3話 左手首の呪縛、死角の美術室
翌朝、美川は自宅のベッドの上で目覚めた。
時刻は朝六時。しっかり八時間眠ったはずなのに、一睡もしていないのではないかと思うほど、身体の疲労が全く取れていなかった。
夏休み中であっても、午前中は部活がある。運動部は大会が終われば三年生は引退となり、既に部活には行かず受験勉強に精を出している生徒も多い。だが、文化部は十月まで引退できない。美術部である美川は、まだ「引退」という解放を許されていなかった。
美川は、絵が好きだ。
それは今よりもっと小さな子供の頃からで、筆を握りながら育った美川にとって、絵を描くということは「生きる」ことと同義だった。
だが、今はその「生きること」そのものが、嫌いになりそうになっていた。
「今日も、部活か……」
重いため息を吐きながら、美川はのろのろと身支度を始めるのだった。
机の上に置いてある数珠を手に取ると、吸い付くように左手首へと着ける。そうして朝食を取るために、重い足取りで部屋を出た。
*
マコトはカイトの自宅の前に立っていた。
じりじりと照りつける夏の日差しを浴びて、眼鏡の黒いフレームが彼の顔に濃い影を落とす。毎年、夏休みが終わる頃になると、マコトの顔にはきまって眼鏡の形をした日焼け跡が残るのだった。
迷うことなくインターホンを押す。暫くして、パタパタという足音が聞こえた後、玄関の扉が開いた。
「あら、マコト君じゃない」
出迎えたのはカイトの母親だ。
「おはようございます。カイト、起きてますか?」
「今起きたところよ。これから朝食なの」
時刻は朝八時。夏休み中の起床時刻にしては早い方かもしれない。
「じゃあ、少し外で待ってます」
「ごめんね。なるべく早く準備させるから」
「いえ、特に約束してないのに押しかけたのは俺なので。……どうせあいつ、宿題全然やってないだろうと思ったんで」
マコトの一言に、カイトの母は笑みを浮かべたまま、ピクピクと頬を引き攣らせた。
「今日は学校の図書館が空いている日なので、誘いに来たんです。読書感想文、まだ終わってないだろうし」
「マコト君が友達で、おばさんは本当に嬉しいわ……」
カイトの母は心の底からそう漏らした。無意識に目尻に涙を浮かべていたのは、言うまでもない。
「カイト、お前マジで勉強やってねーのな……」
マコトが迎えに来てから、カイトが姿を現すまで三十分ほどかかった。眠気眼でウトウトとしている親友に向かって、マコトの小言は止まらない。
学校に向かう道中、カイトはマコトの小言を聞き続けた。
「おばさん泣いてたぞ。一体どんだけ勉強しねーんだよ……」
「だって勉強嫌いだし」
「だからってサボるなよ。癖になるぞ」
「あーあーあー、聞きたくない聞きたくない!」
カイトは声を上げ、耳を塞いでマコトの正論を強引に遮る。
「勉強好きの変態の意見なんざ聞かねーよ」
「別に俺だって、勉強が好きなわけじゃねーよ」
「そうなの!?」
「うちは母さんが成績にうるさいからやってるだけ。部活だってそこまでしたいわけじゃない。中学が部活必須でなきゃ、最初からやってないよ」
自分の母親も、朝から晩まで部活動に明け暮れる学校の方針には疑問を抱いているようだと、マコトは付け加えた。
「じゃあ、なんでやるんだよ。嫌なら辞めればいいじゃん」
「やりたくないからって、それが『やらない理由』にはならないだろ?」
(そうだ。こいつ、クソが付くほど真面目なんだった……)
やりたくないことには全身で拒否反応を示してしまうカイトにとって、マコトのその「義務感」は、到底理解しがたいものだった。
「それに、今だけだし……」
「え……、それってどういう……?」
「だってさ……」
言いかけると、マコトはその先を飲み込んだ。急に言葉を失い、ただ一点を凝視している。
「なに?」
「おい、あれ……」
酷く強張った表情で、マコトがカイトの背後を指差す。カイトも釣られて後ろを振り返り、驚きのあまり声が凍りついた。
そこには、制服姿のヒナが立っていた。
*
「君たち、何故ここにいる……?」
学校に着いたカイトとマコトの目の前に、十五歳のヒナがいた。
ヒナの愛らしい顔が、心底嫌そうに歪められた。唇から零れるのは、聞き馴染んだ彼女の声ではなく、稲荷大明神の眷属・カズラの質感を帯びたものだ。男とも女ともつかない中性的な響きが、ヒナの形のいい唇から発せられる。
「俺たちはここの生徒だ!」
「勉強しに来たんだよ。お前こそ、なんでここにいんだよ!」
矢継ぎ早に投げかけられる質問に、カズラは面倒そうにため息をついた。
「僕だって、この学校に『ヒナ』として通っていることになっているんだぞ。カンナの中においてだけだがな……」
カイトの双子の姉・カンナは、今も「ヒナが生きている夢」を見続けている。そのことに複雑な思いを抱えるカイトにとって、現実の風景の中にヒナの姿をしたカズラが混じっているのは、極力避けたい事態だった。
何より先日、神主からカズラについて忠告を受けたばかりだ。これ以上、深く関わるわけにはいかない。
「よって、僕がここにいることに何の不思議もない」
言い張るカズラの脇を、カイトたちはスッと通り過ぎようとした。しかし、即座にカズラの手が伸び、二人の肩を掴んで静止させた。
「待て、どこへ行く」
「関係ねえだろ……」
「勉強だって言ったろ……」
揃って口答えをするが、カズラは動じない。
「そうか。ならば、それは後にしろ」
「はっ!?」
「なんでだよ!!」
「僕の質問に答えてもらう」
「だから、なんで……」
「この学校で、今、何が起こっている?」
唐突な問いに、二人は首を傾げるしかなかった。
学校で起きていることなど、「夏休み」以外に何も思い浮かばない。
「マコト。君はおかしなものに憑かれていたな。あれを持っていたのは、この学校の生徒なのだろう?」
「え……、なんで知って……」
「いいから答えろ」
「……そうだけど」
「そいつは、何故数珠なんぞ持っていた?」
「し、知らねーよ。別によくないか? 本人の自由だろ」
意図の読めない質問ばかりを投げてくるカズラに、カイトが堪らずツッコミを入れた。
「忘れたのか。この学校は、アクセサリーの類を身につけることを禁止しているはずだろう」
「だからなんだよ。無視してる奴なんていっぱいいるし……」
「いや、おかしい」
「え?」
「だって、塾は部活終わりにあるんだぜ? 学校から直で行ってるのに、わざわざ校則違反のアクセサリーなんて着けるか?」
「終わってから着けたんじゃねーの?」
「あーー! その線があったか」
「そのことだが……。先ほどから生徒たちを観察していたが、何人か数珠を着けて登校している者がいる。あれを見ろ」
カズラが顎で示した先には、眼鏡をかけた大人しそうなお提げの女子生徒がいた。彼女の左手首にも、複数の数珠が重なっている。そして、その石たちはどれも酷く濁っていた。
その後も一人、また一人と、濁った数珠を纏った生徒が校門を潜っていく。
「本当だ……。なんで?」
「知らん。それを調べている」
カズラは殺気とも言える鋭い眼光を、校舎へと向けていた。その迫力に気圧されながらも、カイトがふと気づいたように口を開いた。
「あいつら、美術部の奴らじゃねーか?」
「なに?」
「……そういえば、そうかも」
「だろ? どっかで見たことあると思ったら、美術のコンクールとかでよく表彰されてる連中がちらほらいるんだ。ほら、美川もそうだろ?」
カイトの言葉に、マコトは改めて数珠の生徒たちを見渡した。確かに、全校集会などで体育館のステージに上がり、賞状を受け取っていた顔ぶれだと思い出した。
「そうだ! 美川も美術部だ!」
不可思議な数珠と「美術部」という、不穏な共通点が浮き彫りになった瞬間だった。
*
カズラは、足音を殺して美術室のある四階へと向かった。少子化が進む昨今、地方であるにも関わらず、この中学は年々生徒数が増え続けている。いわゆる、マンモス校というやつだ。
全校生徒数が八百人を超えるこの中学校は、多くの生徒が授業を受けられるよう、各教室の面積は比較的広く取られている。それでも成長期の生徒たちがひしめき合えば、校内はどこも窮屈なのが現状だ。
その歪みのしわ寄せが最も色濃く出たのが、美術室だった。第一、第二と二つの美術室、そして美術準備室は、校舎の最果てに追いやられるように配置されていた。
そこは、他の生徒からも教師からも完全に死角となる位置にある。
カズラは、教室の出入り口の引き戸にある大きな窓から、そっと中を覗き込んだ。
人外であるカズラですら、一瞬、己の目を疑うほどの光景がそこに広がっていた。
次回更新は8月7日金曜日 19時更新です




