閑話 その後の美川と石の行方
美川は、神主の言いつけ通りに自宅の洗面所で数珠を洗っていた。神主に勧められた通り、リサイクルショップに買い取ってもらおうと考えたのだ。
単に、水道水でササッと洗い流すだけのつもりだった。しかし、よく見てみると、石の隙間にホコリや糸くずなどのゴミが絡みついていて、思いのほか掃除に手こずっていた。
「アユム、まだやってるの?」
学校はまだ夏休み中で、この日は塾も休みだった。朝から始めた作業だったが、こびりついたような汚れがなかなか落ちず、美川は苦戦していた。背後から覗き込んできた母が、手元のスマホ画面を見ながら声を上げる。
「あらヤダ。ネットで調べてみたら、数珠って水洗い厳禁だって」
「え、嘘ッ!?」
美川は驚いて、母の手にあるスマホを慌てて覗き込んだ。
「うわ……、本当じゃん。水に濡らすと中の紐が痛んだりするって書いてある……」
「あの神主さん、数珠の正しい扱い方を知らなかったのかしらねえ?」
「もしかして、パワーストーンの洗い方を教えてくれたのかも? これ、数珠だけど玉は石だし……。どうしよう母さん、もうだいぶゴシゴシ洗っちゃったよ」
「まあ……、別にいいんじゃない? 今まで一度も洗ったことなかったんだし、一回くらいなら」
「……それもそうか」
完璧主義なところのある息子の生真面目さに半ば呆れながら、母はフッと優しく笑った。
もうやってしまったことは仕方がない。美川は蛇口をひねって水を止めると、乾いたタオルで数珠の水気を丁寧に拭き取り始めた。
*
「こちら、今回の買取金額になります」
「え……」
洗って乾かした数珠を手に、美川は母と一緒に近所のリサイクルショップに足を運んでいた。
査定に十分ほどかかると言われ、店内の商品をのんびり眺めていたのだが、終了を告げるアナウンスが流れてカウンターへ向かった美川は、店員から告げられた金額に文字通り絶句した。その買取金額は、なんと……。
「じゅうえん!?」
釣り銭トレイにぽつんと置かれたのは、一枚の銅色の硬貨。即ち、十円玉一枚である。
「十円て……!!」
「アハハハハ!!」
十円玉を受け取り、リサイクルショップを後にした二人は、母が運転する車の中で大爆笑した。美川は手の中の十円玉を見つめながら、お腹を抱えて笑い転げている。
「羽場先生、これ買うのに五十万以上使ったって言ってたんだよ!? それが、たったの十円……! あーーははははッ!! おっかしすぎる!!」
「ぐふふ……っ、アユム、お母さん運転中なの……くくく……。あんまり笑わせないで……、運転手ミスっちゃう……」
ハンドルを握る母に忠告されながらも、美川自身も笑いを堪えきれずに何度も吹き出した。
母の言う通り、羽場が五十万以上も費やして崇拝していたパワーストーンは、現実の社会では端金同然の価値しかなかったのだ。その事実が、滑稽で、おかしくて仕方がなかった。
「でも、あの神主さんの言う通りにして正解だったのかな?」
「まあ、引き取りの手数料をふんだくられた人もいるみたいだし、それよりはマシじゃない?」
美術部部長の女子生徒は、羽場にかなり気に入られていた。その分、美川よりも多くのパワーストーンを買い与えられていたらしい。
彼女の保護者が処分に困って販売店に引き取りを頼んだところ、高額な手数料を請求されたという。その販売店にも一昨日あたりに警察の捜査が入り、店長が逮捕されたばかりだ。
(そういえば……なんで部長は、あんなに羽場先生に気に入られていたんだろう?)
羽場が目の敵にして攻撃するのは、いつも最高学年の三年生だった。部長も同じ三年生のはずなのに、彼女だけは例外的に優遇されていた。
「どうしてだろう……?」
「何が?」
つい思ったことが口に出てしまっていたようで、助手席の美川の呟きに母が反応した。
「あ……いや、部長はどうして羽場先生にあんなに気に入られていたのかなって、ちょっと気になっちゃって」
「あー、それねえ……」
母はハンドルを時計回りに回し、車を右折させた。もうじき、自宅に到着する。
母は少し言いにくそうに「ここだけの話よ」と美川に釘を刺してから、静かに語り出した。
「実はあの子、家族関係で随分悩んでいたみたいなのよね。ご両親がとても厳しい人たちらしくて、ずっと家でストレスを溜め込んでいたのよ。そんな時に、学校で羽場先生が彼女の絵をものすごく褒めたんですって。それ以来、彼女は羽場先生の言うことなら何でも聞くようになっちゃったらしいわよ」
「ふーん……」
そんな裏事情、知ったところで同情する気にはなれなかった。彼女が盲信して羽場のイエスマンになったせいで、自分たちは美術部で酷い目に遭ったのだから。
「よくそんなこと聞き出せたね、母さん」
他人事として、とりあえずそう尋ねてみる。
「学校で緊急保護者説明会があった時にね、その部長の親御さんが、こっちが聞きもしないのにベラベラと自分から話し出したのよ。自分たちだって被害者だ、騙されていたんだって主張したかったんでしょうね」
「ふーん……」
「何よ、自分から聞いておいて、さっきから全然興味なさそうな反応しちゃって」
「いや……。なんで自分があんな目に遭わなきゃいけなかったのかなって思っただけ。でも、聞いてみたら全然共感できないや」
「当たり前じゃない。相手側の都合なんて、あんたには何の関係もないんだから。気にするだけ時間の無駄よ」
美川の母は、基本的にとてもドライな人だ。それがたまに美川の心に痼を残すこともあるが、こういう時には、その冷徹さがむしろ胸の痼を綺麗に削ぎ落としてくれる。
「お願い」という名目で学校を事実上脅し、美術部の問題を一発で解決に導いたのもこの母だ。
美川は、この少し苛烈で、けれど絶対に自分を守ってくれる母のことが、決して嫌いではなかった。
それにしても───。
「学校に、なんて言って動かしたんだろう……?」
それだけが、美川の母に関する最大の謎だった。
*
「あなたですね? 美川という子に、ここへ来るよう吹き込んだのは……」
ここは稲荷神社の社務所だ。卓袱台を挟んで、神主の一ノ瀬ワタルは正面に座って茶を啜っている相手に文句を垂れた。
「ここに誘導すれば、奴の手がかりが手に入ると思ったんだよ」
湯呑み茶碗を卓の上に置き、派手にゲップをしたのは、カラスのように黒く艶のある髪を揺らす白衣姿のカズラだ。ついでに「人と関わるのも面倒だし」と彼は付け加えた。
一ノ瀬は下品だなあ、と内心で眉をひそめながら話を続けた。
「奴って……九重真理会の、あの会長のことですか?」
「そう。今は天上顕聖という名前を名乗っているらしい」
「……それはまた、なんとも胡散臭い名前ですね」
呆れたように言いながら、一ノ瀬は自身の湯呑みに口をつけた。
「そういえば、あの店を燃やすとか仰っていましたが、本当にやったんですか?」
「……燃やし忘れた」
「それはよかった」
「何だと?」
「放火となると、後々色々と面倒ですからね。警察も動いていますし……」
また一口、一ノ瀬は湯呑みに口を付けた。
カズラは苦々しげに一ノ瀬を睨みつける。
「いいものか。僕はこれで、また一つ『償う』チャンスを失ったんだぞ」
「罰といっても、普段は随分と好き放題されているじゃないですか」
一ノ瀬から見れば、カズラはまさに自由奔放を絵に描いたような存在だ。神の眷属でありながら、ホイホイと現世に現れては、人を化かして楽しむ、たちの悪い狐なのだから。
「……そうも言ってられんよ。僕の背負う罪は、二つあるんだ」
一つは、八年前にヒナという少女を死なせてしまった罪のことだろう。だが、二つ目の罪について、一ノ瀬は詳しく知らない。
それは、一ノ瀬が生まれる遥か太古、歴史の闇に埋もれた古い話だ。
「ワタル。神罰というのは確かに存在する。人間は言わずもがな、神の使いが罪を犯せば、その罰は人よりも何倍も重い……。お陰で僕は、主さま方のいる世界──彼岸より向こう側には、足を踏み入れることができないんだ」
「……よく存じていますよ」
そこまで分かっているのなら、なぜこうも頻繁に人を化かすのか。一ノ瀬はただただ、呆れ返るしかなかった。
「そういえばあの数珠、ちゃんと清めるように言ったか?」
「当然です。ただ、美川君は非科学的なものを信じないタイプの子でしたので、水洗いしてリサイクルショップに買い取ってもらうようにと、助言しましたよ」
「あんなもんを売るというのか?」
数珠は濁りきっていた。あのまま何もせず他人の手に渡るのは避けたい。通常なら浄化するのがいいのだが、彼が手にしていてはいくら浄化しても濁ってしまう。それでは本末転倒というもの。
「正しく管理できる人間のほうが、数珠も幸せでしょう」
相応しい持ち主に出会うことを願うしかない。
「そういえばカイトたち、羽場とかいう教師の愚行がバレる瞬間を動画で撮影していたらしい。わざわざメッセージアプリで送ってきたぞ」
器用に現代技術の結晶であるスマートフォンを操作して、カズラは一ノ瀬に動画を見せた。
「それ、撮影してどうするつもりだったのだろうか……」
「知らん」
神主は後で、カイトたちにインターネットだけには拡散するなと忠告する羽目になった。
次回新章「学校の怪異編」開幕です。8月12日に更新します。
1話 朝7時更新。
2話 夜19時更新。




