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黒猫の魔導書  作者: 巌沢雪乃
元騎士団長、転生する

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現状の確認

 入浴中のシーンに髪色についての言及を追加しました。

 尿意は生きていれば毎日何度も訪れる。体は洗わねば汚れていく一方だ。

 つまり何が言いたいか。


「むぅ……」


 性別が変わってしまった肉体。いくら自分のものだとしても、見る、触れるといった行為に抵抗感のようなものを感じるのは仕方がないことであろう。

 病的な痩せ方をした四肢や浮き出たあばらは昏睡の名残だ。食事の内容を見るに、この家は貧困に喘いでいるといったわけでもなく、今後の食事によって徐々に脂肪がついていくのだと予想される。

 そんな痩せた体でも女性の体というのは柔らかいものであるらしい。這わせた指の感触が精神をすり減らすが水浴びをしない選択肢はない。


「なんだこの長さは……」


  髪がとにかく長い。腰辺りまで伸びたそれは、元が禿頭であったソニアにとって割と煩わしいものであった。両親の髪は栗色である。にも関わらず、ソニアのそれは黒い。祖父母の髪も栗色であるらしいことから、先祖返りでもしているのではないかと言う結論に至った。

水浴びにおいて経験したことのない手間に戸惑いながらも、全身をしっかりと洗う。自覚がある程度には綺麗好きなのである。


 激しく動いたわけでもなく疲労感を感じながら水浴びを終えたソニアは、両親に挨拶をし就寝した。寝る前に現状について多少考えようとしていたが、体力が落ちているようであっという間に泥のように眠ってしまった。




 翌日の朝、日も昇っていない時間に目を覚ます。

 部屋は相変わらず見慣れぬもので、体に目を落とせば華奢な肉体が視界に映る。


 どうやら夢ではないようだった。


 家には庭があった。街並みを見るにかなり発展している。ところどころに明かりが灯る建物がある。魔石灯(マナランプ)はかなり広く普及したものであるようだ。


 暗い中で未知の土地を歩き回るほど愚かではない。庭から周囲を観察していたソニアだったが、足元に程よい長さの木の棒が落ちているのに気付いた。それを拾い上げ、何度か上段から振り下ろす。

 程よい長さ、と思っていたのだがそれは前の肉体を基準とした判断だったようだ。

 キレもなく、重みに振り回されるその感覚に顔をしかめる。


「鍛えなおし、だろうな」


 溜め息を吐く。

 まずは肉を付けること。今日からの食事はしっかりと食べていかねば、と決意しつつ、まともに振れぬ棒を捨てた。


 庭にはまだ若そうな木が生えている。しかし葉はしっかりと枝を埋め尽くし、真下に立てば星空が遮られる。

 木の下に座り、何度目かもわからない溜め息を吐いた。目を細め、右手を空にかざす。細い指の隙間から見える空はやや白み始めている。


「これからどうなるのだろうか……」


 庭に響くそんな呟きは、誰にも届かず夜空に溶けた。




 空が明るくなる頃にルディアが目を覚ます。その時には居間で過ごしていたため「おはよう」とあいさつを交わした。


「ずいぶん早く起きたわね」


 そう笑うルディアの目元は少し赤い。昏睡から目覚めた娘が記憶喪失だった、そんな事実を実の親が笑って受け入れられるわけがないだろう。

 なんとなく目元の腫れの理由を察してしまったソニアはなんとも言い難い、胸を締め付けられるような感情に襲われた。正確には記憶を失ったわけではなく、別の人物がこの肉体に宿ったようなものだろう。騙しているような罪悪感があるが、今それを打ち明けたところで誰かが幸せになるとは思えない。

 「なんとなく目が覚めました」と、答えながらルディアから目を逸らす。


 しかし、なぜ私はこの肉体で目覚めたのだろう?そして、元々この体で生きていたソニアはどうなったのだろうか?と、ソニアは思った。

 わからないことばかりである。


「おはようルディア、ソニア」

「おはよう、あなた」

「おはようございます」


 朝食の支度ができた頃に、父ゴルドが起きてきた。

 今度は汗臭くない抱擁を受け、ソニアは何とも言えない気持ちになる。対してゴルドは満面の笑みであった。


「今日は休みを取ろうかと思ったんだが、大きな商業団体が来るらしい。さすがに顔を出さないわけにもいかないから、すまんが行ってくる」


 ゴルドは寂し気に眉尻を下げる。それにルディアは微笑んだ。


「衛兵さんは大変ね、でもそんなあなたに私は惚れたのよ。頑張って行ってらっしゃい」

「ルディア……!」


 夫婦間の関係は良好であるようだった。




 父が働きに出た後、ソニアはルディアにお願いをして町を案内してもらうことにした。体力が戻っていないため、あまり遠くに行くことはできないだろうが、少なくとも家の周辺を把握しておけば少しずつ歩く範囲を広げればいい。


 外に出て少し、振り向けば自分が目覚めたその家の全貌が見えた。

 石造りの壁は綺麗に手入れされ、焦茶色の薄い石の板が並べられた屋根も、新品同様とまではいかずともしっかりと手入れが行き届いているようだった。


家から目を離し、ルディアの方を見ると目が合った。


「ふふ、また一緒に散歩ができて嬉しいわ、ソニア」

「……はい、私も嬉しいです」


 一瞬言葉に詰まるも、笑顔で反応ができた。

 ぎこちなかったりしないだろうか。そんな不安はあったが、晴れた空を見つめ始めたルディアのその表情は柔らかく、そこまで心配する必要はないのかも知れないと感じた。


 歩くこと少し。自分が思っているよりも体力がないようだ、とソニアは思った。以前は全身に甲冑を身に付けたまま丸一日歩いてなお、息切れなど起こさなかった。

 しかし今はどうだ。創造主の眼差しが差し込む暑い季節、生地の薄い衣服を身につけ、かなり身軽な状態で歩いているにも関わらず少し息が上がっていた。


 そんなソニアを心配したルディアは「そろそろ帰ろうか?」と聞いてくれたのだが、正直に言うともう少し歩きたい気分であった。

 首を横に振り継続の意思を伝えると、彼女は優しい微笑みを返し、また歩き出した。


 直前までの記憶は死屍累々の悲惨な戦場でのものである。

 文字通り死ぬ気で守ろうとした平和な暮らしが、ソニアの目には映っていた。


 嬉しいような、悲しいような、なんとも言えない感情を抱えて歩いていたところ、不意に離れた場所から声が響く。


「あ!ソニア?ソニアじゃん!大丈夫!?」


 高く若々しいその声の主は、ソニアと年齢がそう変わらないであろう少女であった。

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