第3話 左遷監察官
「ようこそお越しくださいました、ガストン監察官殿。王都よりこのような遠路はるばる、我がカレド領まで足をお運びいただき――」
遠路はるばる。
まったくだ。
ありがたい歓迎の言葉を右から左へ流しながら、椅子へ深々と身体を沈めた。
長旅で痛めつけられた尻には、領主の挨拶よりこの柔らかい椅子のほうがよほどありがたい。
王都から何日馬車に揺られたと思っている。
途中の宿は寝台が硬い。飯は味が薄いくせに値段だけは一人前。酒に至っては、水のほうがまだ潔いんじゃないかという薄さだった。
おまけに最後の半日は道までひどい。
馬車が穴を踏むたび尻が跳ね、尻が跳ねるたび頭まで揺れた。
思い出して、何気なく前髪へ手をやる。
指先で軽く撫で、こめかみの辺りまで確かめた。
……大丈夫だろう。
たぶん。
「我がカレド領といたしましても、ガストン殿をお迎えできますことは、この上なき――」
まだ喋っている。
正面に座る男へ、適当に目を向けた。
カレド領主、ヴァルター・バルネス。
五十を少し越えたくらいか。背丈は普通だが、腹だけは見事に領地拡大を続けている。深緑の上着には金糸の刺繍が走り、太い指には赤、青、緑と宝石の指輪が並んでいた。
見るからに金がかかっている。
服にも、指にも、腹にも。
「――では、まず今年度の収支からご説明いたしましょう」
ようやく挨拶が終わったらしい。
ヴァルターが机の上を見回し、すぐ隣へ顔を向けた。
「セドリック」
「はい」
そこで初めて、領主の脇に控えていた男へ目をやった。
三十代半ばほどだろう。短く整えた灰褐色の髪に、飾り気のない濃紺の上着。腕には書類の束を抱えている。
若いな。
領主付きの文官と聞けば、帳簿と一緒に干からびた爺さんでも出てくるものかと思っていたが、ずいぶん違う。
もっとも、若いからといって飾りで立たされているわけでもなさそうだ。
セドリックはヴァルターに言われるより早く、書類の束から一枚を抜き取っていた。
「こちらになります、ヴァルター様」
「うむ」
ヴァルターが当然のように受け取る。
なるほど。
主人が口を開く前に必要なものを出せるなら、側に置いておくには便利だろう。
俺にも一人欲しい。
できれば仕事だけ先回りして、失敗の責任まで先回りして引き受けてくれる奴がいい。
まあ、そんな便利な文官がいたら王都が手放すはずもないが。
セドリックは何事もなかったように元の位置へ戻った。
こういう奴は嫌いじゃない。
話が早いからだ。
それに比べて、王都の連中ときたら。
思い出しただけで腹の底がむずむずしてくる。
地方監察任務。
辞令にはそう書いてあった。
だが、こんな辺鄙な土地まで飛ばしておいて左遷ではないと言い張るなら、王都の役人どもは揃いも揃って文字が読めないらしい。
そもそも俺が何をした。
ほんの少し公用馬車を私用に使った。
行き先がたまたま賭場だった。
接待費で何度か酒を飲んだ。
誰を接待したのかと問われると多少説明に困るが、酒場の女将や給仕の娘と地域経済について意見を交換したのだから、広い意味では接待である。
賭場にしたってそうだ。
金がどこから入り、どこへ消えるのか。
自腹まで切って現場を調査してやった。
むしろ熱心だ。
負けたが。
そこは調査結果であって不祥事ではない。
だいたい、その程度のことで人を王都から追い出していたら、最後に残る役人は門番くらいだろう。
腹が立ってきたので、前髪を撫でる。
位置は悪くない。
俺の立場だけが悪い。
「こちらが本年度の収支となります」
セドリックが机へ書類を並べていく。
「うむ」
重々しく頷いておいた。
さっきの歓迎の言葉については何一つ聞いていないが、ここからは一応仕事だ。
まあ、領主の挨拶など半分は自慢、残り半分は言い訳である。聞き逃したところで国は傾かない。
それより仕事を終わらせて、酒を飲みたい。
書類をぱらぱらとめくる。
人口、耕作地、収穫量、商業税、街道使用料、国庫への納付額。
数字というものは嫌いだが、不正を探すときだけは少し面白い。
人間は口ではいくらでも嘘をつくが、帳簿は嘘をつくにも技術がいる。
カレドについての悪評はいくつか耳にしていた。
商人から妙な名目で金を巻き上げる。入町税だの許可料だの通行料だの、何かにつけて取り立てる。都合の悪い訴えはまともに取り合わない。
酒場の噂なんぞ、半分に割って、さらに水で薄めるくらいがちょうどいい。
酔っ払いは銅貨一枚取られただけでも、翌日には家一軒奪われたような顔をする。
とはいえ。
書類から顔を上げる。
改めて見ると、ずいぶん立派な部屋だった。
磨き込まれた長机。壁いっぱいの油絵。窓辺には青い釉薬の大壺。天井から下がる灯具には、役に立つのか分からない細工がこれでもかと付いている。
領主本人も、見れば見るほど高そうだった。
それに対して、国へ納めている金は妙に慎ましい。
領主の腹と納税額だけ、成長する方向を間違えている。
「領主殿」
「はい」
書類を一枚持ち上げた。
「ずいぶん羽振りがよさそうだな。その割には、国へ納めている税が少ないようだが?」
ヴァルターの笑みが、ほんの少し固まった。
お。
こういう顔を見ると、急に仕事が楽しくなる。
「いやいや、ガストン殿。それには事情がございまして」
すぐに笑顔が戻った。
慣れていやがる。
「昨年は街道の補修に加えまして、領民のための備蓄も増やしております。予期せぬ不作にも備えねばなりませんのでな」
「ほう」
書類を見る。
領主を見る。
もう一度、書類を見る。
嘘かもしれない。
本当かもしれない。
どちらでもいい。
叩けば埃の一つや二つは出ると思っていた。
地方領主なんぞ、王都から目が届かないのをいいことに多少はちょろまかすものだ。
俺は多少の不正には寛容である。
自分にも。
他人にも。
重要なのは程度と配分だ。
つまり、俺に迷惑がかからない範囲でやれということである。
「必要でしたら、細かな内訳もお見せいたします」
ヴァルターがそう言って、ちらりと隣へ目をやった。
「セドリック」
「はい」
今度は何をするのかと眺めていると、セドリックは書類を差し出すどころか、静かに頭を下げて部屋の奥へ下がっていった。
おや。
さっきまで眠たかった頭が、少しだけ冴えた。
ほどなくして戻ってきたセドリックの両手には、銀の盆があった。
その中央には、小さな革袋が一つ載っている。
手のひらほどしかない。
「長旅のお疲れもございましょう」
セドリックが俺の前まで来て、盆を差し出した。
「当家からの心ばかりの労いでございます。どうぞお納めください、監察官殿」
「ふむ」
革袋を見る。
小さい。
だが、銀盆の中央はその重みでわずかに沈んでいる。
軽くはない。
なるほど。
なるほどなるほど。
こいつら、よく分かってるじゃねえか。
袋を手に取る。
ずしり。
素晴らしい。
重さというものは、時として言葉より雄弁である。
口元が緩みそうになったので、咳払いでごまかした。
危ない危ない。
監察官には威厳が必要だ。
セドリックは俺の顔色を覗き込むでもなく、そのまま一歩下がった。
渡したあとは知らん顔。
そこまで含めて手際がいい。
本当に一人欲しくなってきたな、こいつ。
もっとも、俺の給金で雇ったら三日で逃げそうだが。
袋を片手に、もう一度書類へ目を落とす。
不思議なものだ。
さっきまで妙に少なく見えていた納税額が、急に現実的な数字に見えてきた。
街道補修。
備蓄。
領地経営。
うむ。
地方には地方の事情というものがある。
王都の机で数字ばかり睨んでいては、見えないものもあるのだ。
「んん……」
咳払いを一つ。
「どうやら俺の見間違いだったようだ」
「それは何よりでございます」
ヴァルターの笑みが深くなった。
「領地経営というものは何かと物入りだからな。数字だけで判断するのはよろしくない」
「ご理解いただけまして光栄に存じます」
「現場を見るのが監察官の仕事というものだ」
我ながらいいことを言った。
覚えておこう。
次に不祥事を追及されたときにも使えるかもしれない。
革袋を何食わぬ顔で懐へ収める。
先ほどまで成金趣味にしか見えなかった部屋も、改めて眺めればなかなか品がある。
ヴァルターの指輪だって、地方を治める者には多少の威厳が必要なのだろう。
人間、先入観で物を見てはいけない。
噂に惑わされず、実際に会って判断する。
うむ。
実に大切なことである。
「では、この件については問題なしということでよかろう」
「ありがとうございます、ガストン殿」
ヴァルターが満足げに頭を下げる。その半歩後ろで、セドリックも静かに一礼した。
そこで、一つ思い出した。
「そういえば、領主殿」
「はい?」
「ご子息はどうした? 確か、いらっしゃったはずだが」
ヴァルターの頬が、ごくわずかに引きつった。
本来なら国から監察官が来ているのだ。領主本人はもちろん、跡取りなら顔くらい出すのが筋だろう。
それを姿も見せない。
俺を舐めているのか。
せっかく膨らんだ機嫌が、革袋一枚分ほどしぼんだ。
「ああ、息子ですか。いやはや、ちょうど町の視察へ出ておりましてな」
「視察?」
「若いうちから領民の暮らしを知ることも大切かと思いまして」
「ほう」
よく言う。
そのご子息についても、いい噂は聞いていない。親の権力を笠に着て、町で随分と好き勝手やっているらしい。
なるほど。
町の視察。
便利な言葉もあったものだ。
公用馬車で賭場へ行った俺が言うのも何だが、物は言いようである。
「熱心なご子息だな」
「ええ。自慢の息子でございます」
ヴァルターはにこやかに答えた。
こいつもよく言う。
「その熱心さが、領民にも喜ばれていればよいがな」
一瞬だけ、部屋の空気が止まった。
ヴァルターは笑顔のままだ。
その横で、それまで書類へ落ちていたセドリックの視線だけが静かにこちらへ上がった。
表情は変わらない。
ただ、こっちの言葉を一つ残らず拾って、どこかへしまい込んだような目だった。
……なるほど。
若いくせに領主の横に置かれているだけはある。
黙って立っているだけなら置物でもできるが、こいつはこっちを見ている。
「もちろんでございますとも」
ヴァルターが答えた。
「そうか」
鼻を鳴らす。
少しくらい揺さぶっておかないと、完全な馬鹿だと思われる。
賄――。
いや、厚意を受け取ることと、舐められることは別問題だ。
もっとも、それ以上追及するつもりもない。
息子が町で多少好き勝手しようが、俺の財布は一銅貨も減らない。
なら、俺には関係ない。
書類を閉じかけたところで、さっき聞いた言葉が引っかかった。
備蓄。
そういえば、そんなことを言っていたな。
「ところで領主殿」
「はい」
「明日は現地を見せてもらうぞ」
ヴァルターの笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。
「現地、と申しますと?」
「街道の補修に、領民のための備蓄だったか。金を使ったというなら、使った先を見るのが監察というものだろう」
我ながらもっともらしい。
懐が重くなった途端、仕事までできる男に見えてくるから不思議である。
「もちろんでございます」
ヴァルターが笑みを戻した。
「セドリック」
「でしたら、東区の備蓄倉庫をご案内するのがよろしいかと」
呼ばれるのを待っていたように答えが返ってきた。
「東区?」
「穀物や保存食、街道補修用の資材などをまとめて保管しております。昨年増やした備蓄も、主にそちらへ」
「ほう」
説明も淀みがない。
場所を聞いてから考えたというより、最初から答えを用意していたような早さだ。
まあ、優秀な文官というのはそういうものなのだろう。
「では、明日はそこから見せてもらおう」
「承知いたしました」
セドリックはすぐに頭を下げた。
やはりこいつは使える。
俺なら仕事の八割を押しつける。
残り二割も、できれば押しつけたい。
もっとも、明日の俺がどこまで使い物になるかは今夜の酒次第だが。
「では今日はこのくらいにしておくか」
今度こそ書類を閉じた。
「もうよろしいので?」
「ああ。長旅のあとだからな。現地を見るのは明日でいい」
別に急ぐ必要はない。
急いだからといって給金が増えるわけでもない。
「それはそれは。どうぞごゆっくりお休みください、ガストン殿」
「うむ」
椅子から立ち上がり、念のため懐を軽く押さえる。
ある。
よし。
賄賂ではない。
領主殿から、遠路はるばる訪れた監察官への労いの品である。
人の厚意を疑うのはよろしくない。厚意を受け取れないようでは、役人以前に人として問題がある。
「領主殿」
「はい」
「なかなか立派な領地だ。今後も励むようにな」
「もったいなきお言葉でございます。ははっ」
ヴァルターが頭を下げ、セドリックもその後ろで静かに一礼した。
満足して部屋をあとにする。
長い廊下へ出ると、来たときには無駄に広く、金ばかりかかった嫌味な館に思えた景色が、ずいぶん落ち着いて見えた。
やはり物事は一面だけで判断してはいけない。
噂に流されず、公平な目で見る。
それこそ国の監察官に必要な資質というものだ。
明日は東区の備蓄倉庫。
まあ、倉庫を見るだけなら昼前には終わるだろう。
そのあとは酒だ。
上機嫌で懐の革袋を軽く叩いた。
ちゃり、と心地よい音が返ってくる。
うん。
実に公平な視察だった。
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