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9話 鳥籠の恍惚、友の呼び声

 歓声が球場を包み込む。それはすべて自分に向けられたものだ。全身に歓喜に満ちた歓声を浴びてヒロキは、自分が「生きている」ことを実感する。


(これだ……! これだよ……! 俺が求めていたものは、これなんだ!!)


 ずっと満たされなかった心が、まるで砂漠でオアシスを見つけたかのように、幸福に包まれていく。

 スタジアムの熱気、夏の暑さ、汗でユニフォームが身体にまとわりつくベタつきですら、気持ちがいい。

 ダイヤモンドを一周すると、さらに歓声が大きくなる。これで逆転勝利だ。


「ヒロキーーーッ!!!」


 歓声が響き渡るスタジアムに、聞き馴染んだ声が耳に届いた。

 スタンドの応援席に目をやると、幼馴染のカイト、マコト、カンナの姿があった。


(あいつら、応援に来てくれてたのか)


 気恥ずかしかったが嬉しかった。彼らの応援にも応えなければと、三人に向かってガッツポーズを決めた。

 さらにワッと歓声が大きくなった。


「何やってるんだよ!! ヒロキ!!」


 歓声を切り裂くように、カイトの言葉がヒロキに届いた。「何を言ってるんだ?」と訝しげに首を傾げる。


(何って……、野球の試合だろ。今大会中なんだから)


 ヒロキは不思議に思いながら三人を見つめた。何故か三人だけが、この空間から切り離された存在に見えた。

 他の観客は暑さ対策に帽子や日傘、冷却グッズを手にしているのに、彼らはそんなものは持っておらず、手ぶらでいる。

「そんな格好で何を?」という疑問は次の瞬間弾け飛んだ。

 彼らの傍らには、先日の「マヨイガの社」で邂逅かいこうした、稲荷大明神の眷属・カズラが腕を組んで佇んでいた。

 彼を視界に捉えると、次から次へと湯水の如く「現実」を思い出す。


「ヒロキ!! 一緒に帰ろう!!」

「迎えに来たぞ!! ヒロキ!!」

「こっち来い!! ヒロキ!!」


 間違いない。彼らはこの素晴らしい「夢」の中からヒロキを連れ出そうと、ここにやってきたのだ。

 ヒロキは頭を抱えて蹲った。見たくないものに蓋をして、必死に抗い、現実から目を背けた。


「嫌だッ!! 俺は戻らないッ!! ずっとここにいるんだッ!!」


 野球ができない現実、輝いている自分がいない現実。それにはなんの価値もない。

 ヒロキは、歓声が轟くスタジアムの真ん中で、ヒナが見せる甘美な夢にしがみつくのだった。





「ヒロキ……」


 スタジアムの真ん中で蹲るヒロキを目にして、三人は絶句した。ギュッと握り込んだ拳が痛い。


(悔しい……)


 こんなにも壊れてしまうほど、ヒロキが追い詰められていたなんて思いもしなかった。

 いつも自分たちを和ませて、楽しませてくれるヒロキ。こんな姿の彼は見たことがない。

 ここまで苦しんでいたことに気が付かなかった自分たちが情けなくて、悔しい。


「おい、何故あの小僧はあれほどまでに『やきゅう』とかいう、あの玉遊びに執着するのだ? ただ玉を投げて打つだけの遊びではないか」


 ストレートな疑問をハクが投げた。現世うつしよのスポーツに疎い人外には、ヒロキが何に悩み苦しんでいるのかが理解できないようだ。


「……ヒロキは、小学生の頃から野球三昧なんだよ」


 ハクの疑問に答えたのはマコトだ。昔を思い出しながら、悲しげに語り出す。


「あいつの親父さんが無類の野球好きでさ、ヒロキが小学校に上がってから少年野球チームに入れたんだ」

「それで、ヒロキの野球の才能が目覚めて、小三でレギュラー入りしたんだ。こいつは早々に野球チーム辞めたけどな……」

「俺を引き合いに出すなよ……」


 カンナは隣にいるカイトを横目でジロリと睨む。こんな時でも自分をイジるのかと、不満を抱きながら、ヒロキの活躍を懐かしそうに話す。


「……あの頃のヒロキは輝いててさ。小学生だったけど、上級生よりも体格が良くて、バッターボックスに立てば、バンバンホームラン打ってたんだ」

「ヒーローだったよな。周りの大人たちは皆ヒロキに期待してて、『将来は野球選手だ!』『甲子園優勝だ!』って、皆で応援してたし」

「……けど、中学で野球部に入ったら、一年で辞っちゃったんだよ……」


 顔を伏せながら三人はヒロキの豹変を悲しげに話し終えた。


「なおさら分からんぞ。それで何故あそこまで思い詰めるのだ?」


 今のヒロキは本当のヒロキじゃない。今の非行には理由があるんだ、と主張したいのだが、上手く説明が出来なかった。

 案の定、ハクには伝わらず、さらに首を傾げるばかりで理解を得られない。


「お前は主さまのいる高天原たかまがはらにずっといるから、この時代の現世うつしよについてはよく知らないだろ」

「何を言うか!! アタイが現世うつしよのことを何も知らないなど……!!」

「黙れ」


 反論するハクを、カズラは問答無用でピシャリと黙らせた。なんだかんだと、ハクはカズラに敵わないようだ。


「ヒロキの心に巣食う『澱み』は、幼い頃から人生を野球に費やしたことに原因がある。昔のように『生きる』ということは、生命を維持させるためだけのものじゃなくなっているのだ」


 なおさら分からないと、ハクは肩をすくめて首を横に振る動作をした。

 そんな態度のハクに構うことなくカズラは続ける。


「今の現世うつしよでは、人間にとって食べて寝る以外に『生きる』ことに必要なものがある。生きていると実感できる何か、もしくは生きていることへの喜びを感じられるもの。ひとえに『生き甲斐』と表現されるものだ。……マコトがオカルトに熱中すること。カイトがアニメや漫画に夢中になること。カンナがヒナの親友であり続けたいと想うこと。それら全てが当てはまるんだ。ヒロキにとっては野球がそれだった。文字通り、幼少期からずっと野球に時間を割いて、人生のすべてを捧げてきた……。それを失ったヒロキを、こちらに連れ戻すのは容易ではないぞ」


 カズラの核心をついた言葉が、熱気溢れるスタンドに重く響く。

 ヒロキの鬱屈とした心とは裏腹に、幻想で作られたスタジアムは、未だに歓声に包まれている。

 五人の間には、沈黙が流れる。まるで、ここだけが別の空間に切り離されているかのようだ。


「……俺、なんとなく分かるんだ。ヒロキがレギュラーになれなかった理由……」


 絞り出すような声で、沈黙を破ったのはマコトだった。眼鏡の奥の目を伏せ、震える声で、真相を語り出した。

 一同は皆、マコトの語る内容に耳を傾けた。


「ヒロキは、授業の成績があまり良くなかっただろ。たぶんそのせい……」

「は? 何で? あんなに野球の才能あるのに、授業の成績悪いだけでレギュラーになれないなんてことあるのか!?」


 信じられないというように、カイトはマコトに詰め寄った。それにマコトは冷静に話を続ける。


「前にさ、俺がサッカーのレギュラーに選ばれた時、母さん凄く先生たちにキレたんだ。その時、先生たちが言ってたんだ。『成績が良くないと、レギュラーには選ばれない』って……」


 その言葉に、三人は一瞬固まった。


「……え?」

「どういうこと?」

「俺たちの中学のスローガンって『文武両道』だろ? 運動神経がいいとか、センスがあるってこと以外に、授業の成績も良くないと、レギュラーにはなれないんだよ……」

「そんな……」


 子供が知らない、大人の理不尽によってヒロキが追いやられてしまったのだと、初めて明かされたのだった。





 ケチのつき始めは、中学で初めての夏の大会だった。

 野球部は総勢七十人を超える大所帯だ。このなかからレギュラーになるのは椅子取りゲームのような争奪戦になるだろう。


(ま、俺なら余裕だわ)


 経験者だったこともあって、初心者を含め、一年生をまとめていた。練習だって小学生の頃以上に熱を入れた。

 一年の時の、初めての夏の大会で、初心者の部員が控えに選ばれるまでは……。


(何で……? どうして……?)


 レギュラーは無理でも、控えは真っ先に自分が選ばれる。そう思っていたのに、何故か野球を始めてからたった三ヶ月程度の初心者に、その席を奪われてしまった。

 それ以降、どれだけ努力しても試合に出られない日々が続いた。逆に同学年の下手な部員は次々と試合に出て活躍していく。それが心底許せなかった。


「どうして俺を試合に出してくれないんすか!?」


 とうとう我慢できずに、顧問に直接自分が試合に出られない理由を聞いた。

 何が足らないのだろう。この指導者は何を求めているんだろう。自分に今必要なものは何だろう。

 そんなことを考えながら、顧問にずっと心に巣食っていた疑問をぶつけた。


「お前、自分が野球上手いと思ってるのか?」

「は……?」


 思いもしなかった回答が返ってきた。頭上に隕石が落ちてきたような、そんな衝撃に襲われた。

 顧問は心底呆れたというような大きなため息をつくと、酷く横柄な態度でヒロキに向き合った。


「だからだよ!! だからお前はダメなんだ!! お前みたいな身勝手な奴はな、グラウンドに立つ資格はないんだよ!! 分かったらボール拾いしてろ!!」


 この時、魂と肉体が引きちぎられたのかと思うくらい、痛かった。

 自分が信じていたものは、氷の上にあるようなもので、酷く脆いものだった。

 この時を境に、野球をやる気がなくなった。

 まだ空気が凍てつく二月のことだった。

 それから部活をサボるようになって、二年に進級した時、クラス替えで仲良くなった竹本に誘われるまま、柔道部に入部した。

 でも、新しいことを始めたからといって、野球を辞めたことへの喪失感と無力感が消えるわけじゃない。柔道を覚えて、相手をいくら力いっぱい投げ飛ばしても、その鬱憤は消えなかった。

 有り余る力の矛先を選び倦ねている頃、竹本が色んな遊びに誘ってくれた。

 人に言えないような悪い遊びだ。

 最初は後ろめたさがあったけど、時とともにそれは薄まって、『遊び』が日常の一部になった。

 それから、野球を辞めたという現実が霞んで見えなくなった。その過去がなかったことになったようで、心地よかった。


『ヒロキーーー!!』


 心地良いものに包まれていると、また、カイトの声が聞こえた。


『返事しろーーー!!』

『皆で帰ろうーーー!!』


 カイトだけではない。マコトとカンナの声もする。


(うるさいな……。俺のことはほっといてくれよ)


 投げやりに耳を塞ぐ。これ以上彼らの声を聞いていると、あの現実がみるみる蘇ってくるから嫌だ。


『野球なら高校でまたやればいいだろぉ!!』

『お母さん心配してるよ!!』

『そんなところにいつまでもいんなよ!!』


(うるさい!! うるさい!! うるさい!! ほっとけよ!!)


 声が聞こえぬよう、耳を力強く掴んで塞ぐ。だが、それでも幼馴染たちの声が絶えることはない。


『お前までいなくなるなよぉ!!』

『ヒロキがいなきゃ、淋しいよぉ!!』

『俺たちを置いてくなよ!!』


 聞こえないように、さらにヒロキは耳を塞ぐ。


『ヒロキのこと!! 誰も否定しないし、もうさせないから!! ヒロキがいなくなるのは、絶対嫌だ!! だから……』


『『『戻って来いヒロキーーー!!』』』


 その言葉が、耳に届く。

 この時、初めて、ヒロキは顔を上げることが出来た。

 スタジアムは消えていて、真っ白な霧が立ち込めていた。

 服装もユニフォームから元々着ていた黒いTシャツと短パンに変わっている。


「お前ら……」


 呟いて、三人の元に駆け寄ろうとした、その時──。


『ダメ……、ヒロキくん……』


 耳元で、幼少期に死んだ幼馴染のヒナの声がした。


『約束した。私の代わりに死んでくれるって……。だから、離さないよ』


 死者の怨念が、ヒロキに絡みついた。

次回「マヨイガの社・再顕編」最終話

今夜19時更新です。

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