第2話 殴り合いの香りはパン屋から①
「食べ物が無い」
冷蔵庫には、カブの葉と生姜の切れ端しか入っていなかった。
足りない。
うら若き乙女の体が、肉を欲している。脂身の多い豚小間肉ともやし、刻み葱を炒め、ニンニクと鶏がらスープのもとで味をつけるのだ。一口頬張ったのちに白米を掻き込めば、そこには至福があるはずだ。
スーパーにでも行こうか。財布のマジックテープをバリバリと剥がすと、中には10円玉と1円玉が一枚ずつ。
足りない。
昨日のマリアさんのバイト代はもう無い。頼るならば唯一の肉親たる兄貴だが、あの守銭奴が貸してくれるはずもない。
労働をしなくてはならない。
「するか」
スマホを取り出し、LINEを開く。
――葵ちゃんおはよーチュッ(笑)今から行ってもいい?
メッセージを送ると、即座に返信があった。
――すぐに来て欲しい。
――どうしたのカナ?オジサンに会いたくなっちゃったの?ナンチャッテ
――すぐに来ること。直ちに、遅滞なく。
何だろう。困りごとだろうか。気にはなりつつも、内心では少し浮かれながら家を出た。昨日の初配信では、ほんの少しだけれども、手ごたえがあったのだ。興奮の残り火は、今も体の奥に残っている。
久しぶりのスマスト。久しぶりの配信。そして重ねた勝利と数字の躍進。
すっかり楽しさを思い出した。格闘ゲームも配信も、やりたくてウズウズしている。それに昨日の160連勝は、ささやかながらインターネットの一部で話題になっていた。対戦相手がツイッターに連勝数が映った画面を張り付けたツイートに「いいね」が3000ほどついていた。
鉄は熱いうちに打った方が良い。このままチャンネルを伸ばしていけるなら、ゆくゆくは収益を見込めるかもしれない。それにマリアさんのお店を宣伝して売り上げに貢献すれば、その都度バイト代を貰えることになっている。
幸いにも今日は土曜日だ。朝から葵の家にお邪魔することにした。玄関を潜るときにはやっぱり緊張したが、トロフィーや賞状に囲まれた部屋には少し慣れてきた。
だが部屋の中は、昨日と全く違う空気だった。いや、芳しい香りが充満している。焼き立てのパンの匂いだ。
「どうしたの、これ」
部屋の真ん中に置かれたテーブルには、見るからにおいしそうなパンの山。一つ一つが紙で包装された、パン屋さんの出来立てパンだ。そしてその前にちょこんと座る女の子。小学校の高学年くらいだろうか。おかっぱ頭が可愛らしい。
「ご近所の弥栄子ちゃんだ」
「おはようございます。佐々木弥栄子です」
葵のを受けてぺこりと頭を下げる弥栄子ちゃんの髪が、さらりと流れる。さらさらの美髪がうらやましい。寝癖でぼさぼさになっている自分の頭をこっそりと手櫛で撫でつけるが、まったく言うことを聞かない。すぐに諦めた。ちぇ。
「ねえねえ、葵ちゃん。海渡さんって、葵ちゃんが言っていたとおりすっごい美人さんね。芸能人みたい」
弥栄子ちゃんが相生の耳元に口を寄せて囁いている。
「え、嬉しい。ま、分かる人にはわかっちゃうよね。俺のすんばらしさが」
「海渡のこと、そんなに褒めていたかな」
そっぽを向く葵を尻目に、弥栄子ちゃんの頭を目いっぱい撫でておいた。
「私、市立みなと小学校の4年生です。葵さんはウチの常連さんで……」
「弥栄子ちゃんの家はパン屋さんなんだ。駅前にある“ベーカリーみちしお”だ、とっても美味しいぞ」
「あ、これは今朝お父さんが焼いたパンです。良ければどうぞ。明太フランスが美味しいですよ」
「いただきます」
腹ペコだったので遠慮せずにテーブルの上のパンに手を伸ばした。パン屋さんの焼き立てパンは、最高にウマい。フランスパン生地は、外がカリカリ、中がもちもちだ。明太バターのしょっぱさが、うま味を倍増させている。
「それで、葵が俺を呼び出したのはどういう事情なのかな」
メロンパンにも手を伸ばす。甘々でしっとり系の生地は、一口頬張るだけで笑みがこぼれる。とっても素敵だ。五臓六腑に染みわたる。
「弥栄子ちゃんの悩み事を解決するために、海渡の力を借りたい」
「ひふぉまず、お話を聞いてみようか」
パンを頬張りながら聞いた話は、何とも現代っ子らしいお悩みだった。
弥栄子ちゃんの趣味の一つに、YouTube視聴がある。ご両親はお店で忙しいので、放課後児童クラブの無い夜や日曜日は、読書とYouTubeで過ごしているのだという。
そしてある日、お勧め欄に表示された一人の配信者に、心を奪われてしまった。きらきらとした姿、優しくも自信に満ちた声、楽しそうにゲームをしたり雑談をしたりしている様子を見てすっかり魅了されたそうだ。
けれどすぐにお母さんに見つかった。保護者としては、全年齢向け有名アニメや健全な教養系動画を見ていて欲しかったのだろう。直ちに視聴禁止令が言い渡された。そればかりか、今ではインターネットの利用も厳しく制限されているそうだ。
曰く「パソコンばかりやっていたら、目も頭も悪くなる。人付き合いも下手になって、一人ぼっちになってしまう」ということらしい。
「ずいぶん平成的常識の持ち主なお母さんだね」
「それとね、その人がやってるゲームの中に、格闘ゲームがあるのもよくないみたいです。格闘ゲームをする人は怖い人が多いって」
「それは正解。格闘ゲームなんて異常者しかやらないし、配信も異常者しかしない。ほら、証拠だよ」
自分を指さして変顔を決めていると、葵が太い眉をぐっと持ち上げた。
「言い過ぎだろう。惚れ惚れするほど格好いい格闘ゲーマーだって、いる。絶対にいる。それに最近はインターネットを嗜むくらいはごく普通のことだ。少し過敏というか、過分な反応に思える」
「それはケースバイケースだよ。弥栄子ちゃんがハマっているのが変なチャンネルや配信者だったら、お母さんの反応も当たり前だと思うよ。少なくとも俺なら、自分の子どもに格闘ゲームプレイヤーなんて見せたくないね」
弥栄子ちゃんがぶんぶんと首を振る。
「ドン様は変な人じゃないですよ。すっごいかっこいんだから!」
弥栄子ちゃんのお気に入りの人は、ドン様というらしい。
確かに見もせずに判断するのは失礼だ。
「それじゃあ俺たちも見てみようか。その人を」




