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第四章-3

 居間に一人座っているアッシュは落ち着かない気分を紛らわすように、部屋の中に視線を彷徨わせる。ジゼルは連れ帰った幼女の擦り傷をアッシュと二人で簡単に魔法治療すると、酷く汚れていた彼女と一緒に風呂に入ってしまった。チッピィは連れて帰ったのだが、彼は一足先にバスケットの中に収まって眠っている。

 他に誰もいない室内はとても静かだ。木造家屋のような見た目に反してこのマンションの防音はしっかりしているのか、浴室にいるはずのジゼルと幼女の声や水音等もアッシュがいる居間までは聞こえてこない。手持ち無沙汰だったが、キッチンのあれこれの使い方が判らないのでお茶を淹れることも出来なかった。居間にはこの星のテレビらしき機械等もあったが、これも操作方法が判らない。

(こういうとき、ラブコメもののマンガやラノベ、ギャルゲーでは風呂を覗きに行くのが定番のイベントだよな……)

 他にやることがないせいか、そんなことを考えてしまう。ふと立ち上がった。すぐに座り直す。

(待て待て、なに考えてるんだ、俺?)

 心の中で自分に突っ込んだ。

 しかし、覗いてもジゼルはおそらく怒らないだろう。むしろ、喜びそうですらある。そう思うと、だんだん覗かないほうが失礼に当たるような気持ちになってきた。

 いやいや、と首を振って再度立ち上がる。勿論、覗きの為ではない。トイレに行きたくなってしまったのだ。なんとなく足音を忍ばせて廊下に出る。向かって左手にクラリッサとカテジナの部屋、マークとクォンの部屋が並んでおり、右手にジゼルの部屋があることは既に確認済みだ。その先の二つのドアがおそらくトイレと浴室だろう。

 アッシュはその二つのドアの前に立ち、交互に見比べてみた。どちらも同じ、とりたてて特徴のないドアだ。ここまで近付いてもやはり浴室のジゼルたちの声や水音は聞こえてこないので、どちらがどちらか判断する為の材料がまるでない。

(確率二分の一か……。外れたら、それこそお約束のラッキースケベイベント発生だな)

 しかし浴室のほうを引き当ててしまったとしても、浴室の前にはおそらく脱衣所があるだろう。タイミング悪く――それとも、タイミング良く――ジゼルが浴室から出てこない限りは、いきなり彼女の生まれたままの姿を目撃してしまうということはないはずだ。そう考え、適当なほうのドアノブを掴み――、

「ただいま戻りました」

 突然玄関のドアが開いて、マークたちが帰ってきた。アッシュはそのままの姿勢で玄関のほうに顔を向ける。

「おぅ、おかえり。警察のほうには、上手く説明出来たのか?」

「なんとかなったと思います。こちらに妙な疑いが向けられるようなら、後々色々と上から働きかけてもらわなければならないでしょうが。今のところは大丈夫そうですね」

「上から?」

 マークの台詞の中に気になる単語があったので聞き返した。

「ええ。この星の政府や公的機関の上層部は、我々の連邦の存在を知っています。こちらではどうにもならないときは、そういったところに要請して働き掛けてもらうんです。――君の星では違うんですか?」

 逆に問い返され、アッシュは首を捻る。

「そういう話は、エリカたちから聞いたことないな。多分うちの星では、あんたたちの連邦については完全に秘密なんじゃないか?」

 同じ辺境警備隊と言えども、任地の惑星によって内情は色々と違うようだ。ひょっとして自分の星は色々と苦労しながら駐留しているエリカたち第八小隊から見れば酷い貧乏くじなのではないか、などという考えが頭を過ぎる。

「ジゼルは?」

 横からクラリッサが口を挟んできた。

「あの()を風呂に入れてるよ」

 アッシュの答にクラリッサは彼が今まさに開けようとしていたドアを見ると、にんまりとした笑いを浮かべてアッシュの顔に視線を戻す。

「ふーん、そういうこと。ちょっと帰ってくるのが早かったかしらねー?」

 彼女の言葉ですぐに察した。こちらのドアが浴室なのだろう。そのドアを開けようとしているアッシュは、当然の帰結として覗きの嫌疑を掛けられていることになる。

「いや待て! 誤解だ!」

 アッシュは慌てて握ったままだったドアノブから手を離し、無実を訴えた。しかし、弁解空しく、クラリッサは笑顔のままで首を振る。

「いいのいいの。むしろ、あの()の身体に興味が出てきたっていうのは、いい傾向だわ。やっぱりこのまま結婚しちゃいなさいよ」

「だから違うんだって! トイレがどっちかわからなくて!」

 アッシュは言い募るが、クラリッサは完全にそれをただの言い訳と認識しているようだ。頭を抱える。マズい人にマズい勘違いをされてしまった。上機嫌なクラリッサの隣では、カテジナが口元に小さな拳を当ててなにか考え込んでいる。妙な対抗心を燃やしていないことを祈ろう。

 廊下の奥のドアを開けながら、マークが振り返る。

「廊下で立ち話もなんですし、居間で落ち着きましょう」

「……ああ。――済まん。その前にトイレ行ってくる」

 アッシュは肩を落として、先ほど選ばなかったほうのドアを開けた。

「わ、わたし、あの()の着替え、用意します」

 カテジナが自室に入っていく。彼女もあの幼女の手術着のような布切れ一枚の姿に心を痛めていたようだ。

「あの()、きっとお腹空いてるわよね。なにか作っておくわ」

 クラリッサはキッチンに入る。最後に廊下を居間に向かってアッシュの脇をすり抜けていくクォンは、先ほどから静かだと思っていたら魔装機の操作端末を開いて歩きながらなにか作業をしていた。既に観測魔法用の魔力のアンテナは立てていない。アッシュは用を足して居間に戻ると、モニターに目を落とし両手はキーボードを叩いているクォンに、作業の邪魔になるかもしれない、と思いながらも遠慮がちに声を掛けてみた。

「クォンはさっきからなにやってるんだ? 逃げたやつらの追跡はどうなった?」

「観測魔法の効果範囲から外れちまったから、今は監視衛星使ってやつらの乗った飛行車を追跡中」

 クォンが珍しく感情の薄い声で答える。作業のほうに集中していて、少し上の空なのかもしれない。おそらく適当な衛星をハッキングでもしているのだろう。その返事を聞いてマークも彼に尋ねる。

「今、どの辺りです?」

「このロールトの東の郊外に広がってる森の中っす。ここから、だいたい二十キロってとこっすかね。――お! どっかの施設の敷地内に入った! どこだ、ここは……?」

 クォンは新たなウィンドウに地図を表示して、監視衛星の画像と照合した。

「クラム・ゴップ製薬ロールト第三研究所? やつら、製薬会社の警備員かなんかか? それにしちゃ、随分物騒な連中だったなー」

「――クォンは引き続き監視を。更に移動するようなことがないか、見張って下さい。それと平行して、その研究所に関する情報収集もお願いします」

「へいへい。うちの副隊長も人遣いが荒いこって」

 クォンはぼやきながら返事をすると、魔装機の操作端末をもう一つ開いて左右の手でそれぞれ別の作業を開始する。自室から戻ってきたカテジナが一同にお茶を淹れてくれた。

「おぅ、サンキュ」

 アッシュは礼を言ってカップに口を付ける。先刻の戦闘のせいで喉が乾いていたようだ。

 そうしていると、風呂から上がったジゼルが幼女の手を引いて居間に入ってきた。彼女は部屋着らしいミニ浴衣のような着物に着替えている。幼女のほうもカテジナのものらしい浴衣を着ていたが、いくらカテジナが幼いといってもその幼女とは年齢が五つくらいは違う。ミニのはずの浴衣の丈は、逆にアッシュから見てちょうどいいくらいになっていた。

「あ、帰ってたのね。ご苦労様。状況は?」

 幼女を膝の上に抱くようにしながらテーブルの前に座ったジゼルが、マークに確認する。マークが警察への対応は問題なく済んだこと、逃亡した襲撃者たちがクラム・ゴップ製薬ロールト第三研究所の敷地内に入ったことをかいつまんで報告した。

「クラム・ゴップ製薬って、この星では結構大手よね? テレビでコマーシャルも見るし」

 小首を傾げつつ、ジゼルが言う。その判断基準が彼女らしい。

 ちなみに風呂上りなので、いつもツインテールに結い上げられているピンク色の巻き髪は、今はウェーブの掛かった普通のロングヘアになっている。そうして髪を下ろしていると普段より少し大人びて見えた。

「そうですね。業界第三位くらいだったのではないかと思います。近年では、魔法研究の分野にも参入したことで話題に上りましたね」

 アッシュはそのマークの言葉に引っ掛かりを感じる。

「魔法研究……」

「ええ。この星ではまだ実用には程遠い段階ですが。それがどうかしましたか?」

 その呟きを聞きとがめたマークが尋ねてくるが、漠然とした不安感だけでなにか確かな意見があるわけではなかった。

「いや……」

「このロールト第三研究所は、その魔法研究の為の施設みたいっすね」

 情報収集中のクォンが口を挟んでくる。相変わらず視線は二つのモニターを行き来しているし、両手の動きは止まっていない。

(信じられん多重処理(マルチタスク)だな。どれだけの精度で並列思考してるんだか)

 アッシュは呆れ気味にそんな感想を抱く。だが、さすがに先ほど情報収集を始めたばかりではまだそれ以上の有益な情報はないようで、クォンはそれきり黙ってしまった。話題が一段落したと見たのか、マークが話を変えてくる。

「ところで、その子の傷は治療したんですよね? 見たところ大きな怪我はないようですが、他に異常はありませんでしたか?」

「ぱっと見、なかったと思うけど、身体の中のことまではわからないからな……。確か、怪我とか病気を診断する観測魔法があったよな? クォン、どうだ?」

 アッシュはもう、作業の邪魔になるかもしれない、などという遠慮はせずに普通にクォンに話し掛けた。クォンも平然と作業の傍ら口だけで答えてくる。

「そんな専門的な魔法、さすがに持ってねーよ。確かありゃ、魔法医の免許がなきゃ買えないんじゃなかったか?」

「そうなのか……」

 サーニャがいつも使っているので、それほど特殊なものだとは思わなかった。だが確かに、彼女は魔法医の免許を持っていたはずだ。

 アッシュはジゼルに抱かれて座った幼女に視線を向ける。きょろきょろと周囲の人間たちを観察していたらしい彼女は、視線に気付いたのか、きょとんとした顔で見詰め返してきた。こうして見ると、その青く長い髪以外は『彼女』の面影があるわけではない。

(当たり前か。全くの他人だもんな……)

 アッシュはなんとなく胸の痛みを感じながら思う。そんな彼の感傷を余所に、ジゼルが躊躇うように口を開いた。

「そのことなんだけどね。この()をお風呂で洗ってて見付けたのよ。これ、いったいなんだと思う?」

 ジゼルはそう言うと、幼女の右手を持って、皆に見えるようにテーブルの上に置く。

 ――その右手の甲には、直径二センチメートルほどの球形の紅い石が埋まっていた。

「『魔人血晶(まじんけっしょう)』!?」

 アッシュは思わず乱暴にその右手を掴んでしまう。幼女が痛みに顔をしかめた。慌ててジゼルが彼の手に触れる。

「アッシュ、そんなに力を入れたらダメよ。痛がってるわ」

 しかし、アッシュにはその声は届いていなかった。信じられない思いでその紅い石を凝視する。ジゼルが幼女の手から丁寧に彼の指を剥がした。

「どうしたの? それに『魔人血晶(まじんけっしょう)』って……。――あぁ、そっか。ボルジモワ元第七艦隊司令のクーデター計画は、あなたが潜入捜査で『魔人血晶(まじんけっしょう)』を発見して発覚したんだっけ」

 エリカの書いた報告書では、そういうことになっていたようだ。ジゼルは気を落ち着かせるように、アッシュの右手を両手で包み込んだ。

「それに似てるのね。でも、安心して。これは違うわ。『魔人血晶(まじんけっしょう)』は、ここに埋め込んで使うものなの。――実際に使われたところを見たわけじゃないから、知らなくても無理はないけど」

 ここ、とジゼルは自分のピンク色の眉の間を指差す。その彼女の仕草は、かつて『彼女』が『魔人血晶(まじんけっしょう)』の説明をしたときと全く同じで、アッシュは既視感を覚えた。

 そんな感傷は別にしても、現実的な危機感がある。彼女はそう言ったが、アッシュは先日のテロ事件の際、実際に『魔人血晶(まじんけっしょう)』が使われたところを見ていた。見たどころではない。人間から変質させられた魔法兵器――魔人兵と直接戦ったのだ。どうやら首星防衛隊から辺境警備隊には詳しい情報は伝えられていないようで、彼女たちは例のテロ事件についてはニュースで報じられた程度のことしか知らないようだ。彼が関与していたなどとは夢にも思っていないだろう。

「こんなところに埋め込んで使った例なんて、聞いたこともないわ。それに、『魔人血晶(まじんけっしょう)』に寄生されて自我を保ってるような例もね」

 ジゼルは続けて言うが、その両方の例をアッシュは知っている。他ならぬ自分自身だ。アッシュはもう一度、その紅い石の埋まった幼女の右手を観察した。その小さな手は、融合されて魔法兵器に変質している様子はない。

(どうなってる……? これじゃ、まるで――)

 自分の再現のようだ。

「クォン! この紅い石を解析してみてくれ!」

 正体不明の焦りを感じてアッシュは言うが、クォンは暢気な調子で答えた。

「そいつは、さすがにオーバーワークだなー。もう三分待ってくれ。今、研究所の監視を自動化して動きがあったら警報が鳴るようにアプリを組んでるとこだ」

 情報収集の傍ら、そんなことをしていたようだ。それにしても三分とは恐れ入る。

「あ、ああ。悪いな。急かして」

 アッシュは意識して冷静になろうと努めた。マークが声を掛けてくる。

「大丈夫ですか、アッシュ? なんだか顔色が悪いようですが」

「……ああ。大丈夫だ」

 アッシュは頷いてみせた。ジゼルも心配そうに聞いてくる。

「そういえば、この()を見付けたときも顔色が真っ青だったし、ホントに大丈夫? ――なにか、この石とかこの()の素性に心当たりでもあるの?」

 鋭い質問だったが、明確に答えられる問いではなかった。アッシュは首を振る。

「いや。心配掛けて済まないな。――その()については、ホントになにも知らない。その石については、さっきも言ったように『魔人血晶(まじんけっしょう)』じゃないかと疑ってるんだ」

「そう……」

 ジゼルは少し腑に落ちないような顔をしていたが、とりあえずそれで引き下がることにしたようだ。テーブルの向こうで、クォンがタンッと区切りを付けるように実行キーを叩いた。

「よーし。完成ー。――で、次はその石の検査か。俺って働き者だよなー」

 そんなことを言いながら幼女の右手を取ろうとする。しかし、幼女は右手を引っ込めていやいやをするように首を振った。

「ありゃ」

「さっき俺が乱暴にしたから嫌がってるのか? ――ごめんな。もう痛いことはしないから、あいつにその手を見せてくれないか?」

 アッシュは幼女に謝ってそう言い聞かせる。幼女は暫くじっと彼の顔を見ていたが、やがてこっくりと頷くと右手をクォンに差し出した。クォンがその手を取る。

「さすが色男。女の扱いはお手の物だなー」

「……ちょっと待て。特殊な趣味の人だと誤解されるから、その言い方は止めてくれ」

 アッシュはクォンの軽口に溜め息を吐きながら突っ込んだ。ジゼルがそこに食い付く。

「ダーリン、そういう趣味だったの!?」

「だから、違うっつってんだろうが。ていうか、ダーリンって言うの止めろ」

 そんなやりとりをしているところへ、キッチンからクラリッサがトレーを運んできた。

「出来たわよー。――さ、お腹空いてるでしょ? 食べて」

 と幼女の前にトレーを置く。トレーの上では夕食の残りのご飯と冷蔵庫にあった材料で作ったらしい雑炊のような料理が湯気を上げていた。夕食を食べてからさほど経っていないのに、その匂いにひどく食欲を刺激される。短いながらも戦闘を経たせいかもしれない。

 クォンに右手を調べられている幼女の様子を見て、クラリッサがジゼルに視線を移した。

「あら、検査中じゃ右手が使えないわね。ジゼル、食べさせてあげて」

 彼女がそう言った途端、幼女はビクリと身体を震わせる。ぎゅっと目を閉じて、かろうじて右手を引っ込めることは堪えているようだ。

「もしかして、この()、検査っていう言葉に反応してるのか? ――大丈夫だ。痛いことはしないからな」

 アッシュは気付いて幼女の頭を撫でた。その言葉に彼女が恐る恐る目を開ける。ジゼルが小首を傾げた。

「なにか、嫌な思い出でもあるのかしら? ――大丈夫よ。さ、ご飯食べましょうね」

 ジゼルが雑炊を掬って幼女の口に運ぶと、彼女は素直にそれを口に入れる。一口食べて、ここに来てから初めての笑顔を見せた。

「お口に合ったようで、嬉しいわー」

 クラリッサが微笑む。それから暫くの間クォン以外の一同は、ジゼルが幼女に雑炊を食べさせる様子をお茶を飲んだりしながら眺めていた。幼女が食事を終える頃、クォンのほうの検査も終わったようだ。

「これ、ただの石じゃないっすよ。有機物っつーか、生体反応があります。そこからちょっと予想はしてたんすけど、組成が魔装機に酷似してました。んでも、内部構造は全くの別物みたいっすね。――あぁ、念の為、本星のデータバンクにアクセスして『魔人血晶(まじんけっしょう)』の情報と照合してみたけど、一致度は三十六パーセントだ。こいつは『魔人血晶(まじんけっしょう)』じゃねーなー」

 後半はアッシュに向けた言葉だろう。アッシュはクォンに問い返す。

「でも、三十六パーセントは同じなんだろ? それに、魔装機に似てるって? 結局、いったいこの石はなんなんだ?」

「わかんねー」

 クォンはあっさりと白旗を揚げた。マークが考え込む。

「魔装機……ですか? この星で? なんだか酷く臭いますね」

「そうね……。――って、あれ? どこ行くの?」

 ジゼルの腕の中から幼女が抜け出していた。そして、ジゼルの隣に座るアッシュの膝の上に座り直す。

「……なんだ?」

「お、さすが色男」

「あら、懐かれたわねー」

 その様子を見て、クォンとクラリッサが笑った。卵から生まれた雛が最初に見たものを親と認識するようなインプリンティングなのか、幼女は自分を最初に助け起こしてくれたアッシュに懐いてしまったようだ。ジゼルが声を上げる。

「この()! あたしだって、そんなことまだしてもらってないのに!」

「いや、相手は子供だろ? 張り合うなよ」

 アッシュは言うが、ジゼルはしたり顔で反論してきた。

「甘いわね、ダーリン。女は何歳でも女なのよ?」

 なんだか、わかるようなわからないような意見だ。アッシュはカリカリと頭を掻く。視線を彷徨わせると、カテジナが羨ましそうな目で幼女を見ていた。妙な対抗心を燃やしていないことを祈ろう。そんなラブコメ空間に、マークが申し訳なさそうに割り込んできた。

「済みません。今は、その石の話を……」

 その言葉で、ジゼルは意識を小隊長モードに切り替えたらしい。

「そうだったわね。詳しいことは本人に聞いてみましょ。――そういえば、まだ名前も聞いてなかったわ。お名前、言える?」

 ジゼルが幼女に尋ねるが、彼女は首を振った。ジゼルは困ったように首を傾げる。

「教えてもらえないの? ――あ、そっか。あたしたちも名乗ってなかったもんね。あたしはジゼル。この人はアッシュ、あたしの旦那様よ」

「待て、子供に嘘を吹き込むな」

 アッシュは思わず突っ込んだ。ジゼルが頬を膨らませる。

「だって、きちんとわからせておかないと、あなたを狙ってくるかもしれないじゃない」

「だから、相手は子供だっつの」

 そんなやりとりの後、一同が順に自己紹介した。改めてジゼルが問う。

「これでいいかしら? お名前、言える?」

 しかし、幼女はもう一度首を振った。そこでアッシュは気付く。

「なぁ、ひょっとしたら、この()、喋れないんじゃないのか? そういえば、まだ一度も声を聞いてないぞ」

「……そうなの?」

 ジゼルが確認すると、今度は幼女が頷いた。元々そうなのか、なんらかのショックで一時的にそうなってしまったのかは判らないが、この幼女は口が利けないらしい。ジゼルが悲しそうな目で彼女を見詰めた。

「そう……。――それじゃ、字は書ける?」

 その問いには幼女はすぐに頷く。

「誰か、紙とペン――、あぁ、ありがと」

 ジゼルはカテジナからメモ帳とペンを受け取ると、幼女の前に置いた。

「じゃあ改めて、お名前、教えてくれる?」

 ジゼルが問うと、幼女はペンを握ってメモ帳に走らせる。だが、彼女が記したその文字列を読んだジゼルが、これまで聞いたこともないような激しい口調で叫んだ。

「そんなの、名前じゃないわ!」

 カテジナは息を飲んでいるし、常に陽気なクラリッサまでも眉をひそめている。話を聞きながらもキーボードを叩き続けていたクォンの手すら止まった。

「――なんだ? なんて書いてあるんだ?」

 雰囲気がおかしいことには気付いたが、この星の文字が読めないアッシュはそう尋ねるしかない。感情を押し殺したような声でマークが答える。

「……ひけんたいさんじゅうななばん、です」

 アッシュは一瞬、彼がなにを言っているのか解らなかった。すぐに、その音の羅列が頭の中で意味のある言葉に変換される。

「被験体三十七番!? なんだそれは!?」

 アッシュのその叫びには、誰もなにも答えられなかった。暫く居間の中に沈黙が降りる。やがてジゼルが無理に押し出したような優しい口調で尋ね直した。

「その前に呼ばれてた名前があるでしょ? それを教えて?」

 しかし、その問い掛けに幼女は首を振る。再び降りる沈黙。

 何分経っただろうか。突然、ジゼルが明るい声で宣言した。

「じゃあ、あたしが名前を付けてあげる。いい?」

 幼女はきょとんと不思議そうな顔で暫くジゼルの顔を見詰めていたが、やがて彼女の中でなにか納得することが出来たのか、コクリと頷く。ジゼルは小首を傾げて、思案顔になった。

「そうね……。あたしがジゼルだから――、オデット、っていうのはどう?」

 その確認に幼女はまたコクリと頷く。

「なにか関連性のある名前なのか?」

 そのアッシュの問いを聞いて、ジゼルはデレた後には初めてかもしれない呆れ返った調子で言った。

「もう! 自分の星の文化くらい、ちゃんと興味を持ってよね。あたしが一所懸命勉強してるのがばかみたいじゃないの」

「う……、なんかわからんけど済まん」

 訳が解らないながらも謝るアッシュ。そのコミカルなやりとりで、居間の中の空気が少し軽くなったようだった。ジゼルは視線を下げ、アッシュの膝の上の幼女を見る。

「あなたは今からオデットよ。わかった、オデット?」

 幼女――否、オデットはまたコクリと頷いた。それから、急に欠伸をする。その瞼が下がってきた。おそらく、とても疲れていたのだろう。満腹になって眠気が襲ってきたようだ。その様子を見て、ジゼルは壁に掛かった時計に視線を移した。

「もうこんな時間だったのね。子供は眠くなって当然だわ。それじゃ、話を聞くのは明日にしましょっか。皆もいい?」

 アッシュにはこの星の時計は読めないが、どうやらかなり遅い時間らしい。一同が了解の返事をするのを確認してジゼルが立ち上がった。

「あたしはオデットと一緒に寝るわね。明日になったらオデットから話を聞いて、今後の行動の方針を立てましょ。研究所の監視は続行。クォンも情報収集は適当なところで切り上げて、ちゃんと寝なさいよ? 明日は――、忙しくなるかもしれないから」

 そう言って、ジゼルはオデットを抱き上げようとする。アッシュはそれを遮ってオデットを抱え直すと、なんとか立ち上がった。

「俺が運ぶよ」

「ありがと。――ダーリンも一緒に寝る?」

 ジゼルが笑みを浮かべて聞いてくる。

「寝るか! ていうか、ダーリンって言うの止めろ」

 アッシュは速攻で突っ込んだ。

「冗談よ。アッシュはマークたちと一緒に寝てね」

「おう」

 ジゼルに先導されて居間を出る。彼女の部屋のベッドに運んできたオデットを横たえた。

「じゃあな。おやすみ」

 アッシュは踵を返す。と、不意にその背にジゼルがもたれ掛かってきた。

「あの研究所――」

「ああ。非人道的な実験が行われてることは間違いなさそうだな」

 言葉を詰まらせる彼女の代わりに、彼女が言わんとすることを口にする。

「うん。止めなきゃ」

「そうだな」

 背中に押し付けられているジゼルの顔は見られないが、彼女は少し涙声だった。アッシュは余計なことは言わずに短く返事をする。一分ほどの沈黙の後、ジゼルがその身を離した。

「――それじゃ、おやすみなさい」

「ああ――。おやすみ」

 アッシュは振り向かないまま、もう一度就寝の挨拶をする。そして部屋を出て、静かにドアを閉めた。

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