4話 道標(みちしるべ)は線路、迷わすは花火
「きさらぎ」──。
それは一般的に、旧暦二月の名称である「如月」を指す。
語源は、寒さの厳しい季節に「衣をさらに重ねて着込む」ことから「衣更着」と呼ばれ、それが転じて「きさらぎ」へと変化したという説が有力だ。
だが、この言葉にはもう一つの、忌まわしい側面がある。
「きさらぎ」という響きを「鬼」の存在と結びつける解釈だ。
古来、節分に象徴される「鬼」とは、目に見えぬ病や災厄そのものを指した。そんな禍々しい伝承が暦の呼び名と混ざり合い、「きさらぎ」という言葉は、いつしか単なる季節の節目を超え、異界の気配を孕むものとなったのだ。
*
「ドーンッ」という巨大な破裂音が、駅の空気を震わせた。その正体が花火だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
「これ……もしかして、稲荷花火大会の花火の音じゃないか!?」
懐かしい音に導かれるように、カイトは光の余韻が残る方へとふらふらと歩みを進める。
「カイト……」
「なあ、あっちに行けば、帰れるんじゃないか?」
「カイト!」
鋭く名前を呼ばれ、カズラに強く腕を掴まれた。カイトが我に返って振り返ると、そこには険しい表情のカズラがいた。
「引き寄せられているぞ」
「え……?」
「確かに花火の音は聞こえる。だが、僕には『そちら』からは聞こえない」
カイトが向かおうとしていたのは、先ほど電車が走り去っていった、方向だった。
「言ったはずだ。今夜は境界が曖昧だと。ここは現世よりも遥かに彼岸に近い。君のような『引き寄せられやすい』者は、気を抜けばあっという間に持っていかれるぞ」
「け、けど……」
「しっかりしろ! 帰るんだろ!?」
(帰る……!)
カズラの叱咤が、カイトの不安を一気に霧散させた。すると、どうしたことか。つい先ほどまで前方から響いていたはずの花火の音が、今度は真反対から聞こえてくるようになった。
「あれ……? 音の方向が変わった……」
カイトの呟きを聞き、カズラは安堵したように小さく息をついた。
「長居は無用だな……」
カズラは手早く箒を片付け始める。そのあまりに手慣れた様子に、カイトは思わず突っ込んだ。
「お前、手伝えって言ったくせに!」
「行くぞ。このままここにいれば、君は際限なく『あちら』に引き寄せられてしまう」
強引に手を引かれ、カズラは軽い身のこなしで線路へ飛び降りた。続いて恐る恐る降りようとするカイトを支え、二人は線路の枕木を踏みしめて歩き出す。
「……やっぱ、線路を伝って帰るのが正解なのか?」
「まあな。あのまま電車に乗っていても、帰れる保証はどこにもない」
「でも、ネットでは帰れたって人もいるみたいだけど……」
「なぜそんなことを知っている?」
「書き込みだよ。きさらぎ駅に迷い込んだっていう体験談が、ネットにはいくつもあるんだ」
「……その体験談とやらが事実なら、相当に運が良かっただけだ。本来なら、一度踏み込めば二度と戻っては来られない」
「ま、マジかよ……!」
カイトは心の底から、あの駅で降りてよかったと戦慄した。だが同時に、ある疑問が首をもたげる。
「なあ……この駅に迷い込んだことを最初に書き込んだ人は、どうなったのかな?」
「はあ?」
「その人も、こうやってもと来た道を歩いて戻ろうとしたんだ。その先で……」
「そんなこと、僕が知るわけないだろう。今回は本当にたまたまだ。君は運がいい。一人なら、奴らは何かしらもっともらしい理由をつけて、お前を迷わせようとしたはずだ」
「……やっぱ、あの不審人物たちに付いていくのは不味いんだな」
「不審人物たちだと?」
「ああ。線路を歩くと危ないと呼び止める片足の老人とか、トンネルを抜けた先で車に乗せてやると誘ってくる男とか……」
「……そいつらは、彼岸にも現世にも行き場のない亡者たちだ。迷い込んだ者を自分たちの側へ引き入れ、孤独を埋めようとする」
ゴクリと生唾を飲み込み、「どうしてそんなことをするんだ?」とカイトは尋ねた。
「さあな。僕に人の心はわからん」
人外であるカズラが口にした「人の心」という言葉。マコトの考察通り、彼らは非業の死を遂げた死者なのだろうか。無念を残してこの世を去り、成仏できずに彷徨い続ける者たち。寂しさや苦しみを分かち合える仲間を、常に探し続けている……。
カイトの中で、一つの結論が形を成した。
『私だけ死んでるのに、みんなだけ生きてるなんて許さない。……みんなだけ幸せになるなんて、絶対に許さない……!』
あの社で、死んだ本物のヒナが吐き出した、呪いのような言葉が耳の奥で蘇る。
(もしかしてヒナも……。ずっとあそこで彷徨ってるのか?)
ドォオオオン!!
再び花火が弾けた。先ほどよりも近く、そして今度はカイトの背後から。夜空を彩る極彩色の光が、線路の上を歩く二人を鮮明に照らし出す。
(ダメだ。考えるな。考えればまた迷う。あっちに引っ張られる……!)
前を行き、自分の腕を力強く引いてくれるカズラの存在が、今は何よりも心強かった。だが、どうしても気にかかることがある。
「なあ、どうして俺には『花火の音』なんだ?」
「あん?」
不機嫌そうに首だけを巡らせ、カズラがカイトを射抜く。
「ネットの記事と違うんだ。掲示板には、太鼓と鈴の音が聞こえるって書いてあったのに……」
「それは、今の境界を繋いでいるのが花火の火と煙だからだ。元来、花火は慰霊のものだと言っただろう。お盆の迎え火や送り火と同じ役割を担っている。今、彼岸と現世を繋ぐ『道』があの花火なんだよ」
また一つ、光の華が夜空に咲き、カイトたちを包み込んだ。カズラは花火に目を向けることもなく続ける。
「その者が聞いたという太鼓と鈴の音は、おそらく神楽だ」
「カグラ……?」
カイトの脳裏に、その名がついたアニメのキャラクターたちが次々浮かんできた。
「神に捧げる歌舞と囃子だ。今は芸能とされるが、相撲と同様、本来は立派な神事だ。その音が聞こえたということは、その者も何らかの祭礼の最中に迷い込んだのかもしれん」
「祭り……。いや、確か仕事帰りの電車に乗ってたら、きさらぎ駅に迷い込んだって書いてあった。時期も一月上旬くらいだったと思う」
サラリと読んだ記事の内容だが、「きさらぎ駅」が都市伝説として広まったのは、年代も季節も違っていたはずだ。
「一月……」
カズラは足を止めず、小さく呟いて考え込んだ。
「……松の内だったのかもしれないな。年神が滞在する期間だ。土地によって期間は違うが、その時期もまた、現世と神々の世界が極めて近くなる。土地の神事がその者の『耳』に届いたんだろう」
絶対にまともに答えてくれないと思っていたのに、カズラは驚くほどすんなりと解説してくれた。カイトは次の言葉が見つからず、沈黙してしまう。
(おかしいな……こんな奴と話したくないはずなのに。どうしてこんなに聞きたいことが浮かんでくるんだ?)
「どうした。もう聞きたいことはないのか?」
前を歩くカズラが振り返った。その赤い瞳は、冷徹なようでいて、どこかカイトの心を見透かすような優しさを帯びているように見えた。
「聞きたいことがあるなら言え。溜め込むな。さもなくば、またあちら側に引き寄せられるぞ」
図星を突かれ、カイトの心臓が跳ねる。
「駅を手入れするのは、気が淀まないようにするためだ。風船も膨らませすぎれば破裂するだろう? 感情も同じだ。溜め込めば、いつか決壊し、それが『迷い』に繋がる。……言え。思っていることすべてを」
カズラの言葉をきっかけに、胸の奥に押し込んでいた澱が溢れ出した。
ヒナの死を忘れているカンナ。
死んでしまった本物のヒナ。
連絡の取れないヒロキ。
運動部のレギュラーとして活躍するマコトとのすれ違い。
そして、重くのしかかる受験のプレッシャー。
あの社以来、止まっていたはずの時間が、激流となってカイトを飲み込もうとしていた。
「俺、俺……このままでいいのかな……」
カイトは絞り出すような声で、目の前の人外に、初めて自分の弱さを曝け出した。
次回6月19日19時更新です。




