6話 勇気の排気、引き出しの秘密
「お前ら、夏休みだってのにわざわざ勉強しに行くのか? 変態か? 実はドMなのか?」
カズラと別れた後、マコトと美川は塾へ向かうべく学校を後にした。途中まで一緒だったカイトからは、「信じられない」と言わんばかりの表情でドン引きされている。
「問題集が真っ白なやつに言われたくない」
「真山君、問題集の内容から小テストが出るから、少しはやった方がいいよ」
二人に手痛い現実を突きつけられ、カイトは「聞きたくない!」と耳を塞いだ。
「っていうか、双子のカンナちゃんは成績いいのに、お前はなんでそんなに勉強できないんだよ。頭の出来は一緒じゃねーのか?」
「うるせー! 双子だからって何もかも一緒にすんな!!」
「カンナって……、あの、背の低い女の子の?」
「美川、それ絶対カンナの前で言うなよ!」
「そうだ! 禁句だ、禁句!」
「う、うん……。分かった……」
二人の迫力に押されて美川は頷いたが、内心では「小さくて可愛いと思うんだけどな」と考えていた。
「いいか! 俺は! 絶対! 勉強なんかしないからな!!」
わざわざ捨て台詞を吐き、「チキショー!!」と叫びながらカイトは走り去って行った。
「……何の宣言だ、ありゃ」
マコトは呆れたようにその背中を見送り、美川と共に塾を目指して歩き出した。
「真山君は双子なの?」
「ああ。双子の姉がいるよ。背は低いけどカイトによく似てる。……頭の出来は、あいつの言う通り全然違うけどな」
「へえ……。阿久津君は? 兄弟はいるの?」
「高校生の兄貴が一人いるよ」
「いいね、お兄さん。僕は長男だから、下の子たちのために色々我慢しなきゃならないことも多くて……」
「家でも学校でもってなると、そりゃしんどいな。……うちの兄貴は中学まで成績が良かったんだ。でも、高校に行ったらレベルが違いすぎて、授業についていけなくなっちまったんだよ。それ以来、親は俺に期待しまくってて毎日うるさいんだ。サッカーの夏の大会も、一回戦負けして帰ってきたら、母さんは泣いて喜んでたよ」
「……それは、酷いね」
「まあ、慣れちゃったよ。早く受験が終わって、楽になりたいよな」
「そうだね」
ようやく塾の看板が見えてきた。これなら、今日は遅刻せずに済みそうだ。
だが、その入り口に立ちふさがる不穏な影があった。
「なんだよ、ニヤニヤ笑いやがって。阿久津!」
「あ、お前……!」
二人の前に立ちはだかったのは、マコトが所属していたサッカー部の元チームメイトだった。
「いいご身分だな、呑気なこって……。お前のせいで試合に負けたっていうのによ!!」
「……どいてくれ。これから塾なんだ」
「ハッ! 試合に負けたら、今度は勉強か? いい子ぶってんじゃねえよ!!」
言い返す言葉が見つからず、マコトは唇を噛んで黙り込む。隣の美川もどうすればいいか分からず、険悪な二人を交互に見つめることしかできない。
「テメエのこと、ぜってぇ許さねえからな」
元チームメイトは吐き捨てるように言い残すと、わざとらしくマコトの肩にぶつかりながら、去って行った。
辺りに重苦しい沈黙が降りる。何とも言えない気まずさに支配され、それ以降、マコトと美川の間に会話が戻ることはなかった。
*
塾が終わり、美川は帰宅した。
「ただいま」
「おかえり。今日はちゃんと遅刻しないで塾へ行ったんでしょうね」
「行ったよ……。友達が、迎えに来てくれたから」
「そう? ならいいけど……。最近のあなた、少しおかしいもの」
「え……?」
「だって、あんなアクセサリーを身に着けるようになって。お風呂の時までずっと外さないなんて、やっぱり変よ」
「あ……、これは……」
左手首の数珠に触れ、美川は言葉を濁した。話してもいいのだろうか、と迷いがよぎる。俯いて沈黙してしまった息子に、母親は不審げに問いかけた。
「なによ、どうしたの?」
『溜め込みすぎるとさ、マジでしんどいんだよ。たまには排気しとかないと、いつか破裂しちまうぜ?』
脳裏に、カイトの屈託のない言葉が再生された。美川は意を決して、喉まで出かかった勇気を振り絞った。
「じ、実はね……」
母親は、茶化すことなく真剣に美川の告白に耳を傾けてくれた。
「はあ……」
一通り話し終えると、母親は深く大きなため息をついた。
「どうりで最近、様子がおかしいと思ったわ。家に帰って宿題を済ませたら、時間を忘れてずっと絵を描いているような子だったのに、最近はそれもなかったから……」
母親はもう一度、呆れたように息を吐き出す。
「それで、羽場先生がその数珠を渡してきたっていうの?」
「うん……。家でもずっと着けていろって……」
「呆れたわ。一体何を考えているのかしら」
てっきり母親から叱られると思っていた美川は、身を硬くして縮こまった。
「羽場先生ったら、本当に……」
「え? 怒ってるの、僕のことじゃないの?」
「どうして? あなたは何も悪くないじゃない」
当然のこととして母親は言い切った。その言葉に触れた瞬間、ずっと胸の奥で燻っていた重い澱みが、一気に霧散していくのを感じた。
「後のことはお母さんに任せなさい。あなたは先に、ごはんを食べてしまいなさい」
「……うん!」
「その前に、制服を着替えてきなさいね」
「はーい!」
久しぶりに明るい声を取り戻した美川は、弾むような足取りで自室へと向かった。
軽い足取りで自室に入った美川は、手早く制服を脱ぎ始めた。クローゼットから部屋着を取り出すと、脱いだ制服は空いているハンガーにかけ、丁寧に元の場所へと仕舞う。
Tシャツ姿になった美川は、ふと左手首の数珠に視線を落とした。
「そうだ。もう、家で着けてる必要なんてないんだ」
そう呟くと、迷うことなく数珠を取り外した。いつも置いている机の上の定位置へと、それを置く。
身軽になった腕を一度さすり、彼は夕食を取るために再び部屋を後にした。
主のいなくなった部屋で、机に残された数珠は、依然として酷く濁ったままだった。
*
「ただいま……」
「おかえりなさい、マコト」
マコトが帰宅すると、リビングから上機嫌な母が出迎えた。マコトが夏の大会を終えて部活を引退したことで、このところ母はずっと機嫌がいい。
そこへ、リビングの奥から兄が姿を現した。チラリとマコトを一瞥したが、何も言わずに自室のある二階へと上がっていく。
「すぐに夕食にするわね!」
「うん……」
兄がすぐ後ろを通り過ぎたことすら視界に入っていないかのように、母はマコトにだけ眩しいほどの微笑みを向ける。
(いや、気づいていて、わざと無視してるんだ……)
兄は地元でトップクラスの進学校に進学した。だが、中学までとは周囲のレベルが違いすぎて、今では赤点ばかりを連発している。
だから母は、兄に期待するのをすっぱりと諦め、代わりに次男であるマコトへ熱心に英才教育を施すようになったのだ。
(サッカー部のレギュラーになったって報告した時も、スゲー怒ってたな……)
中学では部活動への入部が必須だった。必ずどこかの部活に所属しなければならなかったのだが、「成績が落ちる」という理由で母は猛反対した。
特に、三年生になってマコトがサッカー部のレギュラーを勝ち取ったと話した時は、凄まじい剣幕で学校に抗議へ乗り込んでいってしまったほどだ。
そんな母を大人しくさせるため、当時の教師たちは、母にこんな風に入れ知恵をしたらしい。
『お母さん、我が校は文武両道をスローガンに掲げています。どれほど運動センスがあっても、成績優秀者でなければレギュラーには選ばれない仕組みなんですよ』
それを知った母は、上機嫌になりマコトへの英才教育にさらに拍車をかけた。
それはもう、恐ろしいほどの執念で……。
「マコト。夏休みの宿題はどう? 順調に進んでる?」
「うん、まあ……。大体は、予定通り」
「本当に大丈夫なの? 遅れてない?」
「大丈夫だよ……」
「そう? ならいいけれど。ちゃんとお兄ちゃんが通っている高校の、A判定は必ずキープするのよ」
ここでもまた、兄を引き合いに出してプレッシャーをかけてくる。さすがにマコトの胸の奥で、カチンと硬い音が響いた。
──溜め込みすぎるとさ、マジでしんどいんだよ。たまには排気しとかないと、いつか破裂しちまうぜ?
(そういえば、カイトの奴、美川にそんなこと言ってたな……)
あの時、カイトが美川に投げかけたぶっきらぼうな優しさが、今、マコトの背中を強く押した。
「母さん。ちょっと、お願いがあるんだけど」
「何? 何でも言ってみなさい」
要望を聞き入れてもらえると思ったのか、嬉しそうに身を乗り出す母。そんな母をまっすぐ見つめ返し、マコトは静かに宣言した。
「高校までは、母さんが望むところへ行くよ。……でも、そこから先は、俺の好きにさせてもらうから」
「えっ!?」
「じゃあ、そういうことだから」
それだけ言い終えると、マコトはスタスタと廊下を歩き、二階の自分の部屋へと向かった。背後から階段を突き抜けて母の叫び声が追ってきたが、完全に無視を決め込んだ。
自分の部屋の前に着くと、隣の自室から兄がひょっこり顔を覗かせていた。
「へえ……。言うようになったな、お前」
「まあね!」
(これでいいんだよな、カイト)
マコトは、今までにないほど清々しい表情で自室の窓を開けた。
見上げる夜空には、すでに幾千の星が静かに輝いていた。
*
その日の夜、カズラは白狐の姿のまま、街中を疾走していた。この姿のカズラを目視できる人間は、ごく限られている。
建物の隙間、夜でもなお活動している人々の間を駆け抜けて、目的の中学校へと向かっていく。
やがて辿り着くと、閉ざされた校門をすり抜け、真っ直ぐに昇降口へ向かった。
玄関は警備システムが起動して固く閉ざされていたが、実体のない白狐の姿のカズラには意味をなさない。難なくシステムを掻い潜り、ひっそりとした校舎の中へと侵入する。
カズラの目的地は、四階の美術室だ。唯一そこへ繋がる階段を、迷うことなく駆け上がっていく。
人の姿なら造作もない段差だが、獣の姿のカズラにとってはなかなかの重労働だった。
「人間の作ったものの分際で、この僕をここまで追い詰めるとは……やりおる」
息を切らせてようやく一つの階を登り切るが、美術室は最上階だ。踊り場が現れるたびに続く階段に、カズラは本気で殺意を抱き始めていた。
やっとの思いで辿り着いた四階の廊下で、一度ぐったりと寝そべる。
「おのれ……人め……」
校舎への呪詛を吐いてから、カズラはのっそりと起き上がった。第一美術室の引き戸をすり抜け、中へと入る。そして、真っ直ぐに『美術準備室』という表札のある扉へ向かった。
案の定、扉には鍵が掛かっていたが、鼻で笑ってそのまま透過した。
準備室の中に入ると、カズラはカイトたちの前で見せている白衣姿の人型に戻る。
室内には二つの教職員用デスクが並んでいた。一つは羽場のもの。もう一つは、もう一人の美術教師のものだ。
カズラは、端に名前が書かれているのを確認して羽場のデスクを特定した。指先に小さな青い炎を灯して光源にすると、片端から引き出しを開けて中を物色し始める。
その中で一つだけ、鍵がかかっていて開かない引き出しがあった。
周囲に鍵がないか探したものの、見つかる気配はない。カズラは「仕方ない」と術を使い、無理やり鍵を開錠した。
奥の方まで物色し、ようやく目的のものを発見する。
引き出しの一番下、荷物に隠れるようにしてひっそりと置かれていたそれを取り出した。
それは、A5サイズほどの、茶色く染められた古い和紙だった。
「当たりか……」
忌々しげに睨みつけた和紙には、横に五本、縦に四本の格子状の模様が印刷されていた。
いわゆる『九字』の紋様だが、所々で線が途切れている不完全なものだ。
「時代が移り変わっても、まだこれを見ることになるとはな……」
独りごちて、カズラは懐からスマホを取り出し、パシャリと一枚その写真を撮影した。
「……あ、明かりもスマホを使えばよかったな」
その小さな失態を知る者は、静まり返った準備室の中に一人もいなかった。
次回は8月10日(月)19時更新です。




