第2話 北風の行商人
カレドの町へ入ったのは、昼の鐘が鳴る少し前だった。
石造りの門をくぐった途端、甘い匂いが鼻をくすぐる。
何だろうと辺りを見回すと、大通りの向こうで半分に割った果実を焼いていた。熱で溶けた蜜が鉄板の上ではじけ、その香りが風に乗って流れてくる。
「おお……」
思わず声が漏れた。
いい町かもしれない。
通りの両側には赤茶色の屋根が続き、店先にも同じ色合いの壺や皿が並んでいる。この土地の赤土を使った陶器と果実酒は、カレドの名物だと道中で聞いていた。
さっそく一軒の陶器店が気になる。
丸い皿に細長い水差し、小さな酒杯。北ではあまり見ない柔らかな赤色で、白い花模様の入ったものまである。
これは売れそうだ。
いくつか仕入れて北へ持ち帰れば、珍しがってくれる人もいるかもしれない。
その隣には酒屋があり、樽の栓を抜いたらしく、今度は甘酸っぱい香りが漂ってきた。
こちらも悪くない。
売り物として仕入れる以上、味を確かめておく必要もある。これは商人として当然の――。
「……いや、先に売ろう」
危なかった。
酒屋から目を逸らし、肩から下げた焦げ茶色の革鞄へ手をやる。見た目は大きめの本が二、三冊入る程度だけれど、中には北から持ってきた商品がまだかなり入っている。
新しい品を仕入れるのは、それを金に替えてからだ。それに、無駄遣いをしている余裕もない。
婚約者を迎えるために必要な財は、まだまだ遠いのだから。
そう思った途端、さっきまで魅力的に見えていた酒樽が、急に危険な罠のように見えてきた。
近づかないでおこう。
教えてもらった店を探し、大通りを進む。
陶器店に仕立て屋、金物屋、食料品店。人通りも多く、荷車も絶えず行き交っている。
道中では「最近、カレドへ来る行商人が減っている」と聞いていたので、もっと寂れた町を想像していた。けれど、これなら商売になりそうだ。
自然と足取りも軽くなる。
やがて、秤と二枚の硬貨を描いた古びた看板が見えてきた。
《ボルク商店》。
食料品から燃料、旅道具まで扱う、この町では古い雑貨商らしい。
ここなら北方の商品も見てもらえる。
そう思ったのに、店の前まで来ると足が止まった。
古びた木の扉が、急にずいぶん重そうに見える。
商品を見せて、値段を話して、売る。それだけだ。もう何度か経験しているのに、初めての店へ入る瞬間だけはどうにも慣れない。
断られたらどうしよう。
全部いらないと言われても、次の店を探せばいい。頭では分かっている。
「……よし」
一度だけ深く息を吸い、扉を押した。
入口の鐘が鳴る。
「こんにちは!」
思ったより大きな声が出た。
しまった。
店の奥にいた白髪交じりの店主が、帳簿からゆっくり顔を上げる。
「客か?」
「いえ、その……商品を見ていただきたくて」
さっきの勢いは、もうどこにもなかった。
店主は帳簿から手を離し、しばらく僕を眺めた。
「行商人か?」
「はい。北から来ました」
「北から? 若いのに、ずいぶん遠くまで来たもんだな」
「……そんなに若く見えます?」
店主は椅子の背にもたれ、改めてこちらを見る。
「背はあるんだがな。顔つきが若い」
やっぱりそう見えるらしい。少しだけ肩が落ちた。
「一応、ちゃんと商売はしています」
「一応か」
「ちゃんと、です」
言い直すと、店主の口元が少し緩んだ。
「それで、どこの出だ?」
「ヴェルノ地方です。ルーデンという町から来ました」
「ヴェルノか。そういや、その緑の髪も北じゃ珍しくないのか?」
「珍しくはないですよ」
「こっちじゃ結構目立つぞ」
「そうなんですか?」
言われてみれば、町へ入ってから何度か視線を感じた気もする。
「海が凍る辺りなんだろ?」
「はい」
店主は少し身を乗り出した。
「よく無事に来られたな。北には強い魔物がうろついてるんだろう?ドラゴンまで出ると聞くぞ」
「出ますね」
今度は目まで丸くなった。
「……怖くないのか?」
「気をつけていれば、そうそう出会うものでもありませんよ。こちらから近づかなければ、襲われることもあまりありませんし」
「……そういうものなのか?」
「はい。北ではそんな感じです」
店主が何とも言えない顔をした。
何かおかしなことを言っただろうか。
少し気になったけれど、それ以上は聞かれなかった。代わりに、肩の鞄を指さされる。
「で、商品は?」
「こちらです」
鞄を示すと、店主はそれを見て、僕を見て、もう一度鞄へ目を戻した。
「……それに?」
「はい」
この反応には、もう慣れている。
「まあいい。見せてみろ」
「ありがとうございます」
その一言だけで、さっきまで重苦しく感じていた店の空気が少し軽くなった。
店の隅にある机を借り、鞄から品物を取り出していく。
乾燥させた薬草、畳んだ毛皮、牙や角の細工物、船乗りの護符、保存食、北方の酒。それに、海獣の脂から取った油。
一つ置くたび、店主の目が机と鞄を往復する。
「……ずいぶん入るな」
「便利なんです」
「そうみたいだな」
それだけだった。
助かった。鞄について聞き始める人は、本当に長い。
店主は最初に薬草を手に取った。乾いた葉を指先で揉み、鼻先へ近づける。
「これは?」
「雪蓬です。煎じて飲むと身体が温まります。乾燥させれば長く保存できますよ」
「南でも育つのか?」
「それは分かりません」
指がぴたりと止まった。
「行商人なら、そこは育つと言うところじゃないのか?」
「でも、育たなかったら次に買ってもらえませんから」
店主が僕を見る。
僕も見返した。
少しの沈黙のあと、薬草が机へ戻される。
「お前、商売人に向いてないだろ」
「……よく言われます」
自分でも押しが弱いとは思っている。それでも、初対面の人に数分で見抜かれるとやっぱり少しへこむ。
ただ、嫌味で言っているわけではなさそうだった。薬草の扱いも丁寧だし、ほかの商品にも一つずつきちんと目を通してくれている。
それだけで少し安心した。
その後も店主は毛皮を裏返し、牙細工を光にかざしながら、産地や使い道を尋ねてきた。
分かることには答える。分からないことは、分からないと言う。そのたびに眉が微妙に動いたけれど、嘘をついて売るよりはいい。
少なくとも僕は、そのほうがまた買ってもらえると思っている。
最後に、海獣の油が入った瓶を手に取った。
栓を抜いて鼻を近づけた途端、店主の顔が露骨にしかめられる。
「うっ」
やっぱりそうなる。
僕もつい苦笑した。
「匂いますよね」
「売る側が同意するな。よくこんなの持ってきたな」
「僕も最初は苦手でしたけど、ちゃんと長所もあります」
そこは譲れないので、少し身を乗り出す。
「普通の獣脂より長く燃えます。寒くても固まりにくいですし、屋外の見張り台や倉庫なら匂いもそれほど気になりません」
話しているうちに、嫌そうだった顔つきが少しずつ真面目なものへ変わっていった。
店主は瓶を窓から差す光へ透かし、中身を確かめてから小さく頷く。
「品は悪くないな」
「本当ですか?」
思わず笑顔になる。
さっきまで臭そうなだけだった油瓶が、急に頼もしい商品に見えてきた。
「ただ、この値段は出せん」
「えっ」
一瞬で頼もしさが消えた。
提示された額は、考えていたよりかなり安い。
「……安いです」
「顔に出すな、商人」
「だって安いので」
店主は苦笑し、油瓶を机の上で軽く転がした。
「こっちにも事情がある。この町じゃ皆、財布の紐が固いんだ。高く仕入れたって、売れなきゃ俺も困る。品が悪いから値切ってるわけじゃない。それくらいは分かってくれ」
「それは……そうですよね」
店を続ける人には、その人なりの事情がある。
僕だって売れ残った商品を抱えて次の町まで歩くのは困るのだから、目の前の店主だって同じだ。
さっきよりは納得できた。
でも、安いものは安い。
そこは僕にも事情がある。
三本の油瓶を見下ろし、店主の顔と何度か見比べる。
「じゃあ……最初の三瓶だけ、この値段でどうでしょう。一度使ってみてください。それで気に入ってもらえたら、次からは僕の値段で買ってください」
「気に入らなかったら?」
「そのときは……諦めます」
口にすると、自分で少し悲しくなった。
店主はそんな僕を見て、とうとう声を上げて笑う。
「分かった。三瓶買う」
「本当ですか?」
思わず身を乗り出した。
近い。
慌てて半歩下がる。
「すみません。嬉しくて」
「今度は顔どころか身体にまで出てるぞ」
そこはもう仕方がない。
薬草も二束買ってもらえた。
保存食の干し肉は味を見てもらうことになり、店主が一口噛む。二、三度咀嚼したところで、眉間に皺が寄った。
「辛いな」
「え?」
僕も一切れ口へ入れてみる。
普通だ。
「酒が欲しくなる味だ」
「あ、それならこちらも――」
反射的に北方の酒を差し出した。
店主が目を丸くする。
僕も一拍遅れて、自分のしたことに気づいた。
「あ」
「今のは商売人らしかったぞ」
「そうですか?」
ちょっと嬉しい。
結局、酒も一本売れた。
全部の商品が売れたわけではない。それでも、初めて入った店としては上出来だった。
帳場の上へ銀貨が並べられていく。ちゃり、ちゃり、と硬貨が重なる音が、さっきまでより妙に心地よく聞こえた。
宿代と食事代を引いて、残った分は貯金だ。
ほんの少しでも、故郷を出たときより婚約者へ一歩近づいた。
そう思うだけで、銀貨が実際より少し輝いて見える。
「そんなに嬉しいか。さっきから全部顔に出てるぞ」
「……直したほうがいいですか?」
思わず頬へ手を当てると、店主は呆れたように鼻を鳴らした。
「商売のときだけな」
それは難しいかもしれない。
銀貨を革袋へしまっていると、店主が僕の手元を眺めながら尋ねてきた。
「そこまでして稼いで、何に使うんだ?」
「結婚資金です」
「若いのに殊勝だな。嫁さんは北で待ってるわけか」
「婚約者です。まだ嫁ではありません」
そこは大事なので、きちんと訂正した。
「故郷では、伴侶を迎える側が財を用意する決まりなんです」
店主は少し意外そうに眉を上げたあと、にやりと笑う。
「なるほど。それで……惚れてるんだな」
「……商品の話に戻しませんか」
「もう終わったぞ」
「あ」
そうだった。
急に店の中が暑くなった気がする。
意味もなく革袋の紐を結び直す。
「幼馴染なんです」
「聞いてない」
なぜ付け足したのか、自分でも分からない。
店主は堪えきれなくなったように声を上げて笑った。
「まあ、頑張って稼げ」
「はい」
今度は素直に笑う。
店へ入る前は、あんなに重く見えた扉だったのに、今ではずいぶん居心地のいい店に思えた。
ちゃんと商品を見てもらえて、買ってもらえて、少しだけ話もできた。
この町でも、あと何軒か回ってみたい。
「明日は別の店にも行ってみます」
そう言うと、店主の笑みが少し薄れた。
「その前に、一つ忠告しておく。この町じゃ、あまり目立つな」
声まで低くなったので、僕も自然と背筋を伸ばす。
「どうしてですか?」
「領主様がな。門で入町税は払っただろ?」
「はい」
「だが、ここで商売するなら今度は許可料だ、街道維持費だの荷車の通行料だの、名目を変えちゃ次から次へ金を取られる」
思わず眉を寄せた。
「そんなに取られたら、商売にならないじゃないですか」
「だから行商人が減ってるんだよ」
「あ……」
道中で聞いた話と、ようやくつながった。
それなら、さっき安くしか仕入れられないと言っていた理由にも納得がいく。皆の財布の紐が固いのも、好きでそうしているわけじゃないのだろう。
町へ入ったときには賑やかに見えた通りが、ほんの少しだけ違って見えた。
「とにかく、お前も気をつけろ。北の商品は珍しい。変に目をつけられて得することはないからな」
「はい」
今度は真面目に頷く。
「今日はもう町を出るな。次の宿場までは間に合わん。《赤い鳥亭》って宿がある。派手じゃないが、主人は信用できる」
「ありがとうございます」
売れ残った商品を鞄へ戻していく。
革袋の中には、さっき手に入れたばかりの銀貨がある。領主の話は気になるけれど、自分で売って得た金であることは変わらない。
それなら、やっぱり嬉しい。
鞄を肩へ掛けたところで、ふと思った。
「またカレドへ来たら、ここへ寄ってもいいですか?」
店主が目を丸くする。
「……お前、今の話聞いてたか?」
「聞いてましたよ。でも、せっかく商品を買ってもらえたので。また取引してもらえたら嬉しいです」
少し困って笑うと、店主は呆れたように僕を見た。
けれど、やがて口元が緩む。
「ボルクだ」
「え?」
「俺の名前。次に来るなら覚えておけ」
「あ」
そういえば、ここまで話しておいて名前すら聞いていなかった。
慌てて姿勢を正す。
「僕はエルンです」
「今さらか」
「……すみません」
「本当によく謝るな、お前」
また言ってしまった。
思わず口元を手で押さえると、ボルクが笑った。つられて僕も笑う。
名前を知っただけなのに、不思議とさっきより少し近くなった気がした。
扉へ向かいながら、予定を頭の中で組み直す。
今日はもう宿へ行こう。領主には近づかず、目立たず、余計な揉め事にも関わらない。
うん。それが一番だ。
扉へ手をかけたところで、窓の外に赤い陶器が見え、足が止まった。
「……陶器を見るくらいなら大丈夫ですよね?」
「お前、本当に分かってるのか?」
振り返ると、ボルクが額へ手を当てていた。
「分かってますって」
たぶん。
僕は苦笑しながら、ボルク商店をあとにした。
お読みいただきありがとうございます。
全22話執筆済みです。毎日1話ずつ更新予定です。




