第17話 だてに監察官やってないんですね
正門の方角から、どん、と腹の底まで響くような音がした。
領主館の裏手まで回り込んでいた僕とガストンさんは、ほとんど同時に足を止める。少し遅れて「正門だ!」「侵入者!」「衛兵を集めろ!」と怒鳴り声が飛び交い始めたので、何が起きたのかは考えるまでもなかった。
「……今の、たぶんダリアさんですよね?」
「考えるな。陽動として役に立ってんなら、それでいい」
ガストンさんはものすごく嫌そうに顔をしかめると、そのまま何事もなかったことにして歩き出した。さっき自分で陽動扱いしたばかりなのに、もう深く考えることを放棄している。
「大丈夫ですかね、ダリアさん」
「心配する相手が逆だ。あいつが無事かじゃなくて、衛兵がどこまで無事かを心配しろ」
「なるほど」
妙に納得できてしまった。
僕たちは正門から遠ざかるように館の裏側を進んだ。こちらは表ほど飾り気がなく、長い石壁の上に二階の窓がいくつも並んでいる。
ガストンさんはそのうちの一つを見つけると、小柄な身体をいっぱいに伸ばすように腕を上げた。
「あそこだ。右から三つ目が執務室、その奥がヴァルターの私室になってる」
「よく覚えてますね」
「昼間に見たからな。俺を何だと思ってる」
得意げに胸を張り、ついでに髭まで撫でている。
「今日会ってから、ずっと逃げてる人ですけど」
「国家監察官だ! そっちを先に思い出せ!」
「両方できますよね」
「できなくていいんだよ!」
顔を真っ赤にして怒鳴ったあと、ガストンさんは咳払い一つで無理やり威厳を取り戻し、もう一度二階を見上げた。
残念ながら、その威厳で高さが縮むわけではない。
二階の窓まではかなりある。近くに木はあるものの、こんな時に限って枝は都合よく伸びていないし、壁にも足を掛けられそうな場所はほとんどなかった。
「……あそこまで上がれりゃ早いんだがな」
「じゃあ行きましょうか」
僕が両脇へ手を入れて持ち上げると、ガストンさんの顔から威厳がきれいに消えた。
「待て。なんで俺を持ってる」
「上に行くんですよね?」
「そういう意味じゃねえ! 縄とか梯子とか、もっと人間らしい方法が――」
「よいしょ」
「待て待て待て待――!」
地面を蹴った途端、耳元で「うおおおおおおっ!?」と悲鳴が炸裂した。
これでは正門で騒いでいるダリアさんを笑えない。
塀の上へ一度足を掛け、そのままもう一度蹴る。屋根の縁へ手を掛けて身体を引き上げると、できるだけ瓦を鳴らさないよう着地してからガストンさんを下ろした。
途端に彼は両手を膝へつき、肩を大きく上下させながら僕を睨み上げる。
「お、お前……! 先に言え! 人を荷物みてえに運ぶな!」
「言ったら嫌がると思って」
「当たり前だ!」
怒鳴った直後、ガストンさんの顔色が変わった。恐る恐る両手を頭へ伸ばし、左右から髪を押さえる。
「……髪は?」
「大丈夫ですよ」
「よし」
心底ほっとした顔で胸を撫で下ろした。
命より大事とは言わないけれど、たぶんかなり上位には入っている。
それから乱れた髭まで指で整え、今度こそ何事もなかった顔で窓へ向かった。切り替えだけは本当に早い。
「ここだ。中に人はいねえな」
僕も横から覗く。
執務室には明かりも人影もなかった。ただし窓は当然ながら内側からしっかり留められている。
「鍵、掛かってますね」
「ああ。じゃあ開けるぞ」
「どうやってです?」
ガストンさんは答えず、上着の内側をごそごそ探り始めた。
出てきたのは、細く巻かれた丈夫そうなテープだった。
嫌な予感がする。
彼は窓の内側にある留め具の位置を確かめると、その周囲のガラスへテープを貼り始めた。縦、横、斜めと何本も重ね、小さな範囲だけを網のように覆っていく。
「何してるんです?」
「割った時に飛び散らねえようにするのと、音を少しでも抑えるためだ」
「……手慣れてますね」
「監察官だからな」
その肩書きは、そこまで何でもできるものだっただろうか。
ガストンさんは肘を軽く引き、テープを貼った部分だけを狙ってこつんと叩いた。もう一度少し強く当てると、ぱき、と鈍い音を立ててガラスが細かく割れる。
けれど破片はばらばらに落ちず、ほとんどがテープに張りついたまま一塊になっていた。
その部分だけをそっと外し、できた穴から手を差し込んで内側の留め具を外す。
かちり、と小さな音。
「よし」
あまりにも鮮やかだったので、僕は開いた窓とガストンさんを交互に見た。
「監察官って、こうやって人の家に入るんですか?」
「必要ならな」
「その必要、今まで何回くらいありました?」
「細けえこと気にしてる暇あんのか。入るぞ」
目を合わせてくれなかった。
たぶん聞かない方がいい。
先にガストンさんが窓を乗り越え、僕もその後へ続いた。
執務室は領主館らしく、必要以上に立派だった。
部屋の中央には大きな執務机が置かれ、壁一面の本棚には分厚い本や書類箱がびっしり並んでいる。厚い絨毯に、大ぶりの椅子。カレド周辺の地図や風景画まで掛けられ、棚の上には銀細工やら飾り壺やら、僕なら絶対に売り物以外では置きたくない物まで並んでいた。
これだけあると、掃除する人が気の毒になる。
ガストンさんは小さな携帯灯へ火を入れ、光が窓から漏れないよう身体で遮りながら室内を見回した。
「まず何を探すんです?」
「裏帳簿だ。ヴァルターが本当に脱税してんなら、どこかに実際の金額を残してる」
「それは分かりますけど、こんな部屋から探すんですか?」
「だから俺がいるんだ。まあ見てろ」
さっき屋根の上で髪を両手で押さえていた人と同一人物とは思えないくらい、そこからのガストンさんには迷いがなかった。
最初に向かったのは机ではなく本棚だった。本を数冊抜いて奥を覗き、棚板を指で叩いて音を確かめる。何もなければすぐ隣へ移り、今度は壁の風景画を持ち上げて裏側まで調べ始めた。
「人に見られちゃまずいもんってのはな、遠くへ隠しゃいいってもんじゃねえんだ」
絵を元へ戻しながら、ガストンさんが得意げに鼻を鳴らす。
「隠した本人は毎日気になる。ちゃんとあるか、誰かに見つかってねえか。だから結局、自分の目が届くところに置きたがるんだよ。特に金に執着する奴ほどな」
「領主さんなら、かなり当てはまりそうですね」
「だろ? 執務室か私室のどっちかにはあると思ってた」
次は棚の裏、引き出しの底。書類箱を持ち上げて重さまで確かめ、机の引き出しは底板を叩いて二重底まで疑っている。
さっきの窓より、さらに怪しくなってきた。
「……だてに監察官やってないんですね」
「そんなに褒めるな」
ガストンさんは満更でもなさそうに髭を撫でた。
「そこまで褒めてませんけど」
「じゃあもうちょっと褒めろよ」
注文の多い人だ。
一通り見ても何も出てこないと、ガストンさんは最後に残った大きな執務机へ戻った。
「机の中にはねえ。となると……」
ぶつぶつ言いながら脇へしゃがみ込み、そのまま頭から机の下へ潜り込む。
「……何してるんです?」
「見るな。国家監察官が領主の机の下へ潜ってるところなんざ、見栄えが悪いんだ」
「もう見えてますよ」
「忘れろ」
そう言われても、短い脚だけ机の外へ出ている姿はなかなか忘れにくい。
しばらくごそごそやっていたガストンさんが、突然ぴたりと動きを止めた。
「……ん?」
声が変わった。
僕が覗こうとすると、机の下から「静かにしろ」と手だけ出てくる。僕は最初からそれほど喋っていないけれど、とりあえず黙った。
机の裏側を指先でなぞる音がしばらく続き、やがて、こつ、と何かを押す音がする。
ガストンさんはすぐに這い出してくると、さっきまでなかった笑みを口元に浮かべた。
「あったぞ。仕掛けだ」
机の向こう側へ回り、天板の裏へもう一度手を入れる。何度か指先で探ったあと、何もないように見える一角へ親指を押し込むと、そこだけがほんのわずかに沈んだ。
かち、と小さな音。
けれど、すぐには何も起きない。
「……外れですか?」
「待て」
ガストンさんが眉間に皺を寄せた、その直後だった。
部屋の奥から、ごご、と重い物が擦れるような音がする。
振り向くと、本棚と風景画の間にあった何の変哲もない壁の一部が手前へせり出し、そのままゆっくり横へ動き始めた。
「えっ」
「ほらな」
今度こそガストンさんの口元が思いきり吊り上がる。
壁の裏から現れたのは、人ひとりなら余裕でしゃがみ込めそうなほど大きな鉄製の扉だった。壁そのものに奥行きを作り、その中へ金庫を埋め込んでいたらしい。
こんなの、知らなければ壁として素通りしてしまう。
「……こんなの、よく見つけましたね」
「だから言ったろ。目の届くところに隠すってな。ヴァルターみてえな奴が、自分の金を見るために毎回地下室まで降りると思うか?」
「今度はちゃんと感心しました。だてに監察官やってないんですね」
「そう何度も言われると照れるな」
満面の笑みで髭を撫でている。
「調子に乗らないでください」
「褒めた直後に落とすなよ!」
金庫の扉には、見るからに頑丈そうな錠前が取り付けられていた。
「鍵は?」
「ヴァルター本人が持ってんだろうな」
「じゃあ、これはどうするんです?」
「開ける」
また嫌な予感がした。しかも今度は、さっきより強い。
ガストンさんは上着の内側へ手を入れ、小さな革包みを取り出した。それを床へ広げると、中から細い金属棒や、先の曲がった針のような道具が何本も現れる。
僕は思わず半歩下がった。
「……また、すごい物が出てきましたね」
「監察官の道具だ」
「絶対嘘ですよね」
「これも立派な監察の技能だ。仕事してりゃ、こういう鍵を開けなきゃならねえ時もある」
「監察官って、鍵を持ってる人に開けてもらう仕事じゃないんですか?」
「毎回素直に開けてくれる奴ばっかりなら苦労しねえんだよ!」
それはそうなのかもしれない。
納得していいのかは、やっぱり分からないけれど。
ガストンさんは道具を何本か見比べ、そのうち二本を選んで鍵穴へ差し込んだ。
そこからは、驚くほど静かだった。
片目を細め、耳を扉へ寄せながら指先だけを細かく動かしている。金属同士の触れ合う音を聞いては一度止まり、ほんの少し角度を変えてまた動かす。
正門の方ではまだ怒鳴り声が続いているのに、まるで聞こえていないみたいだった。
こういう時だけは、本当に別人に見える。
さっき僕に抱えられて空を飛び、着地した瞬間に髪の無事を確認していた人とは思えない。
……口に出すのはやめておこう。
褒めたら、明日の朝まで自慢されそうだ。
しばらくして、小さく、かちり、と音がした。
ガストンさんの眉が一気に持ち上がり、勝ち誇った顔で取っ手を回す。
「よし」
重い鉄の扉が、ゆっくりと開いた。
「……本当に開けましたね」
「だから監察官だっつってんだろ」
「やっぱりそこは関係ないと思います」
「いいから中見ろ!」
金庫の中を覗き込んで、僕は目を丸くした。
棚には革表紙の帳面や束ねられた書類が並び、その横には金貨の詰まった袋がいくつも積まれている。奥には小ぶりながら金塊まで何本か置かれ、宝石らしい物が収められた小箱まであった。
「……すごいですね」
「ああ」
返事が妙に低いので横を見ると、ガストンさんの目はもう帳簿ではなく金塊に釘付けだった。さっきまでの監察官らしい顔はどこへやら、口元まで緩ませながら、右手だけが持ち主の意思とは無関係みたいに金庫の中へ伸びていく。
「ガストンさん。手」
「これは証拠品だ。俺が責任を持って保全する」
「自分の懐で?」
右手がぴたりと止まった。
ガストンさんは金塊を見て、僕を見て、もう一度金塊を見た。まるで長年連れ添った相手と引き離されるみたいな顔をしている。
「……お前、細けえな」
「普通です」
「一個くらい減っても分かんねえだろ」
「分かるかどうかの問題じゃないです。人の物を勝手に持っていったら商売できませんよ」
「融通の利かねえ商人だな。普通、商人なら金好きだろ」
「好きですよ。自分の金は」
「そこまできっちり分けんなよ……」
ガストンさんは頬を引きつらせ、最後まで未練たっぷりに金塊を見つめてから、ものすごく惜しそうに手を引っ込めた。
この人を一人で金庫へ入れなくて本当によかった。
しばらく金塊との別れを惜しんでいたガストンさんも、ようやく本来の目的を思い出したらしい。棚に並んだ帳面へ手を伸ばし、そのうち革表紙の一冊を取り出した。
開いた瞬間、表情が変わった。
さっきまで金塊に未練を残していた顔から欲がすっと消え、目つきまで鋭くなる。数枚めくっては前へ戻り、別の頁と数字を見比べ始めた。
「どうです?」
「……待て」
声まで低い。
僕も横から覗き込むと、税収、徴収額、納付額、保管金といった数字がびっしり並んでいた。品物や値段の欄なら僕にもある程度分かるけれど、領地の税金全部となると一目では追いきれない。
ガストンさんは違った。
しばらく頁を行き来したあと、口の端だけをわずかに持ち上げる。
「当たりだ。表に出してる数字と全然違う。入町税に商人からの徴収、臨時徴税……こっちが実際に取った額だな。王都へ出してる報告との差がでかすぎる。ヴァルターの野郎、想像以上に派手にやってやがった」
さらに頁をめくる。
酒、宝石、絵画、食器、絨毯。
次から次へと贅沢品の名前が出てきた。
「……よく使ってますね」
「国に納める金まで自分の財布扱いだからな。しかも使わなかった分は、きっちり溜め込んでやがる」
ガストンさんが金庫の中へ顎をしゃくった。
金貨に金塊。
悪徳領主さんという呼び方が、ここまでしっくりくる人も珍しい。
帳簿はそこで終わらなかった。
ガストンさんがさらに頁を進めていくうち、今度は眉が寄った。
「……妙だな」
「何かありました?」
「経費が高すぎるところがいくつかある。倉庫の管理費、輸送費、備蓄費……こっちは修繕か。どれも表向きは普通だが、額がおかしい」
帳面をこちらへ傾けられても、僕には領地の倉庫を維持する相場までは分からない。
「これも領主さんが?」
「そこまでは分からん。ヴァルターが馬鹿みてえに払っただけか、誰かが途中で抜いてるのか……少なくとも脱税とは別口だ」
ガストンさんは何度か前後の頁を見比べたあと、小さく舌打ちした。
「今夜これだけで全部追うのは無理だ。まず確実な方を押さえる」
「領主さんの脱税?」
「ああ。こっちは真っ黒だ。この一冊ありゃ、脱税に不正徴収、報告の改竄まで一通り揃う。もう言い逃れできねえよ」
「かなりまずいんですね」
「まずいどころじゃねえ。首がいくつあっても足りねえぞ」
「首って……」
「比喩だ。たぶんな」
そこは言い切ってほしかった。
ガストンさんが帳簿を閉じ、上着の内側へ押し込もうとした、その時だった。
廊下の向こうから、いくつもの足音が聞こえてきた。
一人や二人ではない。しかもかなりの速さで、まっすぐこちらへ近づいている。
僕とガストンさんは顔を見合わせた。
ついさっきまで裏帳簿を見つけて勝ち誇っていたガストンさんの眉が、見る見るうちに八の字へ変わる。
「……誰か来ますね」
「聞こえてる。こんな時だけよく聞こえやがる」
やがて足音の中から、怒鳴り声が飛んできた。
「執務室だ! 賊が執務室へ入り込んだと聞いたぞ!」
聞き覚えがある。
昼間、領主館で嫌というほど聞いた声だった。
ガストンさんもすぐ気づいたらしく、今度は眉間に深い皺が刻まれる。
「……よりによって本人かよ」
「領主さんですよね」
「ああ。しかも何人か連れてきやがった」
ガストンさんは素早く裏帳簿を胸元へ押し込み、僕へ向き直った。
「エルン。とりあえず何もしてねえ顔しろ」
僕は開け放たれた隠し金庫、床に広がったピッキング道具、それから割って入ってきた窓を順番に見た。
「……無理ですよ」
「俺だって分かってるよ!」
その時にはもう、足音は扉のすぐ前まで来ていた。
取っ手が乱暴に下がり、扉が勢いよく開く。
「貴様ら――!」
立っていたのは、顔を真っ赤にした領主だった。その後ろには武装した衛兵が五人、ずらりと並んでいる。
「人の執務室で、何をして――」
怒鳴りながら一歩踏み込んできた領主の目が、僕たちの背後へ向いた。
壁の奥に口を開けたままの隠し金庫。
積まれた金貨の袋と金塊。
その前に散らばった道具。
そして最後に、ガストンさんの胸元から半分だけ覗いている革表紙の帳簿。
真っ赤だった顔から、今度は逆にさあっと血の気が引いていった。
「……お、お前ら」
喉がひっくり返ったような声だった。
「そこで、何をしている……!」




