第二章第二話『我々はどこから来たのか』
春はあけぼの、と謳った女性がいるらしい。
まだこの地國の空が天國(天國)の大地に覆われるよりもずっと昔、地國人にとって〝朝日が昇る〟という概念が存在した時代の話だ。
花の香りを運ぶ明け方の風も、日差しを浴びて輝く朝露に濡れた新緑も、ありとあらゆるマテリアルが1日の始まりを祝福していたいにしえの春。暗闇の中、散りはじめの桜が箒星のように空を彩る現在の地國からは、想像もつかないような世界だろう。
「にしたって、朝4時に待ち合わせは早すぎないか?庵さんよ。オレは本来夜型なんだぜ」
「……すまないな。旧横浜から10時発の船を手配してある。この時間でなければ間に合わない」
「船?御所の船か?」
「そうだ。相模から旧横浜までは、始発の汽車を利用する手筈になっている。陸路のうちは下手に忍んで集団行動するより、公共交通機関を堂々と使用したほうが善いと梅処様がご判断された」
旅慣れている空賊の面々も、御所を目指し国を統治する女帝のもとへ向かうにあたっては流石に緊張の色を隠せない。寝不足なのであろう、眠たげな目を擦る美美と銀の背後で、酒を飲みすぎたのであろう赤虎が生欠伸をしている。
彼らが到着する頃にはすでに、庵と猜、そしてミリアの姿があった。
待ち合わせは、桜並木の少し手前。アジトからほど近い、駅までの一本道へと続く交差点だ。
「皆、揃ったな。ミリアもそう緊張する必要はない。道中は地國の美しい景色を楽しんでくれ」
「ありがとうございます、庵さん。わたし、この国のことをほとんど何も知らないの。汽車が走っているなんて驚いたわ」
「天國の蒸気ほどじゃないでしょうけれど、この国にも機関車はあるんですよ。古い時代からの遺物を、お偉い科学者の先生が走れるようにしてくれた〝年代物〟だそうです」
機関車、船といった単語にまるで子供のように目を輝かせているミリアへ、銀が優しく説明した。猜は二人の様子を微笑ましく眺めながら、美美にそっと耳打ちする。
「(銀のやつ、なんか疲れてないか?)」
「(遠征帰りにこの展開ですもの、彼はまだ子供よ。疲労困憊なんじゃないかしら)」
それもそうか、と腑に落ちた様子で猜はミリアと銀に視線を戻す。どうやら二人はまだ、地國の文明について話を弾ませているようだ。
「相模の街を線路が通っているなんて、桜が見えてとても素敵ね。旧横浜という街に行けば船にも乗れるの?わたし、海を見るのは初めて。天國は石畳と機械だらけで、海なんてどこにもなかった。皆と一緒に、海を眺める時間があればいいな」
「地國は海に囲まれた島国です。旧横浜は、かつて美しい港町だったそうですよ。今は単なる交通の要所ですが、滅んでしまった文明の遺跡や遺構が観光名所にもなっています」
「滅んでしまった文明?」
「江戸、明治、大正、昭和、平成、令和……なんて言われている空白の時代です。この辺りの地國史は、タブー視されていて学校でもあまり詳しく触れられませんし、天國の人にも知られていないでしょうね」
「……」
過去史の話になったとたん、庵は露骨に眉間へ皺を寄せ始める。ミリアにこの国の事情を詮索されたくないだけなのか、それともやたら博識な銀を警戒しているのか……硬く結ばれた口元から、軍人然とした庵の本心を読み取ることは難しい。
赤虎はそんな庵の動向に目を光らせながら、場の空気を変えようとミリアに声をかけた。
「ミリア、海はいいぜ!波の音を聞いていると、人は母ちゃんの腹ん中を思い出すことがあるらしい。ミリアのなくなった記憶にも、なんかいい刺激があるといいよな」
「ありがとう、赤虎」
ぽん、とミリアの頭に手を乗せて、赤虎がにっこりと笑った。美美は彼を複雑な表情で見つめつつ、猜を見やる。〝あんたもいきなさいよ〟と言わんばかりの、あるいは〝赤虎は女好きで困る〟とでも言いたげな、実に恨めしそうな視線だ。
「あー……ミリア、義肢の調子が悪くなったら言ってくれ。もしものときは、俺がミリアを背負うことになってるから」
「ありがとう、猜。頼りにしてるからね」
美美の視線を受けた猜は、なるべく平静を装ってミリアに声をかける。昨夜ミリアにキスを迫られてからというもの、猜は彼女に気兼ねなく話しかけることができなくなっていた。
技師として手術中に何度も裸を見て、さんざん肌に触れたというのに、想いのともなうスキンシップには何かタブーのようなものを感じてしまう。その違和感もまた、ノングラとして二度目の生を生きる猜が、すでに失っている記憶と関係している可能性は否めない。
少なくとも彼自身は、そう自己分析して複雑な心境を整理しているようだった。
「……それでは皆、始発の汽車で旧横浜へ向かおう。ミリアを狙った襲撃の話は、昨日猜にヒアリング済みだ。いつ、ミリアを狙った再度の襲撃がないともかぎらない。敵の正体も定かではない以上、引き続き警戒を怠らないように」
庵は身を翻し、相模唯一の駅へと向かい始める。
ミリアは相模の街並みを目に焼きつけんとばかりに、一生懸命に周囲の景色に目をやっていた。
アジトへ向かう裏道からのぞく、古い枝垂れ柳の木。
猜の工房がある地下通路への入り口、大きなマンホールの蓋。
卜師の蕎麦屋。いつかの昔、天國のどこかで目にした画集にあったような、ジャポネスク様式の民家たち。
そして……真っ暗闇の中に浮かび上がる、桜並木と灯篭の光。
目に映る全てが、ミリアにとっては興味深く、どこか愛おしささえ感じる不思議な風景だった。
5分も歩けば駅には到着する。始発は隣駅だが、すでに停車中の汽車がホームで空賊一行を待っていた。
里帰りのため、交易や仕事のため、あるいは気ままな旅のために汽車に乗る人は多かれど、さすがに始発の利用者は少ない。ましてや、京都の御所に軍人を引き連れて相模から乗車する者など、空賊一行を除いて誰もいない。
入っていいぞ、と庵に促され、ミリアは汽車に一番乗りで足を踏み入れた。
「乗車券はいらねぇのか?」
「……私に与えられた権限で、いくらでも座席は確保できる。始発の空き具合なら問題はない」
「へぇー…一席で何万銭もするだろうに、お偉いさんはやっぱちげぇな。こっちなんざ、ジャンクをかき集めて必死に一杯の酒を買ってるっていうのによ」
「あたしから叱っておきます、庵さんごめんなさい」
庵のリアクションに赤虎は首を窄め、そのままミリアの後を追った。
続いて焦った様子で赤虎を追う美美、銀、猜が汽車へと乗り込み、庵がしんがりを努めるような形になる。
「おい庵」
「なんだ、猜」
「一応聞いておくが……この汽車ごと俺たちを殺すつもりで、始発を選んでるなんてことはないよな?お前一人が使いとしてここまで来るなんて、本当にミリアを保護するつもりでいるのか正直疑わしい。あの文書も捏造かもしれない。卜師の占い結果も、気にならないと言えば嘘になる」
猜は、不必要な挑発をするタイプではないと庵は知っている。この男は、本気で御所と梅処のことを疑っているのだ。
御所の力を借りるほかないと判断しておきながら、御所のことを信用してはいない……そんな彼の様子は庵にとって、矛盾した感情に振り回されている哀れな傀儡にさえ思えていた。
庵は、猜がノングラであることを知らない〝ことになっている〟。
しかし猜は、御所の面々が自身のノングラ化を〝知らないわけがないと知っている〟。
そして……御所の面々は、老中も軍部も含め、皆が一枚岩というわけでもない。
虎視眈々と為政者に成り変わり、梅処の座を奪おうとしている計略家も一人や二人ではすまないだろう。
故に猜は、ミリアまでもがノングラになっていることを知られるのは、梅処一人が良いと考えていたのだ。必然的に、庵への警戒度も上がっていた。
「……不敬だぞ。梅処様がそんなことを許すわけがなかろう。貴様は梅処様の、〝最愛の人形〟なのだから」
「……ちっ。魔女の犬め」
「これで三度目の不敬だ。次は首を切り落とすかもしれんぞ」
「やってみろよ。首が落ちたくらいじゃ俺は死なない。お前だって知ってるんだろ?」
「……くくく。平和ボケしていると思いきや、ミリアへの庇護欲ゆえか。まるで殺意を忘れておらんな。それでいい。お前は、」
「うるさい、黙れ」
わざとらしい庵の挑発を遮って、猜は皆の後を追った。
汽車の入り口に、風に乗ってきた桜の花びらが吹き込んできたその瞬間、プシュと音を立てて戸が閉まる。
やがて大きな汽笛を上げて、汽車は相模の町を離れ始めた。
暗闇の地に浮かび上がる蒸気機関車は、永遠に明けない一夜を駆ける夜汽車のように、旧横浜の港町を目指して東へ走り続ける。
本来は空を駆ける空賊たちにとって、大地をゆったりと這う旅はひどくノスタルジックで、どこか特別なものに感じられていた。




