顔合わせⅢ
惜しかったのになぁ……。
ミカエルは、引き金を引いたまま動かなくなった一樹を静かに見つめていた。
結果だけを見れば、失敗だった。
一樹が放った弾丸は標的を捉えることなく、そのまま射線の先へと抜けていった。
たった一発。
けれど、その一発が一樹にとってどれほど大きな意味を持っていたのかは、撃つ前から分かっていた。
「…………外れた」
一樹の口から零れた声は小さかった。
それでも、その一言が彼の中で何かを崩したことくらい、ミカエルには容易に理解できた。
さっきまで張り詰めていた空気が消えている。
代わりに一樹の周囲を覆っているのは、諦めにも似た重苦しい感情だった。
そして、それは彼だけではない。
少し離れたところにいる天野明日奈も、一樹の背中を見つめたまま動こうとしない。
あの子も、ずいぶんと分かりやすいわね。
先ほどまでは勝負に勝つことしか考えていなかったように見えた。
けれど今は違う。
勝ったという喜びなど、彼女の中にはほとんど残っていない。
あるのは、おそらく後悔。
自分が賭けを受けたせいで、一樹を追い詰めてしまったのではないか。そんなことを考えているのだろう。
もっとも、本当に知りたければ確かめる方法はある。
ミカエルほどの天使なら、人間の表層意識を覗くことくらい難しくはない。
けれど、あえてそれはしなかった。
人の心は、読めばいいというものではない。
本人が自分で気づかなければ意味のない感情もある。
誰かに答えを与えられてしまえば、そこから先へ進めなくなることだってある。
それは長く人間を見てきたミカエルが、何度も目にしてきたことだった。
人間は不思議だ。
自分より優れた誰かを見れば悔しがり、負ければ落ち込み、それでも再び追いつこうとする。
劣等感も、嫉妬も、悔しさも、本来なら苦しいだけの感情だ。
それなのに、人間は時として、その感情を力へ変える。
天使には、あまり理解できない感覚だった。
ミカエルたち天使は、生まれた時から自分の力を持っている。
強大な力を持つことに疑問を抱くこともなければ、他者と比べなければ自分の価値を確認できないわけでもない。
だが、人間は違う。
他人を見て、自分を見る。
負けて、悔しがって、もう一度挑む。
そうして何度も傷つきながら、自分という存在を形作っていく。
だからこそ、人間は面白い。
そして――強い。
ただし、それは壁を乗り越えることができた者の話だ。
今、一樹はその壁の前で立ち尽くしている。
いや。
一度、ぶつかって。
そして、負けた。
ミカエルは事前に確認した一樹の資料を思い返した。
絢兎部一樹。
赤城学園一年。
学園内総合評価、最下位。
天使から供給される力を一切発現できない、唯一の生徒。
しかし、それ以前の経歴はまるで別人だった。
学業成績は常に上位。
運動能力にも優れ、何をさせても一定以上の成果を残している。
人間関係にも恵まれ、周囲から頼られることも多かった。
おそらく彼は、それまで本当の意味で「できない」という経験をほとんどしてこなかったのだろう。
だからこそ、一度つまずいた時の立ち直り方を知らない。
「……心が弱いのね」
誰にも聞こえないほどの声で、ミカエルは呟いた。
責めるつもりはなかった。
むしろ逆だ。
今まで強くいられたからこそ、弱くなった自分を受け入れることができていない。
できない自分を知らなかった人間が、突然すべてを否定された。
その傷は、最初から自分の弱さを知っている人間よりも深いのかもしれない。
だから、一樹は逃げた。
努力しても意味がない。
どうせ自分にはできない。
最初からそう思っておけば、失敗した時に傷つかなくて済む。
そんな生き方を選び始めた。
けれど――。
「それでも、今日……銃を構えたのよね」
ミカエルは小さく笑った。
完全に諦めた人間なら、あれほど緊張などしない。
あれほど一発の弾丸に自分の価値を乗せようとはしない。
一樹はまだ諦めていない。
心の奥底では、今でも上へ行きたいと思っている。
だからこそ、失敗がこれほど苦しいのだ。
問題は、もう一度立ち上がれるかどうか。
そこだけだった。
ただ――ミカエルには、それ以上に気になることがあった。
絢兎部一樹という少年そのものだ。
本来、人間は天使から与えられた力を受け取り、自分の中で変換することで異能として発現させる。
程度の差こそあれ、誰にでもできる。
少なくとも、これまでミカエルが見てきた人間は全員そうだった。
なのに、一樹だけは違う。
受け取れない。
正確に言えば――こちらから力を与えようとしても、何かに阻まれているような感覚がある。
器がないわけではない。
適性が低いとも違う。
もっと根本的な部分で、普通の人間とは構造が違う。
そんな違和感があった。
人間から見れば、力を使えない一樹は「落ちこぼれ」だろう。
役に立たない。
才能がない。
そう評価されても仕方がない。
けれど、天使であるミカエルから見れば正反対だった。
分からない。
だからこそ、異常なのだ。
これまで一度も存在しなかった例外。
それが絢兎部一樹という少年だった。
「……貴方、本当に何者なのかしら」
小さく呟く。
答えは返ってこない。
もちろん、今ここで一樹本人に訊いたところで分かるはずもない。
本人自身、自分がなぜ力を使えないのか知らないのだから。
それに――。
先ほど、一樹へ力を流そうとした瞬間。
ほんの一瞬だけ。
ミカエルは覚えのある何かを感じていた。
力ではない。
波長とも違う。
もっと曖昧な――まるで匂いのようなもの。
ずっと昔にどこかで感じたことのある、懐かしい気配だった。
けれど、それが何なのかまでは思い出せない。
気のせいと言われれば、それまでだった。
「…………すみません。俺……今日はもう、寮に戻ります」
一樹の声に、ミカエルは思考を止めた。
見ると、一樹はライフルをその場へ残したまま立ち上がっていた。
先ほどまで大切そうに扱っていた銃だ。
それを拾おうとすらしない。
「一樹……」
明日奈が呼び止めようとした。
だが、一樹は振り返らなかった。
「悪い。今日は……一人にしてくれ」
そのまま、森の奥へ続く道を歩いていく。
力の抜けた背中だった。
ほんの数分前まで、一発の弾丸にすべてを懸けていた少年とは思えない。
明日奈も追いかけない。
いや、追いかけられないのだろう。
彼女は一樹が残していったライフルを見つめたまま、唇を強く噛んでいた。
今日は無理ね。
ミカエルは小さく息を吐いた。
ここで自分が追いかけても意味はない。
慰めの言葉を投げたところで、一樹には届かない。
むしろ今の彼には、他人から与えられた優しさすら、自分の弱さを証明するものに見えてしまうだろう。
ならば、少しだけ時間を置くしかない。
ただし――。
このまま放っておくつもりもなかった。
「もう……やるしかないみたいね」
誰に聞かせるでもなく、ミカエルは呟いた。
一樹が自分で立ち上がるのを待つ。
それは必要だ。
けれど、立ち上がるための場所くらいは用意してあげてもいい。
それくらいなら、余計なお節介にはならないだろう。
ミカエルは背中から翼を広げる。
真紅の羽根が大きく開き、周囲の空気を揺らした。
そのまま地面を蹴り、木々の上へと一気に舞い上がる。
眼下には、ライフルを拾い上げる明日奈の姿。
そして少し離れた道の先には、寮へ戻っていく一樹の小さな背中が見えた。
高度を上げながら、ミカエルはもう一度だけ一樹へ視線を向ける。
「……でも」
胸の奥に残っている違和感。
あの瞬間に感じた、記憶の底を掠めるような気配。
「懐かしい匂いがしたのは……本当に気のせいなのかしら」
その答えを知る者は、まだ誰もいない。
ミカエル自身でさえも。
ただ一つ確かなのは、絢兎部一樹という少年が、彼女の知るどんな人間とも違っているということだけだった。
ミカエルはその疑問を胸に残したまま翼を羽ばたかせ、自分の仕事場である学園長室へと戻っていった。




