2話 雨別かつ鳥居、井戸の残像
「ずぶ濡れじゃないか!」
全身びしょ濡れのカイトとマコトを視界に捉えた神主は、慌てて石段を駆け下りてきた。
「なんだこの雨は。こんな降り方、尋常じゃないぞ……」
鳥居を境にカーテンのように降る雨の異様さに、強面の神主も絶句しているようだった。
「とにかく社務所に来なさい。服が乾くまで、雨宿りしていくといい」
神主は二人を急かすように、再び石段を駆け上がった。あまりに軽い足取りで急勾配を登っていく姿に、カイトとマコトは唖然とする。
負けじと後を追うが、水を吸った服は鉛のように重く、思うように体が動かない。
悲鳴を上げながらようやく石段を登りきると、そこに神主の姿はなかった。残された二人は、境内の真ん中で棒立ちのまま、寒さに震えるしかなかった。
「神主ざん、どこ、行っだんだ……?」
「くぞ……、勝手に消えやがって……」
置き去りにされた不安から、二人は震えながら忙しなく頭を動かして周囲を見渡した。
「君たち! こっちだ!」
社務所の影からひょっこりと顔を出し、手招きをする神主。その姿を見つけて、二人は濡れた体を引きずるようにして神主の方へ向かった。
案内されたのは社務所の裏口だった。踏み込むと、入り口には大判のバスマットが三枚ほど敷き詰められていた。
「そこに上がって服を脱ぎなさい。脱いだ服はこの籠の中に」
神主は手際よく洗濯籠を二人の前に置いた。
「え? もしかして乾燥機、かけてくれるんですか!?」
「マジで!?」
「いえ、そんな、ご迷惑をおかけするわけには……!」
カイトは「ラッキー!」と目を輝かせたが、隣でマコトが恐縮して断るのを見て、慌てて言葉を飲み込んだ。
「いいから。そのままでは風邪を引く。服を乾かしている間に、中に入ってしっかり温まりなさい」
強い口調で言われてしまえば、根が素直な中学生である二人は従うしかない。
いそいそと服を脱いで籠に入れ、貸し出された服に着替えた二人は、社務所の奥にある自宅エリアの洗面所にいた。そこでドライヤーを借り、ようやく髪を乾かすことができた。
「一応二十分で乾燥機にかけたから、帰ったらしっかり洗濯し直しなさい」
「はい……」
差し出されたのは、温かいほうじ茶だった。
「災難だったね。あんなに突然降られて」
「ええ……、まったくです……」
パワーストーンの澱みを吸い込んでこんなことになりました、とは口が裂けても言えず、曖昧に相槌を打つ。
「でも、本当にありがとうございました……。死ぬかと思いました」
「……もしかして、何か『憑いて』いたのかい?」
一瞬の沈黙の後、神主が鋭い視線で言い放った。
「え……、どうして……」
図星を突かれ、マコトは戸惑いながら問い返す。
「どうしてって、まだ『残って』いるからね」
二人の動揺など気にも留めず、神主はマコトの背後へ回った。そして、肩甲骨の間あたりを、掌で勢いよく叩いた。
さらに一度、マコトの背中を叩く。三度目の衝撃が加わった直後、マコトの身体が大きく震えた。
「うえ……、ゴハッ!!」
先ほどよりも激しく咳き込むと同時に、マコトの口から、あの黒い靄が吐き出された。
「随分と凄まじいものを持っていたな」
「あの、今のは一体……」
恐る恐る、カイトが神主に質問を投げた。
「負のエネルギーと言っら分かりやすいだろうか。人間関係や場所、環境の『邪気』や『念』、『澱み』。そして、君自身の内にあった『負の感情』だな。ああいうものが溜まれば気持ちも沈むし、身体の不調にも直結する」
神主は、射抜くような眼差しで真っ直ぐにマコトを見た。
「辛かっただろう」
「……いえ、そんなことは……」
マコトは否定したが、事情を知っているカイトは黙っていられなかった。
「でもこれ、数珠の黒い何かを吸い込んじゃってそうなったんだよな?」
「数珠の黒い何か?」
カイトは力強く頷き、マコトから聞いた詳細を神主に伝えた。
「その数珠とは、どんなものだった?」
「どんなって……?」
「素材だ。樹脂やガラス製のもの、木製、あるいは石。何でできていた?」
「……あれは、石だと思います。水晶かな、白っぽい色でした」
マコトは記憶を辿り、美川が付けていた数珠について説明した。異常に数が多かったこと、その不気味な色合いなどを。
「なら、あの黒いものは、元々は……その生徒のものだな。たまたま近くにいた君に、憑りついたんだろう」
「なんて迷惑な話だ……」
「席が隣だというなら、今後も何かと不安だろう。このお守りを持っていきなさい」
神主はそう言いながら、白地に『開運』と金糸で刺繍されたお守りをマコトに差し出した。
「このお守りは、悪い運気を遠ざけ、良い運気を呼び寄せてくれる。身につけておくといい」
「あ、ありがとうございます……!」
親身な神主の心遣いに、マコトは胸を打たれたような顔でそれを受け取った。
「一個七百円ね」
「え……!?」
感動を返せと言わんばかりの事務的な言葉に、マコトは思わず裏返った声を上げた。
乾燥機が止まるまで、あと十分。
*
「あのヤクザ神主……、マジで商売のやり方までヤクザみてえじゃねーか」
二人は乾燥機が終わると、逃げるようにして神社を後にした。雨はいつの間にか止んでおり、夕暮れの陽光が濡れたアスファルトを反射している。
強面の神主に対するカイトの悪態は、もはやその見た目だけに対してのものではなかった。
「けど、やっぱ本職の神主だよな。俺に憑いてたもの、一発で見破ってたし……」
おかげで助かった。そう言ってマコトは、七百円で購入したお守りを眺めながら、素直に神主へ感謝していた。
来た道を戻っていくと、先ほどまで開かなかった踏切は何事もなかったかのように動いているし、工事中だった道も、通行止めの看板ごと綺麗さっぱり消え去っていた。
ほんの短時間の、けれどあまりに不可解な体験だった。
「そうだマコト、お前が憑かれたことなんだけどさ……」
これは共有しておかなければならない。カイトはきさらぎ駅での体験や、そこでカズラから聞かされた話を、歩きながらマコトに伝えた。
「……そうか、きさらぎ駅って『鬼の通り道』だったんだな……。ネットでも色々と考察されてたけど、今の話が一番しっくりくるよ」
「俺たち、ああいうものに引っ張られやすい体質らしいんだ。これからも変なことに巻き込まれないよう、気をつけようぜ」
「おう、分かった」
もうあんなのは懲り懲りだ。そう語り合いながら、二人は日常を取り戻した街を、肩を並べて歩いていった。
*
稲荷神社で神主を務める一ノ瀬ワタルは、今しがた鳥居の向こうへ消えていった少年たちの後ろ姿を、静かに見送っていた。
一ノ瀬が彼らを知ったのは、八年前の枯井戸での事故がきっかけだった。あの子供たちは、よくこの神社の境内で遊んでいた。一ノ瀬がまだ大学生の頃の話だ。実家がこの稲荷神社であったため、家を継ぐべく神道系の大学へ進学していた彼は、当時、実家を離れて暮らしていた。事故の報せは、家族からの切迫した電話だった。
「境内の井戸に、小学生が転落した」と。
そこは、立ち入り禁止の看板も金網もない、中が丸見えの古い井戸だった。危険だからと、近々穴を塞ぐための蓋を設置する予定だったが、その矢先に悲劇は起きてしまった。
結果として一人の子供が命を落とし、神社側は事故の賠償などに追われる日々を送ることになった。
だが、死亡した女児の両親が向けた刃は、神社よりも、あの日一緒にいた他の子供たちに対して、より鋭く、剥き出しにされていた。
当時神主を務めていた父の話によれば、葬儀の最中、遺族は子供たちへ激昂していたという。人目を憚らず、小さな子供たちとその親に怒鳴り散らすその姿は、見ていられないほどに凄惨だったそうだ。
その後だった。生き残った子供たちが、神社へやってきて「死んだ友達を生き返らせてほしい」と、必死に祈りを捧げに来たのは。
そしてそれを境に、四人組になったはずの子供たちの輪に、いつの間にか白いワンピースの少女が加わっていたという。
その少女は、死んだ女児にあまりにも瓜二つだった。
回想を終えた一ノ瀬は、鳥居の上にだらしなく座り込んでいる人物へ、静かに問いかけた。
「まだ、続けているんですか?」
鳥居に座る人物は、すらりとした体躯に、黒く長い艶やかな髪を靡かせた白いワンピースの少女だった。
一ノ瀬の問いに振り向いた少女の瞳は、赤く、鈍い光を放っている。
「そういう契約だからな」
少女は、素っ気なく返した。
「だとしても、もっと明確に線引きができるよう契約すればよかったのでは。……先ほどの子は、おかしなものに憑かれていましたよ」
「そのようだな……」
相手をするこの『存在』は、元よりこういう性格なのだ。仮にも神の眷属なのだから、もう少し人に慈悲があってもいいのではないか。そう思ってしまうのは、人の性なのだろうか。
「興味なさそうですね。八年も一緒にいたというのに」
「興味も何も、僕がどれだけ長く現世に留まっていると思っている。あの子たちの命など、僕にとっては一瞬に等しい。人ならざる僕に、人の心など理解できんよ」
突き放すような言葉だが、それは感情移入を拒み、自ら一線を引いているようにも聞こえた。
「だが、あれは看過できん」
それだけ言い残すと、少女──もとい、神の眷属の一柱であるカズラは、鳥居から軽やかに飛び降り、夜の闇に溶けるようにして姿を消した。
次回は7月31日金曜日19時更新です。




