危なかった……」
頬を触る。
当たっていない。
よかった。
本当に。
「……あら?」
顔を上げると、赤い服の女性がこちらを見ていた。
「何ですか?」
返事はない。
彼女は僕を見て、自分の拳を見て、もう一度こちらを見る。
何だろう。
すごく嫌な予感がする。
「あの――」
今度は僕に向かって拳が飛んできた。
「うひゃあ!?」
慌てて身体をのけ反らせると、拳が鼻先をかすめて通り過ぎた。
「ちょっ!? 本当になんなんですか!」
急いで距離を取る。
女性は怒っているわけでもない。むしろ、自分の拳と僕を交互に見ながら妙に楽しそうにしていた。
「……やっぱり」
「何がですか!?」
「避けましたわね」
「殴られそうになったら避けますよ!」
「普通は今のを避けられませんの」
「知りませんよ、そんなの!」
何なんだ、この人。
さっきまで男たちと戦っていたのに、どうして急に僕を殴って確かめる流れになったんだろう。
しかも何を確かめているのか、僕には全然分からない。
「面白い方ですこと」
「僕は全然面白くないです」
彼女が何やら満足そうにしていると、入口のほうから複数の足音が飛び込んできた。
「そこまでだ!」
人垣をかき分け、槍を持った衛兵が三人入ってくる。
先頭の男は店内の有様を見るなり、目を見開いた。
床には倒れた男たち。椅子はあちこちへ転がり、中央の大テーブルには食べ物と酒が散乱している。その脇では、金髪の青年が殴られた顔を押さえながら立ち上がろうとしていた。
どう見ても、昼食の時間にあるべき光景ではない。
「これは……いったい何が」
「遅いぞ!」
「アルヴィン様!」
金髪の青年が怒鳴ると、衛兵たちの顔色が変わった。
アルヴィン、という名前らしい。
ずいぶん偉そうな人だとは思っていたけれど、衛兵まであんな顔をするということは、本当に偉い人なのかもしれない。
「何してる! さっさとあの女を捕まえろ!」
指差された女性は、まるで自分には関係のない話でも聞いているような顔をしている。
「い、いったい何があったのです?」
「俺は普通に食事をしていただけだ! そしたらあの女がいきなり因縁をつけてきて、俺を殴ったんだ!」
あれ。
話がだいぶ違う。
「それだけじゃない! 金まで盗られた!」
「まあ」
赤い服の女性が、ようやく呆れたように口を開いた。
「お金は盗ってないんですけど」
殴ったところは否定しないんだ。
「見ただろ! 反省する気もない! 早く捕らえろ!」
衛兵たちが困ったように顔を見合わせる。
先頭の男は倒れている者たちを見て、それから店内に残っている客たちへ視線を向けた。
誰も口を開かなかった。
金髪の青年が睨むと、何人かは慌てて目を逸らす。
衛兵の男が小さく息を吐いた。
「……お話は詰所で伺います。まず武器を置いてください」
「嫌ですわ」
「即答!?」
思わず僕が声を上げた。
女性がこちらを見る。
目が合った。
にっこり笑われた。
嫌な予感しかしない。
「どうしましょ?」
「え?」
僕に聞いてる?
「このままでは、うら若き美女が捕らえられてしまいますわ~」
本当にこの人、何を言ってるんだろう。
「僕には関係ないことなので」
そそくさと入口へ向かうことにした。
荷物はもう全部鞄に入っているし、昼ご飯もほとんど食べ終わった。
十分だ。
今日はこれ以上ここにいるほど、状況が悪くなる気しかしない。
「まあ。薄情ですこと」
肩を掴まれた。
「え?」
足が止まる。
いや、止められた。
「ちょ、ちょっと離してください!」
振りほどこうとしても、肩に置かれた細い手がびくともしない。
何この人。
力強い!?
大の男を何人も投げ飛ばしていたのだから、考えてみれば当たり前なのかもしれない。
でも、分かっていても納得できない。
「僕、本当に関係ないですから!」
「もうお知り合いみたいなものでしょう?」
「どこがですか!?」
「先ほど拳を交わした仲ではありませんの」
「一方的に殴られかけただけです!」
「そこの男もだ!」
金髪の青年が今度は僕を指差した。
「さっきからあの女と一緒にいやがる! 仲間に決まってる!」
「違います!」
衛兵までこちらを見る。
「本当に違いますからね!?」
「では、お名前は?」
赤い服の女性が尋ねてきた。
「はい?」
「わたくし、まだあなたのお名前を存じませんの」
今?
この状況で?
衛兵は槍を持っている。
金髪の青年は僕を指差して怒鳴っている。
床にはさっきまで彼女と戦っていた人たちが転がっている。
その真ん中で、この人だけは妙に落ち着いていた。
「ダリア」
女性は自分を指差す。
「ダリアといいます。あなたは?」
「え、エルンですけど」
「エルン」
一度、確かめるように繰り返してから、満足そうに微笑んだ。
「いいお名前ですわね、エルン」
「あ、どうも……」
一瞬だけ普通の会話になった。
いや、普通じゃない。
「何を呑気に話してやがる!」
床に倒れていた男の一人が、いつの間にか起き上がっていた。
剣を拾い、そのまま斬りかかってくる。
ダリアという女性は半歩横へずれて刃をかわし、男の腕を掴んで足を払った。
男は勢いのまま僕のほうへ転がってくる。
「エルン、危ないですわよ」
「あなたがこっちへ転がしたんでしょう!?」
慌てて避ける。
男は僕の足元を通り過ぎ、椅子へぶつかった。
「ほら。ちゃんと避けられましたわ」
「褒められても嬉しくないです!」
「見ろ!」
金髪の青年が叫んだ。
「やっぱり仲間じゃねえか!」
「今のでどうしてそうなるんですか!」
「アルヴィン様、下がってください!」
衛兵の隊長らしい男が前へ出た。
「お二人とも、抵抗をやめてください!」
「僕まで!?」
「アルヴィン様がそう証言されていますので……」
「無茶苦茶ですよ!」
言いながらも、衛兵の顔がものすごく申し訳なさそうだった。
この人も好きでやってるわけじゃないんだろうな。
ちょっとだけ同情する。
できれば、その同情を僕にも返してほしい。
「捕まえろ! 二人ともだ!」
金髪の青年が追い打ちをかける。
「……仕方ない。行くぞ!」
三人の衛兵が槍を構えた。
「ちょっと待ってください! 話せば分かります!」
「詰所で聞く!」
「今ここで聞いてくださいよ!」
一人の衛兵が僕へ近づいてくる。
槍の穂先は向けていない。柄で押さえようとしているらしい。
それでも怖いものは怖い。
「エルン、右ですわ」
「え?」
反射的に右へ身体を引いた。
直後、衛兵の手が僕の肩があった場所を通り過ぎる。
その腕を、彼女が横から掴んだ。
「ありがとうございます、エルン」
「僕、何もしてませんよ!?」
「見事な誘導でしたわ」
「してません!」
彼女が衛兵をくるりと回す。
慌てて止めに入った別の衛兵とぶつかり、二人揃ってよろめいた。
「隊長!」
「やっぱり合図を交わしてます!」
「交わしてません!」
「息が合いますわね」
「あなたが合わせてきてるんでしょう!」
まずい。
否定すればするほど、僕まで戦っているように見えてくる。
しかも彼女の顔が明らかに楽しそうだ。
絶対にわざとだ。
「お前も大人しくしろ!」
三人目の衛兵がこちらへ手を伸ばした。
「だから僕は――」
身体を掴まれる寸前で横へ避ける。
空振りした衛兵が体勢を崩したところへ、起き上がってきた男が突っ込んできた。
二人が正面からぶつかり、まとめて床へ転がる。
「……」
店内が一瞬だけ静かになった。
僕も固まった。
今のは本当に何もしていない。
「さすがですわ、エルン」
「言わないでください!」
「見ろ! 完全に仲間だ!」
「違うって言ってるでしょう!」
金髪の青年が青筋を立てて僕らを睨み、衛兵まで完全に警戒した目になってきた。
もう駄目だ。
説明すればするほど深みに嵌まっていく。
「二人を囲め!」
隊長が槍を構え直した。
床に倒れていた男たちも、動ける者から順にまた起き上がってくる。
全部で何人いるんだ。
いや、増えてはいない。
増えてはいないはずなのに、さっきより多く見える。
僕はじりじりと後ろへ下がった。
「エルン!」
「もう名前呼ばないでください!」
反射的に振り向いてしまった。
彼女は衛兵の槍を軽く払いながら、こちらへ楽しそうに手を振っている。
「ほら。お返事なさいましたわ」
「条件反射です!」
「やっぱり仲間じゃねえか!」
「だから違います!」
もう僕の言葉は誰にも届いていない気がした。
ただ一人、彼女だけはしっかり聞いている。
そして間違いなく楽しんでいる。
「エルン」
「今度は何ですか!」
赤い服の女性が、まるでこれから散歩にでも出かけるような気軽さで笑った。
「逃げますわよ」
「え?」
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