第4話 葡萄樽の火種
「おいしい~」
思わず声が漏れた。
今朝、宿を出るときに「お昼ならどこがおすすめかしら」と尋ねて教えてもらった店だけれど、どうやら大正解だったらしい。
カレドの中央通りに面した《葡萄樽亭》。
町で一番大きな店らしく、昼時の今は食事目当ての客でごった返している。丸テーブルも長机もほとんど埋まり、給仕たちは何枚もの皿を抱えながら、人と椅子の隙間を器用にすり抜けていた。
店の奥には、客席より一段高くなった大きな舞台まである。今は使われていないけれど、壁際には楽器や椅子が寄せてあるから、夜になれば演奏や踊りでも始まるのだろう。
なるほど。
昼は食堂、夜は酒場。腹を満たした客を、そのまま酒と見世物で居座らせるつもりらしい。
なかなか商売上手ですこと。
もっとも、今のわたくしにとって重要なのは店の経営方針ではなく、目の前の皿だった。
厚く切った肉を香草と一緒に焼いたものに、色鮮やかな野菜のサラダ。それから、この町の名物らしい赤い果実酒。
肉へナイフを入れると、驚くほど素直に刃が通る。一口食べれば表面の香ばしさのあとから肉汁が広がり、少し濃いめの味付けを果実酒の甘酸っぱさがきれいに流してくれた。
「本当においしいですわ」
昨夜の賊どもには一銭の懸賞金もかかっていなかったけれど、この食事に出会えただけでもカレドへ来た価値はあったかもしれない。
世の中、期待というものは賊より料理へ向けたほうが裏切られにくいらしい。
杯を傾ける。
もう一杯くらい頼んでもよさそうだけれど、昼間から酔うつもりはない。賞金首というものは、こちらの食事が終わるまで律儀に待っていてくれるほど礼儀正しくないのだ。
そんなことを考えながらサラダへフォークを伸ばしていると、さっきから時折こちらへ向けられている視線に気づいた。
隣のテーブルの男。少し離れた若い兵士。給仕の娘まで、こちらを見てから慌てたように目を逸らしている。
よそ者だから目立つのかしら。
赤い服に、腰には一本の剣。この町では見慣れない格好なのかもしれない。
――まあ。
わたくしの美貌を考えれば、よそ者でなくても見られるでしょうけれど。
むしろ露骨に見つめ続ける者がいないあたり、この町の人間は昨夜の賊どもよりずっと礼儀を心得ている。
美しいものを見るにも作法というものがあるのだ。
気分よく食事を続けながら、今度はこちらから店内を眺めてみる。
大柄な男が昼間から酒を何杯も空けていたと思えば、隣の女に何か言われた途端に水を頼んでいる。向こうの老人二人は片方だけが熱心に喋り続け、もう片方はときどき頷いているものの、おそらく半分も聞いていない。
入口近くでは旅人らしい夫婦が地図を広げ、その横を通った給仕の少年が皿を落としかけ、危ういところで持ち直した。
惜しい。
落としていたら、もう少し面白かったのに。
そんなふうに視線を遊ばせていると、少し離れた一人用のテーブルに座る青年が目に留まった。
二十を少し過ぎたくらいだろうか。背は高めで、身体つきは細身。くすんだ緑色の髪を首元で短く切り揃え、丈夫そうな旅装を身につけている。
派手ではないけれど、長旅には慣れていそうな格好だった。
椅子の背には、小さな肩掛け鞄が一つ。
行商人かしら。
そう思ったのは、服装よりもむしろテーブルの上を見たからだった。
料理の皿はまだ半分ほど残っているのに、青年の手はすっかり止まっている。その代わり、卓上には何枚かの伝票と硬貨、小さなそろばん、それに使い込まれたノートが並べられていた。
伝票を見てそろばんを弾き、硬貨を一枚動かして数字をノートへ書く。しばらく眉を寄せたかと思えば、また最初から計算をやり直している。
ずいぶん熱心なこと。
冷めていく料理より、今日の儲けのほうが気になるらしい。
それにしても。
わたくしは果実酒を一口飲みながら、テーブルの上へ並べられた硬貨を眺めた。
ずいぶん不用心ですわね。
ここは昼時の大衆食堂である。青年の後ろを給仕や客がひっきりなしに通り、その気になれば手を伸ばせそうな距離に硬貨がむき出しで置かれている。
盗むほうが悪いのは当然だけれど、自分の財布くらい自分で守るべきだろう。
本人はそんな心配など欠片もしていないらしく、またそろばんを弾いている。
真面目なのか、抜けているのか。
たぶん両方ですわね。
もう少し眺めてみようかと思った、そのときだった。
「おい、さっさと席を空けろ」
入口のほうから、やけに大きな声が響いた。
「ぼ、坊ちゃん。本日はかなり混んでおりまして――」
「だから空けろと言ってるんだろう」
よく通る声だった。
嫌な意味で。
わたくしは杯を傾けたまま、そちらへ視線を向けた。
五人ほどの男が、店の入口からぞろぞろ入ってくるところだった。
先頭にいるのは二十代半ばほどの青年。明るい金髪を後ろへ撫でつけ、白い上着の襟や袖にはこれでもかと金糸の刺繍。胸元には小さな宝石まで留めている。
顔立ちそのものは悪くない。
ただし、その顔に浮かんでいる「俺が来たのだから道を空けろ」と言わんばかりの表情が、せっかくの造作をずいぶん安っぽく見せていた。
もったいない。
顔は磨けても、中身までは刺繍で飾れないらしい。
腰には細身の剣を下げているものの、あまり使い込まれているようには見えない。
対して、その後ろにいる四人は少し違った。
二人は革鎧、残りの二人は上着の下に鎖帷子を着込んでいる。全員が剣を帯び、身体つきもしっかりしていた。
店へ入ってきても浮かれて周囲を見ることなく、自然と先頭の青年を囲むように位置を取っている。
取り巻きというより護衛ですわね。
少なくとも、昨夜の賊よりはまともそうだ。
そこだけは少し興味が湧いた。
「こちらへどうぞ」
店員が慌てて中央の大きなテーブルへ案内した。先ほどまで何人か座っていたはずだけれど、いつの間にか別の席へ移されている。
五人は礼の一つもなく、当然のようにどかどかと椅子へ腰を下ろした。
「いつものを持ってこい。酒もだ」
「坊ちゃん、まだ昼ですが……」
「だから何だ?」
「……すぐにお持ちします」
店員の笑顔が、ほんの一瞬だけ死んだ。
うわ。
何ですの、あれ。
肉を切りながら、露骨にならない程度に様子を眺める。
ああいう人間は分かりやすい。
周りが自分に逆らえないことを、生まれたときから知っている顔だ。
譲られるのが当然。褒められるのが当然。店員が困るのも、他の客が席を空けるのも当然。
世界は自分を中心に回っていると思っている。
……まあ。
美しいわたくしが多少そう思うのは仕方ありませんけれど。
あちらには少々、根拠が足りていない。
注文を終えた金髪の青年が、ふんぞり返ったまま店内を見回し始めた。
入口。客席。舞台。
そして、こちら。
目が合った。
青年の眉が上がり、口元が見る見るうちに緩んでいく。
嫌な予感というものは、どうしてこういうときだけ期待を裏切らないのだろう。
わたくしは小さく息を吐いた。
またこのパターンですの?
青年が席を立った。
護衛たちは止めようともしない。一人など、また始まったとでも言いたげに目を伏せている。
こちらへ来るのは確定らしいので、逃げる代わりに残っていたサラダを食べることにした。
「見かけない顔だな、お嬢さん。旅人か?」
野菜を一口。
酸味のあるドレッシングが悪くない。
「俺はアルヴィン・バルネス。このカレドを治めるヴァルター・バルネスの息子だ」
聞いてもいないのに名乗り始めた。
でしょうね。
この態度でただの商家の息子だったら、むしろ驚く。
「この辺じゃ俺を知らない奴はいない。まあ、王都にも多少は名が通っているかな。親父からも、いずれこの領地を任されることになっていてね」
そうですの。
「最近は領地のことも勉強している。こうやって町へ出て、領民の暮らしを見るのも仕事の一つなんだ」
先ほど店員を困らせていたのも視察に含まれるのだろうか。
ずいぶん独創的なお仕事ですこと。
領主の息子はそれからも、自分がどれだけ顔が広いだとか、父親から期待されているだとか、この店では自分の名を出せば一番いい酒が出るだとか、よくもまあ自分の話題だけでここまで喋り続けられるものだと感心するほど話し続けた。
途中から、果実酒の味へ意識を戻した。
こちらのほうがよほど中身がある。
「――で、どうかな?」
「はい?」
危ない。
完全に聞いていなかった。
「一緒の席で飯でも食わないかって言ったんだ。旅人なら、この町について知らないことも多いだろう。俺がいろいろ教えてやるよ」
結構ですわ。
そう答えるより先に、領主の息子がこちらへ手を伸ばしてきた。
「ほら、行こう」
どうやら手を取るつもりらしい。
その指先が触れる前に、フォークで皿に残っていた肉を一切れ刺し、そのまま顔の前へ差し出した。
ちょうど口の高さ。
「ん?」
領主の息子は目を瞬かせたあと、何をどう解釈したのか、急に嬉しそうな顔をした。
「あーん、ってことか?」
そのまま口を開け、ぱくりと肉を食べる。
……本当に食べましたわ。
ここまで都合よく物事を考えられるのは、ある意味才能かもしれない。
「うん、うまい」
満足そうに肉を飲み込み、またこちらへ手を差し出してくる。
「じゃあ行こうか」
「おいしかったでしょう?」
「ん?」
わたくしはにっこりと微笑んだ。
せっかくなので、とびきり愛想よく。
「なら、とっとと失せなさい」
坊ちゃんの顔から綺麗に笑みが消えた。
「……は?」
「聞こえませんでしたの? ご自分のお席へお戻りなさい、と申し上げましたの」
「お前……俺が誰だか分かって言ってるのか?」
眉間に皺を寄せ、こちらを睨みつけてくる。さっきまで差し出していた手も、いつの間にか拳になっていた。
「先ほど、頼んでもいないのに長々と自己紹介なさっていたでしょう?」
「この町の領主の息子だぞ!」
胸を張って言い切るその姿に、思わず首を傾げる。
「ええ。それも覚えておりますわ」
「だったら――!」
領主の息子が苛立たしげに一歩踏み込んできた。
「だから何ですの?」
坊ちゃんの口が止まった。
いつの間にか店内の話し声も少し小さくなっている。昼食そっちのけでこちらを見ている客までいた。
まあ、領主の息子が騒いでいるのだから仕方がない。
わたくしまで一緒に見られるのは、もっと仕方がない。
「てめえ……ちょっと顔がいいからって、調子に乗るなよ!」
坊ちゃんの頬がじわりと赤くなり、こめかみがぴくりと動いた。
「ちょっと?」
「……何だよ」
「そこだけ妙に控えめですわね」
「褒めてねえよ!」
「でしたら、なおさら正確にお願いいたします」
「何をだよ!」
「わたくしの美しさを」
「知るか!」
その顔がさらに赤くなった。
実に忙しい顔だ。
先ほどまであれほど自信満々だったのに、少し思い通りにならないだけでこれである。
「俺が声をかけてやったんだぞ! よそ者の女が何様のつもりだ!」
「あなたに声をかけられることは、そんなにありがたいことなんですの?」
「当たり前だ!」
「まあ。では町の女性たちは、さぞご迷惑――いえ、幸運ですのね」
「馬鹿にしてんのか!」
「今ごろ気づきましたの?」
後ろの護衛たちまで、さすがに居心地が悪そうな顔をしていた。一人など、こちらと目が合うとそっと視線を逸らした。
仕える相手は選べないのだろう。
少しだけ同情する。
「もういい!」
領主の息子が腰の剣へ手をかけ、そのまま鞘から引き抜こうとした。
そこまで待ってやる義理もない。
椅子を蹴るように立ち上がり、その勢いのまま顔面へ拳を叩き込んだ。
「ぶっ――!」
男の身体が後ろへ吹き飛び、取り巻きたちのいる大テーブルへ背中から突っ込んだ。
皿や杯がひっくり返り、料理と酒が卓上いっぱいに散らばる。
「坊ちゃん!」
「貴様!」
四人の護衛が一斉に立ち上がった。
わたくしは大テーブルへ沈んだ領主の息子を一度だけ見る。
そういえば。
「……お名前、なんでしたっけ?」
返事はない。
まあ、いいですわ。
周囲の客たちも巻き込まれまいと椅子を引き、中央のテーブルを囲むように人の輪が広がっていく。
わたくしも席を離れ、軽く肩を回した。
やれやれ。
せっかくの食後なのだから、もう少しゆっくりしてから身体を動かしたかったんですけれど。
改めて四人を見る。
体格は悪くない。立ち上がったときの足運びにも迷いがなく、剣の扱いにも慣れていそうだった。
昨夜の賊どもとは、少なくとも立ち姿からして違う。
自然と口元が緩む。
料理は当たり。
果実酒も当たり。
さて。
今度はこちらも、少しくらい当たりだと嬉しいですわね。
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