第14話 平和な一日だったのになあ
今日は何も起きなかった。
正確には、市場で少し気になる人たちを見かけたり、オルレアから何度も釘を刺されたりはしたけれど、昨日に比べれば十分すぎるほど平和だった。
衛兵には追われていないし、誰かに腕を掴まれて引っ張り回されてもいない。剣も飛んでこなければ、赤い服の女の人に名前を連呼されながら町中を走り回ることもない。
素晴らしい一日だと思う。
オルレアを見送ったあと、市場へ戻って残りの買い付けも済ませた。乾燥香草に豆、それからカレド名物の赤土の陶器を何点か。途中で見つけた香辛料も少し仕入れたので、今日はなかなかいい買い物ができた。
あとは《ボルク商店》へ戻って、荷物を整理するだけ。
「ふう……」
肩掛け鞄の位置を直し、夕暮れの通りを歩く。
市場では店主たちが露店の布を畳み、売れ残った品を箱へしまい始めていた。昼間より人通りも減り、このくらいの方がゆっくり歩けていい。
このまま何事もなくボルクさんのところへ戻って、夕飯を食べて宿へ帰る。
今日は、それで終わり。
「うおおおおっ!」
「え?」
横の路地から、何かが飛び出してきた。
「うわっ!」
「ぐえっ!」
真正面からぶつかった。
僕は一歩よろけただけだったけれど、向こうは勢いよく尻もちをつき、両足を投げ出して顔をしかめている。
「いってえ……!」
「す、すみません。大丈夫ですか?」
「なんでお前が謝るんだ……」
地面から恨めしそうに見上げてきたのは、立派な髭を生やした中年の男だった。背はそれほど高くないけれど、服装だけならそれなりの人に見える。
ただ、僕を見るより先に両手で頭を押さえていた。
「髪、大丈夫ですか?」
「そこじゃねえ!」
怒られた。
でも、ぶつかった直後に真っ先に確認していたので、一番大事なところなのかと思ったんだけど。
男は立ち上がると、髪の位置を慎重に撫でてから服の埃を払い、「悪かったな」と片手を上げて僕の横を走り抜けた。
よかった。
今度こそ何も――。
「……待て」
戻ってきた。
どうして。
男は僕の前まで来ると、顔をじっと見たあと、フードの隙間から覗く髪へ視線を移した。
「……緑髪の若い商人。お前、エルンだな。昨日、ダリアと一緒に衛兵から逃げたっていう」
嫌な予感がした。
「人違いです」
「赤い女と一緒に衛兵から逃げただろ」
逃げ道を塞がれた。
「……どうして知ってるんですか」
「やっぱりお前じゃねえか!」
男の顔がぱっと明るくなり、今度は僕を上から下まで値踏みするように眺め始めた。
僕の気分は反対に沈んでいく。
「俺はガストン。王都から来た監察官だ」
「監察官……」
そういえば、ボルクさんが王都から役人が来ていると言っていた。
でも、その役人が路地から飛び出して僕へ体当たりし、真っ先に髪を直す人だとは聞いていない。
「……本当に?」
「その間はなんだ!」
ガストンさんは眉を吊り上げたものの、すぐに口元をにやりと持ち上げた。
「まあいい。あの女と一緒に衛兵から逃げ切ったなら、今の俺には十分だ」
「何が十分なんですか」
なんだろう。
ものすごく嫌な目をしている。
僕が一歩下がると、その時、ガストンさんが飛び出してきた路地の奥から二人分の足音が響いた。
にやついていた顔が、一瞬で引きつる。
「……来やがった」
「誰がです?」
ガストンさんは答える代わりに、僕の腕をがっちり掴んだ。
「よし、走るぞ」
「なんで僕も!?」
「お前、逃げるの得意なんだろ!」
「昨日の話をどう聞いたらそうなるんですか!」
「ダリアと一緒に衛兵から逃げ切ったんだろうが。今の俺には十分だ!」
「だから何の基準ですか!」
「生存!」
ものすごく切実だった。
路地から二人の男が現れる。
頭から足元まで黒いローブに覆われ、深いフードと布で顔まで隠していた。
姿は昼間に市場で見かけた男たちとは違う。
でも、あの時感じた嫌な気配によく似ている。
「……あの人たち、誰なんです?」
「俺を殺しに来てる!」
「じゃあ僕を巻き込まないでください!」
「一人より二人の方が心強いだろ!」
「ガストンさんだけですよね、それ!」
抗議する間もなく引っ張られ、仕方なく一緒に走り出した。
市場通りへ飛び出し、店じまい中の露店の間を縫う。積まれた籠を避け、荷車を回り込み、人にぶつからないよう進路を変えるたび、隣のガストンさんが少しずつ遅れていった。
「おい、待て! 俺に合わせろ!」
「合わせたら追いつかれますよ!」
「分かってる! だが俺の足にも限界がある!」
頬を真っ赤にして腕を大きく振る姿は、監察官というより完全に逃げる人だった。
肩越しに後ろを見る。
二人との差は、少しずつ縮まっている。
「こっちです!」
仕方なく人の少ない横道へ曲がる。
「そっちで合ってるのか!?」
「分かりません!」
ガストンさんが走りながら顔を盛大に歪めた。
「ならなんでお前が先頭なんだ!」
「ガストンさんが遅いからです!」
「年長者を労われ!」
元気に怒鳴れるなら、まだ大丈夫そうだ。
角を二つ曲がったところで、高い石塀が目の前に現れた。
行き止まり。
「……あ」
遅れて追いついたガストンさんが肩で息をしながら、僕と石塀を交互に見た。
「お前、本当に道知らねえんだな」
「言いましたよね?」
「少しくらい謙遜しろよ!」
後ろから足音が迫る。
戻るには遅い。
石塀を見上げる。
僕一人なら問題ないけれど。
「ガストンさん、先に行きますよ」
「何?」
脇へ手を入れ、その身体を持ち上げる。
ガストンさんの目が一気に見開かれた。
「ちょ、待――」
「よいしょ」
「うおおおおおっ!?」
そのまま塀の向こうへ放った。
向こう側から悲鳴と鈍い音が続く。
たぶん大丈夫。
僕も塀へ手をかけ、そのまま飛び越えた。
着地すると、ガストンさんは地面へ座り込んだまま、両手で頭を押さえていた。
「ある……?」
「何がです?」
「髪だ!」
「あ、はい。大丈夫です」
指で触って確かめたガストンさんの顔が、心底ほっとしたように緩んだ。
「よし……!」
本当にそこは大事なんだ。
しかし安心したのも束の間、塀の上に二つの黒い影が現れ、そのまま軽々とこちら側へ降りてきた。
ガストンさんの表情から、せっかく戻った余裕がきれいに消えた。
「……嘘だろ」
僕も小さく息を吐く。
これだけ逃げれば諦めてくれると思ったけれど、どうやらそんなに簡単ではないらしい。
二人がゆっくり距離を詰めてくる。
「話し合いで何とかなりません?」
「俺を消しに来てる連中だぞ」
「ですよね……」
オルレアに言われたばかりだ。
怪しい人には近づかない。
妙なことに首を突っ込まない。
今日一日、ちゃんと守れていた。
あと少しだったのに。
「そこの商人」
黒い男の一人が低い声を出した。
「そこを退け。お前には関係ない」
ものすごく魅力的な言葉だった。
そう。
僕には関係ない。
横へ退けば、ようやく今日の予定に戻れる。
身体を動かしかけたところで、袖をぐいっと引かれた。
ガストンさんが両手で僕の服を掴んでいる。
「……何ですか」
「見捨てるな」
「さっきまで初対面でしたよね?」
「もう名前も知ってる。立派な知り合いだ!」
「知り合いの基準が軽すぎません?」
生きることに関してだけは、ものすごく図々しい。
黒い一人が剣を構え直した。
もう一人は少し横へ回り、僕を避けてガストンさんへ近づこうとしている。
このまま退けば、どうなるかは分かる。
「……はあ」
肩掛け鞄を背中側へ回した。
本当に嫌なんだけどなあ。
「そこから動かないでください」
「おお!」
ガストンさんの顔が急に輝く。
「嬉しそうにしないでください」
最初の男が踏み込んだ。
速い。
けれど、避けるだけなら困らない。
振り下ろされた剣から半歩ずれ、返ってきた横薙ぎには身体を引く。続けて来た突きも少し首を傾ければ、それで届かなかった。
男の眉間に皺が寄る。
少し苛立っている。
「おい、避けてばっかりで大丈夫なのか!?」
「人を殴りたくないんです!」
「向こうはお前を斬る気満々だぞ!」
それは分かっている。
だから困る。
もう一人が横を抜け、ガストンさんへ向かう。
「エルン!」
「分かってます!」
そちらへ回り込んで進路を塞ぐ。
二人目が足を止めた瞬間、最初の男が背後から深く踏み込んできた。
避ければ、そのままガストンさんへ届く。
「ああ、もう……」
仕方ない。
本当に軽く。
ちょっと止まってもらうだけ。
「すみません」
振り向きざま、頬へ平手を当てた。
ぱん、と乾いた音がする。
男の顔が横を向き、そのまま身体までついていって一回転、さらに半回転して石畳へ倒れた。
「…………」
動かない。
僕も、手を上げたまま固まった。
「……あ」
やってしまった。
残った一人も剣を構えた姿勢のまま止まり、倒れた仲間と僕を交互に見ている。
僕は右手を開いたり閉じたりする。
本当に軽く叩いたつもりだった。
なのに一回転して、そのまま気絶。
「……ああ、やっちゃった」
こういうことがあるから、人を殴るのは嫌なんだ。
次からは、もっと軽くしよう。
……どのくらい軽くすればいいんだろう。
「お前」
ガストンさんが、ぽかんと口を開けたまま僕の右手を指差した。
「今の何だ」
「平手打ちです」
「それは見れば分かる! 平手打ちで人は一回転半しねえんだよ!」
「……打ちどころが悪かったのかもしれません」
「頬だぞ!?」
そう言われても困る。
残った男が、じりっと一歩下がった。
僕が顔を向けると、さらにもう一歩。
「あの」
肩がびくりと揺れる。
「その人、たぶん大丈夫だと思うので……連れて帰ってもらえませんか?」
返事はない。
しばらく僕を警戒したあと、男はゆっくり剣を下げ、倒れている仲間を肩へ担ぎ上げた。
それでも僕から目を離さず何歩か後退し、十分に距離が開いたところで、仲間を抱えたまま走り去っていった。
「……大丈夫かな」
「そっちの心配かよ」
ガストンさんが疲れ切ったように両手で顔を覆った。
「気絶させちゃったので」
「俺はついさっき殺されかけてたんだぞ」
「ガストンさんは元気そうですし」
「優先順位がおかしい!」
それだけ大声が出れば大丈夫だと思う。
僕は肩掛け鞄の位置を戻した。
「じゃあ、僕はこれで」
「待て」
また袖を掴まれた。
今日は本当によく掴まれる。
「まだ何かあるんですか?」
「俺を置いていく気か?」
「そのつもりですけど」
ガストンさんの顔が引きつった。
「お前、今俺が殺されかけてたの見ただろ! 二人だけとは限らねえんだぞ!」
「でも、僕には関係ないですし……」
そう言うと、ガストンさんは僕の袖を両手で握り直し、急に情けないくらい真剣な顔になった。
「なあ、よく考えろ。ここで俺を放って帰って、明日の朝『王都の監察官、路地裏で冷たくなる』なんて話を聞いたらどうする?」
「嫌な想像をさせないでください」
「寝覚め悪いだろ?」
「……それは」
言葉に詰まった瞬間、ガストンさんの顔がぱっと明るくなった。
「ほらな!」
この人、僕が断りにくいと分かった途端、ものすごく元気になった。
ずるい。
「……少しだけですよ。人のいるところまでです」
「よし!」
「そんな嬉しそうに」
「生きられそうだからな!」
悪びれる様子がまったくない。
「僕、《ボルク商店》へ戻る途中だったので、そこまでなら――」
「そこ行こう」
「今、初めて聞きましたよね?」
「人がいるんだろ?」
「いますけど、ボルクさんを巻き込むのは――」
「俺一人で路地裏に放置するのと、どっちが寝覚め悪い?」
「またそれ使うんですか!」
僕の弱いところを覚えるのが早すぎる。
「まあ」
背後から聞き覚えのある声がした。
身体が固まった。
ガストンさんも勢いよく振り返る。
鼠色の外套を片手に、黒い服姿のダリアさんがこちらへ歩いてくる。
昨日は真っ赤だったので、一瞬だけ別人かと思った。
それでも淡い栗色の髪と、あの楽しそうな歩き方を見れば間違えようがない。
昨日巻き込んできた人と、今日巻き込んできた人。
その二人が知り合いだった。
ものすごく嫌な組み合わせだ。
ダリアさんは僕を見るより先に、ガストンさんへにこりと微笑んだ。
綺麗な笑顔なのに、目元だけはあまり笑っていない。
「やっぱり、こちらにいらしたんですのね」
「お前、遅えぞ!」
ガストンさんが勢いよく指を突きつける。
ダリアさんの笑顔が、もう一段深くなった。
「勝手に逃げた方が、何をおっしゃっていますの?」
「護衛ならついてこい!」
「背中から刺されてもよろしかったのでしたら、そうしましたけれど」
「…………」
突きつけていた指が、ゆっくり下がった。
たぶんダリアさんの勝ちだ。
その視線が、今度は僕へ向く。
「ところでエルン。こちらへ二人ほど来ませんでした?」
「来ました」
「どちらへ?」
「帰りました」
ダリアさんがぱちりと瞬いた。
「帰った?」
「一人が気を失ってしまって、もう一人が連れて帰りました」
その目がゆっくり僕の右手へ落ちる。
「エルンが?」
「……はい」
「何をなさったの?」
「平手打ちを少し」
ダリアさんが黙った。
隣でガストンさんだけが、ものすごい勢いで首を横に振っている。
「少しじゃねえ」
「ガストンさんは黙っててください」
ダリアさんは僕の右手と顔を交互に眺めると、なぜか楽しそうに目を細めた。
「やっぱり、面白い方ですわね」
「僕は全然面白くないです」
本気でそう思う。
今日はずっと平和だったのに、最後の最後で人を一人ひっぱたいて気絶させてしまった。
オルレアに知られたら、たぶん眉を吊り上げて怒られる。
「とにかく、僕は《ボルク商店》へ戻ります」
今度こそ宣言した。
「では、わたくしも参りますわ」
「俺も行く」
二人分の返事が、ほとんど同時に重なった。
「どうしてそうなるんですか?」
「おじ様が倉庫で何を見たのか、わたくしもそろそろ聞きたいですもの」
「俺だって話を整理したい。それに、さっきの連中がまた来るかもしれねえ」
ガストンさんはそこで言葉を切り、僕をじっと見つめた。
「なあ、エルン。ここで俺を見捨てて――」
「分かりましたから! もう寝覚めの話はしないでください!」
嬉しそうに口元を上げる。
完全に味を占めている。
僕は肩を落とした。
今日は何も起きなかったはずだった。
オルレアを見送った時点では、本当にそうだった。
それが夕方になった途端、知らない監察官に突っ込まれ、黒い人たちに追われ、一人を平手打ちで気絶させ、最後にはダリアさんまで増えた。
「……平和な一日だったのになあ」
つい漏れた声に、二人が揃ってこちらを見る。
僕はもう何も言わず、《ボルク商店》の方角へ歩き始めた。
後ろから二人分の足音が、当然のようについてくる。
昨日の続きは、どうやらまだ終わっていないらしい。




