表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界最強の俺を、幼馴染が全力で落ちこぼれにしてくる件  作者: 浪留
第三章:王立学園

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/40

第十六.五話「クレアの日常」

 入学してから数日たった頃、今日も第四寮の朝は静かに整っていた。


 第一寮ほど華やかではない。かといって、第七寮ほどに忘れ去られたような風情もない。

 第四寮は、学園中央棟の東側に建っていた。正面には低い階段があり、玄関の上には小さく寮章が刻まれている。廊下はまっすぐで、窓は中庭に面していた。派手な装飾は少ない。けれど床や手すりはよく磨かれ、壁際には季節の花が置かれている。知と礼法を重んじる寮らしく、全体に落ち着いた空気があった。

 朝日が廊下の床に薄く伸び、花瓶の花が、背伸びをすることなく静かに揺れている。

 クレアは、その空気が嫌いではなかった。



 机の上には、三冊の本が重ねてある。

 紋章学基礎。

 王国貴族法概論。

 王国史序説。

 どれも、角に小さな紙片が挟まれていた。昨夜のうちに読み返す箇所を決め、朝に確認するためだ。紙片の位置は少しずつずれている。前日の授業で分からなかったところ。今日、もう一度積み直すところ。明日には、迷わず開けるようにしたいところ。


 努力とは、祈りではない。

 祈っただけで届くのなら、エルノートの名はとうに戻っている。

 折れた木剣も、煤けた門も、あの屋敷の傷も、朝になればすべて綺麗に消えていたはずだ。

 けれど、そうはなっていない。だから、積む。

 一つずつ。少しずつ。

 昨日の弱さの上に、今日の理解を置く。


 クレアは羽根ペンを取り、紋章学の余白に小さく書き込んだ。

 ――血統紋章と契約紋章の相違。

 ――継承権と発動条件は必ずしも一致しない。

 ――家名は権利であると同時に、責任の記録でもある。

 そこまで書いて、指が一度だけ止まる。


 家名

 その言葉は、今でも少し重い。

 けれど、重いからといって手放せるものではなかった。重いものを持つには、腕を鍛えなければならない。背筋を伸ばさなければならない。持ち方を覚えなければならない。

 重さそのものを恨んでも、何も守れない。

 クレアは息を吐き、次の行へ進んだ。


―――


 朝食の時間になると、第四寮の食堂には落ち着いた声が満ちた。ここにいる生徒の多くは、文官、紋章官、戦術補佐、礼法官、あるいは領主家の補佐役を目指す者たちだ。第一寮のような眩しさはない。だが、言葉の選び方、椅子を引く音、食器の置き方、その一つひとつに、学んできた家の空気が滲んでいる。


「クレアさん、昨日の紋章学、もう復習されたのですか?」

 隣の席の少女が、半ば感心したように言った。


「はい。忘れないうちに整えておきたかったので」


「整えて、ですか」


「知識は、置き場所を間違えると必要な時に取り出せませんから」

 そう答えると、少女は少し笑った。


「やっぱり、エルノートの方は違いますね」


 悪意のない言葉だった。

 だからこそ、クレアは穏やかに微笑んだ。


「まだ、そう言っていただけるほどではありません」


 本当に、まだだ。

 エルノートの名だけで、胸を張れる時代は過ぎた。

 今の自分が示せるものは、昨日より少し多く覚え、昨日より少し正確に答え、昨日より少し乱れずに立つことだけだ。


 食堂の端で、別の生徒たちが小声で話していた。

「入学試験の日、第七寮が全部明るかったらしいぞ」


「第七寮? あそこ、まだ使われていたのか」


「使われているどころか、新入生が二人入ったって」


「一人は例の要観察の学生だったか。測定で妙な扱いになったとか」


「名前は……確かアレン・ノーツだったかな」


 匙を持つ指が、一度だけ止まった。

 アレン。

 その名は、朝の食堂には少し不釣り合いだった。

 丘の上の学園ではなく、古い屋敷の庭を思い出させる。木剣の構えがどこか危うく、けれど逃げる人ではないと感じた旅の少年。


 クレアはすぐに匙を動かした。

 深く考える時間ではない。

 彼には彼の場所がある。

 自分には、自分の積むべきものがある。


―――


 第一課程の講義室は、白かった。

 そこに集められた生徒たちは、誰もが明確な何かを持っていた。

家名。才。推薦状。努力の記録。自分はここへ来るべきだという、疑いのない視線。

 クレアは、その中で自分の席に座る。


 第一課程。

 首席候補たちの集まる場所。

 王国騎士団、宮廷魔術師団、白塔院、王宮文官、そして英雄庁の目が、最も早く届く場所。


 英雄。


 その言葉に、憧れだけを抱けるほど、クレアはもう幼くはなかった。

 英雄とは、物語の中で剣を掲げる者だけではない。名を記録され、役割を背負い、必要とされる場所へ立つ者だ。

 エルノートの名を、過去のものにしないためには、ただ守りたいと願うだけでは足りない。必要とされなければならない。届かなければならない。


「クレアさん」

 講師に名を呼ばれ、クレアは顔を上げた。


「この紋章の補助線を読んでください」


 黒板に描かれているのは、古い王侯貴族に用いられた複合紋章だった。月桂樹、剣、白石、そして周囲に刻まれた小さな契約符。

 クレアは立ち上がる。


「主紋は武功の記録です。ただし、剣そのものではなく、剣を王権へ捧げる形を取っています。月桂樹は勝利ではなく、継承された責務の意味合いが強いと考えます。外縁の契約符は、血統による発動ではなく、役割承認による補助式です」


 講義室が静かになる。

 講師は少しだけ目を細めた。


「いいですね。よく読めています」


 座る時、いくつかの視線を感じた。

 感心

 警戒

 興味。

 それらは小さな針のように、背筋のあたりへ刺さる。

 けれど、悪い痛みではなかった。


 見られている。ならば、乱れてはいけない。ただし、見られるためだけに立ってはいけない。



 昼前の貴族法では、相続権と領地管理権の違いについて問われた。クレアは答えた。答えながら、かつてのエルノート家が失ったものを思う。領地、財、人の信頼。そのすべてを、法の文章だけで戻せるわけではない。けれど、知らなければ守れない。



 午後の王国史では、建国英雄について触れられた。

 白礎の王アルヴィオン

 黒門災厄。

 そして、王国が英雄をどのように記録してきたか。


「英雄とは、ただ強かった者ではありません」

 講師は言った。


「記録に残る形で、王国に必要とされた者です」


 その言葉に、教室の何人かが真剣な顔をした。

 クレアもまた、羽根ペンを止めた。

 記録に残る形。

 必要とされる形。

 では、記録に残らない力は、なかったことになるのだろうか。


 そこまで考えて、クレアは一度だけ目を伏せた。

 余計な思考だ。今は、まず覚えるべきことがある。



 放課後、訓練場では剣術基礎の確認が行われた。

 木剣を握ると、折れた木剣の感触を思い出す。エルノートの門前に置いてきた、あの一本。忘れないために、持ってこなかったもの。


「エルノート」

 教官が言った。


「形は正確だ。だが、少し硬い」


「はい」


「守ろうとしすぎている。剣は壁ではない」


 クレアは一瞬だけ息を止め、それから頷いた。

「はい」


 守るために握る剣。

 けれど、守ろうとしすぎれば動けなくなる。それはきっと、屋敷の前で知ったはずのことだった。


 もう一度構える。

 足を置く。

 肩の力を抜く。

 視線を上げる。

 まっすぐに。


―――


 夕方、第四寮へ戻る廊下で、金色の髪の少年とすれ違った。

 レオンハルト・ヴァイスグラン。

 彼は立ち止まり、礼儀正しく一礼した。


「エルノート嬢。今日の紋章学、見事でした」


「ありがとうございます。ヴァイスグラン様こそ、魔法理論の解答は大変正確でした」


「正確であるだけでは足りません。あなたの解釈は、記録の奥にある意図まで読もうとしていた」


 嫌味ではなかった。

 余裕を見せるための称賛でもない。

 彼はただ、正しく見て、正しく言った。

 だからこそ、クレアは静かに背筋を伸ばした。


「まだ、届きません」


「何に、ですか」


「私が届くべき高さに、です」


 レオンハルトは少しだけ目を細めた。

 それから、穏やかに言った。


「ならば、お互いに積みましょう」


「はい」


 短い会話だった。

 けれど、クレアの中にはしばらく残った。

 彼は、遠い。だが、嫌いではない。

 嫌いになれるほど、彼は浅くなかった。

 届くべき高さ。

 そう思わせる相手がいることは、苦しい。けれど、悪いことではない。




 夜、第四寮の自室で、クレアは机に向かった。

 紋章学の復習。

 貴族法の条文整理。

 王国史の年表。

 そして、木剣の手入れ。


 手入れする木剣は、折れていない。

 まだ、折れていない。


 窓の外には、学園の夜が広がっていた。遠くに、第七寮らしき建物の灯りが見える。


 誰かが、廊下で噂していた。

 第七寮が若返ったらしい

 いや、ただの見間違いだ

 寮にも体調があるらしい

 なんだそれは


 クレアは羽根ペンを止めた。

 その名が、ほんの少しだけ胸をよぎる。


 アレン・ノーツ。

 あの時の旅の少年。


 今、彼はどこに立っているのだろう。

 考えかけて、クレアはそっと首を振った。

 今は、まだ。

 自分の積むべきものへ戻る時だ。



 彼女は紙の上に、明日の課題を書き出した。


 紋章学――複合紋章の補助式。

 貴族法――領地管理権の例外規定。

 王国史――英雄庁設立以前の記録制度。

 剣術――守りに入りすぎないこと。


 最後の一行だけ、少し強く書いた。

 守りに入りすぎないこと。

 それは、剣の話だった。けれど、それだけではなかった。


 クレアは窓を閉め、机へ戻る。

 白い朝は、また来る。

 その時、自分が少しでも昨日より整っていられるように。

 彼女はもう一度、羽根ペンを取った。


 積む。

 磨く。

 整える。

 背負う。

 届くために、立つ。


 エルノートの名は、まだ過去ではない。

 そう言える日まで、彼女は今日も、静かに積み続ける。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ