顔合わせⅣ
あの射撃訓練から数日が経った。
そして俺の日常には、一つだけ、とんでもなく面倒な決まりが加わっていた。
「一樹。そこ取って」
「はいはい、明日奈様」
「……なんか腹立つわね、その言い方」
「約束だから仕方ないだろ、明日奈様」
「わざとでしょ、あんた」
最初の二日くらいまでは、まだ笑えていた。
賭けに負けた結果、一か月の間、明日奈の名前に『様』を付ける。
自分で了承した条件だ。
だから、その程度なら別にいいと思っていた。
むしろ普段なら絶対に口にしない呼び方をしているのが妙におかしくて、最初のうちは俺自身も楽しんでいたくらいだ。
けれど、三日目を過ぎたあたりからだった。
明日奈の名前を呼ぶたび、胸の奥に何かが引っかかるようになった。
「……俺、こんなことでいいのかな」
誰にも聞こえないよう、小さく呟く。
昔の俺なら、こんな状況にはなっていなかった。
中学の頃は、明日奈や憐矢たちより一歩先を歩いているのが当たり前だった。
勉強でも。
運動でも。
何か新しいことを始めても。
俺が先にできるようになって、後ろからついてくるみんなに教えていた。
それが普通だった。
なのに今はどうだ。
天使の力を使えない。
学園順位は最下位。
射撃でも明日奈に負けた。
そして今は、その明日奈を『様』付けで呼んでいる。
賭けに負けただけ。
たったそれだけの話だ。
頭では分かっている。
なのに、あの日の射撃で一度だけ顔を出した昔の自分が、それを許してくれなかった。
忘れたつもりだった自尊心。
どうせ俺なんて、と諦めることで押し殺していたはずの感情。
それが少しずつ戻ってきていた。
目の前にいる明日奈の黒髪が、窓から差し込む陽の光を受けて艶やかに輝いている。
眩しくて目を逸らしたくなる。
けれど、逸らせばきっと、
『なに目を逸らしてんのよ』
そんなことを言われる気がして、俺はそのまま彼女を見ていた。
「一樹。これから私、戦術の授業なんだけど。あんたは?」
「俺は行かない」
「なんでよ」
「受けたところで意味ないだろ。俺が戦場に出られるわけでもないんだし」
「はぁ?」
明日奈の眉がぴくりと動いた。
「明日奈……様は行けばいいじゃん。射撃の腕もあるんだし、あとは戦術を覚えて選抜に入るだけだろ」
「……その『様』やめなさいよ。なんか馬鹿にされてるみたい」
「約束だから仕方ないだろ?」
「それはそうだけど……」
明日奈は少しだけ顔をしかめてから、話を戻した。
「とにかく、私は行くわよ。銃が撃てるだけじゃ戦場じゃ意味ないもの。どれだけ腕が良くても、味方と連携できなかったらただの的よ」
「へぇ……」
「何よ、その顔」
「いや。意外とちゃんと考えてるんだなって」
「ぶん殴るわよ」
「怖っ」
いつものやり取り。
いつもなら、それで終わるはずだった。
でも、その日は違った。
「一樹も来なさいよ」
「……は?」
「戦術の授業」
「だから行かないって」
「なんでよ。あんた頭は悪くないでしょ?」
「能力が使えない」
「戦術に能力が必要?」
「……」
言葉に詰まった。
明日奈はその隙を逃さなかった。
「射撃が駄目なら別のところを伸ばせばいいじゃない。戦術科目は実技より競争率も低いし、あんたなら上位に行けるかもしれない」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃないわよ。でも、やる前から諦めるよりマシでしょ?」
「俺はいいって」
「よくない」
「なんで明日奈が決めるんだよ」
「見てて腹立つからよ!」
そう言うなり、明日奈は俺の左腕を掴んだ。
「ちょっ、何すんだよ!」
「戦術の授業に行くの!」
「行かないって言ってんだろ!」
「うるさい!」
そのまま強引に引っ張られる。
抵抗しようと思えばできたはずなのに、俺は結局されるがまま教室を出た。
学舎から大講堂へと続く長い廊下。
俺と明日奈は並んで歩いていた。
しばらく互いに口を開かなかった。
やがて、明日奈が少しだけ歩調を緩める。
「ねぇ、一樹」
「何だよ」
「その……さ」
珍しく歯切れが悪い。
俺が横を見ると、明日奈は前を向いたまま言った。
「もう、私に『様』って付けなくていいわよ」
「……は?」
「だから、明日奈様って呼ばなくていいって言ってるの」
「なんで」
「なんでって……」
明日奈は視線を泳がせた。
「他のクラスの奴らが変な目で見るし。それに……なんか、もういいかなって」
「でも、賭けで決めただろ」
「それはそうだけど」
「なら続けるよ」
「一樹」
「俺が負けたんだから」
自分でも分かるくらい、声が低くなっていた。
「約束したんだ。負けたら一か月、明日奈に様を付けるって」
「でも私はもういいって言ってるのよ?」
「俺がよくない」
明日奈が足を止めた。
俺も数歩先で立ち止まる。
「……どういう意味?」
「そのままの意味だよ」
胸の奥が軋む。
自分でも分かっていた。
これは、ただの呼び方の話じゃない。
「俺、負けたんだよ」
「……うん」
「明日奈に負けた。約束もした。なら、それを守る。それくらいしか……もう俺には残ってないんだよ」
「一樹……?」
明日奈の表情が変わった。
さっきまでの苛立ちは消え、代わりに戸惑いが浮かんでいる。
「だから、このままでいい。頼むから」
「でも……」
「頼むって」
再び歩き始める。
顔は上げられなかった。
今、明日奈がどんな顔をしているのか見たくなかった。
「一樹」
「……何」
「やっぱりやめよう」
胸の奥で何かが軋んだ。
「あの賭け、なかったことにしようよ」
「……」
「あの時は私も頭に血が上ってたし、勢いで言っただけだから。だからもう普通に明日奈って呼んでよ」
やめろ。
「昔みたいに普通に話したいの」
やめてくれ。
「お願い、一樹」
違う。
お前はそんなつもりじゃない。
分かっている。
分かっているはずなのに。
頭の中では、別の声が響いていた。
――可哀想だから。
――惨めだから。
――負けた一樹をこれ以上追い詰めるのは可哀想だから。
そんな理由で、なかったことにしようとしているんじゃないのか。
明日奈は俺を哀れんでいる。
そう考えた瞬間、もう止められなかった。
「……頼むから、このままにしてくれ」
「でも私は――」
「頼むって言ってるだろ」
それでも明日奈は黙らなかった。
それが、今の俺には辛かった。
「私はただ、普通に話したいだけなの。様なんて付けなくていいから。前みたいに――」
その瞬間。
俺の中で何かが切れた。
「……明日奈」
「え?」
久しぶりに、様を付けずに名前を呼んだ。
その一言だけで、明日奈の表情がぱっと明るくなった。
それが余計に腹立たしかった。
「一樹……?」
「お前さ」
喉の奥が震えている。
自分でも、次に何を言うのか分からなかった。
ただ、今まで押し殺していたものが一気に溢れてくる。
「そんなに俺のこと苛めて楽しいのか?」
「……え?」
「そんなに俺のプライドを踏み潰したいのかよ!」
廊下に俺の声が響いた。
明日奈の肩が跳ねる。
「ち、違う! 私は――」
「何が違うんだよ!」
もう止まらなかった。
「俺が惨めだからだろ!? 可哀想だから、もう様付けしなくていいって言ってるんだろ!?」
「違うって言ってるでしょ!」
「じゃあ何なんだよ!」
周囲を歩いていた生徒たちがこちらを見る。
そんなことすら、どうでもよかった。
「俺だって、こんな惨めな思いしたくねぇよ!」
声が震える。
「中学の頃は……俺がお前たちの前を歩いてたんだよ! 俺が先にできるようになって、お前たちに教えて、何かあったら俺がどうにかして……それが俺の役目だった!」
あの頃の光景が、頭の中に次々と浮かんでくる。
「なのに今は何だよ! 能力一つ使えないだけで学園最下位! 射撃でも負けて! 何をやってもお前たちより下で!」
「一樹……」
「そんな俺を見て、お前たちは優しくしてくる!」
「それの何が悪いのよ!」
「それが嫌なんだよ!」
明日奈が息を呑んだ。
「『一樹は辛いよね』とか、『私たちは分かってるよ』みたいな顔して! そんなの結局、俺を下から見てるだけじゃねぇか!」
「そんなこと……!」
「俺は慰めてほしいんじゃない!」
胸が痛い。
呼吸が苦しい。
それでも言葉は止まらない。
「同情してほしいんじゃない! 可哀想だって思ってほしいんじゃない!」
俺が欲しかったものは、そんなものじゃない。
「俺はただ、お前たちと同じ場所にいたいんだよ!」
明日奈の瞳が揺れた。
「同じ場所に立って……できるなら、昔みたいにお前たちの一歩先を歩きたい。それだけなんだよ!」
「……」
「それなのに、お前は何だよ」
拳を握る。
「俺が負けて決めた約束まで、可哀想だから無かったことにするのか?」
「だから違うって……」
「違わねぇよ!」
俺の声が廊下中へ響いた。
「俺にはもう、これくらいしか残ってないんだよ!」
約束したことを守る。
負けたなら、負けを認める。
嫌でも逃げない。
それだけだった。
今の俺が、昔の俺と同じだと言えるもの。
「俺が負けたんだから、一か月様を付ける。それを最後までやる。それが今の俺に残ってる、最後のプライドなんだよ!」
明日奈は何も言わなかった。
「なのにお前は、それまで無かったことにしようとしてる!」
「私は……ただ……」
「それをされた俺がどう思うか、考えたことあるのかよ!」
声が掠れた。
「俺を惨めだと思ってるからだろ。だから助けようとするんだろ」
「違う……」
「そんなに俺のことを惨めな奴にしたいのかよ!」
「違う!」
「じゃあ何で分かってくれないんだよ!」
そこで、ようやく息が切れた。
肩が大きく上下する。
廊下は、不気味なほど静かになっていた。
目の前の明日奈は、何も言わない。
ただ俺を見ている。
さっきまで俺の名前を呼ばれたことを嬉しそうにしていた顔は、もうどこにもなかった。
代わりに浮かんでいたのは、傷ついたような表情だった。
それを見て、頭のどこかでは分かっていた。
言い過ぎた。
明日奈は俺を傷つけたかったわけじゃない。
本当は最初から分かっていた。
それでも――今の俺には、止めることができなかった。




