第二章第三話『我々は何者か・幕間』
陸路の旅は、空路よりも海路よりも、過程を楽しむことに本質がある。
暗闇に覆われた地國を走る、永遠の夜汽車とあらばなおさらだ。
車窓の額縁からスクロールされゆく朝枯れの景色。ほんの少しだけ開けた窓から、頬を撫でる明るい夜風。
ミリアはそのすべてを魂のすべてで感じながら、地國の空気を少しでも多く吸い込もうとしていた。暗く優しく繊細で、力強い自然が息づくこの国どこが地獄の名を冠する原因なのだろうか。
「猜、あれは何?」
「ミリア、あれは昔動いていたという〝観覧車〟の断片だ。遊具らしいが、今はほとんど埋まってて上のほうしか見えてない」
「あの、遠くに見える黒いのは?」
「あれは水平線。海はつねに青く見えるわけじゃない。夜中や明け方は黒く見えることがある」
他愛もない、しかし物悲しい話をしているうちに、汽車はどんどん野を駆けゆく。
庵は空賊一向の会話を黙って聞きながら、壁にもたれて腕を組んでいた。
「……じゃあ、あれは?」
「あれは……俺にもわからない。銀、お前ならわかるんじゃないか?」
不意に話を振られた銀は、落ち着いた様子で淡々と回答する。
「えぇと。あの銀色の遺跡は。観覧車と同じ時代、旧横浜のシンボルだったという建築物の上部ですね。正式な名前は僕にもわかりません。調べ直そうにも、多くの資料は戦争で焼けてしまいましたので。この地に眠る死者たちの脳には、きっと刻まれているでしょうけれどね」
「あたしも、あの建物は気になっていたの。旧横浜に来たのは、あたしが子供の頃以来だけど。相変わらず、綺麗な観光地って感じよね」
「美美さん、センスがいいですね。旧横浜は、栄華を極めた当時も観光地として人気だったらしいですよ」
束の間の休息ともいえるひと時を味わう中では、相模野を抜けて旧横浜のホームに入るまでの体感など一瞬。ミリアは名残惜しそうに、汽車が減速していく音を聴いている。
やがて汽車はゆっくりと低音を奏でながら、旧横浜の駅へと到着した。短いながらも趣深い、相模線の終着駅である。
「皆、下車の準備を。ここからはすぐに港へ向かう。天國からの刺客がいつ来るともわからん。景色を楽しむのもいい。旅を喜ぶのもいい。だが、警戒は怠るな」
「へいへい、わかりましたよ庵さん」
気だるげな返事をしながらも、真っ先に下車の準備を始めたのは赤虎だ。相模に比べて重厚な雰囲気のホームへと彼が足を下ろすと、どこからか風に吹かれてやってきたのであろう、桜の花びらが鼻先を掠めた。
〝四月は、残酷な季節である〟。
これは赤虎が気に入っている天國の詩の一片だが、埋葬について歌うこの詩を彼が愛していることも、彼がかつて天國に暮らした日々があることも、残酷なほど、空賊の面々は誰も知らない。
そんな赤虎の背後で、ふと猜はミリアに声をかけた。
「ミリア」
「どうしたの?猜」
軽やかに汽車を降りるミリアの手をぐいっと引きながら、猜は優しい声色で続ける。
数少ない他の乗客たちも皆、続々と下車をしてそれぞれの道へと足を運んだ。
ある乗客は、懐かしい故郷へ。
またある乗客は、出迎えにきた家族の懐へ。
またある乗客は、当てのない旅へ。
猜は彼らを横目にしつつ、目の前のミリアにゆっくりと語り始める。
「……この、旧横浜の暗闇の向こうには。相模と同じように、天國の天穴がある」
「桜並木で会ったあの男が使ったルートね?」
「そうだ。位置は違えど、仕組みとしては同じだな。終戦と同時に塞がれたはずの天穴だが、また簡単に開け直せることを俺たちはもう知ってる」
「うん……」
そこまで話して、ミリアが何か覚悟を決めたような表情を見せたことに気づく。あわせて猜も、ひとつの覚悟を改めてミリアに渡そうと決めた。
「つまり、この地には敵の襲撃ルートが存在している。おそらく庵もそれを知ったうえでこの旅路を選択しているからこそ、警戒を怠っていないんだろう」
「……」
「だから、俺から離れるな。今度こそ、守るから」
ミリアは猜の言葉に一瞬きょとんとした顔を浮かべると、さもおかしそうな様子で笑いだす。あはは、と声を出してミリアの姿に面食らった猜と、そんな二人の姿に気がついた面々は怪訝な顔をしていた。
ひとしきり笑い終えたミリアは、やがて口元を押さえながら呼吸をおちつける。そして……ロマンチックな愛の台詞ではなく、あくまでも、猜の誠実さへのアンサーとしてこう答える。
「大丈夫だよ、猜。ありがとう。でも……今度こそ、守るのはわたし。わたしが、あなたを守る。この左腕の力で。猜だけじゃない。ここにいる皆を、わたしが守る。そう決めたの。汽車の窓の外を眺めながら、ずっとそう思ってた。自分のことだからわかる。この力は、左腕には、人の命を奪うほどの力がある。それは、命を奪うものから大切な人を守れる力でもあるということなの」
「ミリア」
「だから猜、あなたは、そんなわたしの気持ちを、受けとめて。守られるだけでいたくはないと願う、わたしの気持ちを」
残響のように残るミリアの笑顔に、猜の心は2秒間ほど、震えるような感覚をおぼえていた。
春の朝風が、暗闇の中で夜風のように髪を揺らす。
視線が、お互いの魂を見透かすようにしてぶつかる。
「……あぁ。受け止める。必ず一緒に行こう。京都まで」
二人はじっと目を見つめあい、偽物の手と、仮初の手で握手を交わす。
まなざしだけで睦み合う二体のノングラを、滅んだ都市の遺構は黙って見ていた。まるで地層の下に重なり続け土となった、愛し合う人間の化石のように、ただ静かに、儚くも力強い土埃を上げながら。




