顔合わせⅡ
「……一樹」
銃声の余韻が森の奥へ消えていく。
その直後、一樹の周りから、それまで張り詰めていたものが一気に抜け落ちたように見えた。
「…………外れた」
たった一言だった。
けれど、その声を聞いた瞬間、私は自分がとんでもないことをしてしまったのではないかと思った。
最初は、本当にただの賭けだった。
広場で一樹が勢いのまま勝負を持ちかけてきて、私も深く考えずに受けた。
一樹は昔からそうだ。頭に血が上ると、後先を考えないまま突っ走るところがある。
中学の頃なら、そんな一樹を私が止めることもできた。
なのに今日は止めなかった。
私があの時、賭けなんて受けなければ。
そんな考えが頭に浮かんだところで、もう遅い。
結果は出てしまった。
一樹の負けという形で。
私は自分が撃ち終わった時まで、この勝負をそこまで重く考えていなかった。
勝ったら一か月“様”を付けさせる。
ただ、それだけのことだった。
いつものように一樹とくだらないことで言い合って、最後には笑って終わる。
そんな程度のものだと思っていた。
でも、一樹がライフルを構えた時、その考えが変わった。
空気が違った。
普段の、何を言っても適当に笑って流してしまう一樹ではなかった。
中学時代の彼に、少しだけ戻ったように見えた。
何をやらせても人並み以上にこなして、自分ならできると疑いもしなかった頃の一樹。
誰かに背中を押される側じゃなく、いつだって私たちより前を歩いていた一樹。
あの頃の彼が、ほんの一瞬だけ戻ってきた気がした。
だから、期待してしまった。
――もしかしたら、当てるかもしれない。
――これをきっかけに、一樹がまた前を向けるかもしれない。
そんなことを思った。
でも同時に、別の考えも浮かんでいた。
もし、外したら?
一樹はどうなるんだろう。
その答えを考えようとした瞬間、胸の奥が冷たくなった。
私は知っている。
一樹がどれだけ「学園最下位」という言葉を嫌っているのか。
この学園に来るまで、一樹は何でもできた。
勉強も、運動も、人付き合いだって。
何かにつまずいて立ち止まる一樹なんて、私はほとんど見たことがなかった。
だからこそ、赤城学園へ入ってからの一樹は、私の知っている彼とは別人みたいだった。
天使の力が使えない。
たったそれだけで、どれだけ他の能力があっても評価されない。
努力しても、結果に繋がらない。
そしていつの間にか、一樹は努力することそのものをやめてしまった。
「どうせ俺にはできないから」
笑いながら、何度もそう言うようになった。
けれど、私は知っている。
本当は、どうでもいいなんて思っていない。
授業で能力を使える生徒を見た時。
ランキングの話をされた時。
誰かに「最下位」と呼ばれた時。
一樹はほんの一瞬だけ、悔しそうな顔をする。
すぐに笑って誤魔化すから、知らない人なら気づかない。
でも、私はずっと一樹を見てきた。
だから分かる。
本当はずっと悔しかったんだ。
本当はもう一度、上に行きたかったんだ。
そして今日、一樹はもう一度そこへ手を伸ばした。
学園長に期待されて。
もしかしたら自分にも力があるかもしれないと言われて。
もう一度だけ、自分を信じようとした。
その結果が――外れた一発だった。
「…………」
何か言わなきゃ。
そう思った。
でも、何を言えばいい?
大丈夫?
次がある?
気にしなくてもいい?
そんな言葉が、今の一樹に届くとは思えなかった。
むしろ、一番言ってはいけない気がした。
私は慰められることが嫌いだった。
本当に辛い時に「大丈夫」と言われても、大丈夫じゃないから辛いのだ。
だから、一樹にも同じことをしたくなかった。
だったら、いつもみたいに馬鹿にすればいい?
「やっぱり私の勝ちね」
そんなふうに笑えば、一樹もいつものように言い返してくるかもしれない。
でも、それもできなかった。
今の一樹にそんなことを言えば、本当に壊れてしまう気がした。
何も言えない。
何もしてあげられない。
それが、こんなにも苦しいなんて思わなかった。
私は一樹に、昔からたくさん助けてもらった。
学校に行くことが嫌だった時も。
人とうまく話せなかった時も。
私が誰かとぶつかった時も。
一樹はいつも間に入ってくれた。
私がどれだけ強い言葉をぶつけても、本気で突き放すことはなかった。
だから今度は、私が何かしてあげたい。
一樹が苦しいなら、一緒に考えたい。
一樹が立ち止まったなら、もう一度歩き出せるまで近くにいたい。
そう思っているのに。
私は昔から、そういうことを素直に言えない。
心配すればするほど、口から出るのは反対の言葉ばかりだ。
馬鹿。
弱い。
しっかりしなさい。
本当はそんなことを言いたいわけじゃないのに。
どうして私は、いつもこうなんだろう。
「…………すみません。俺……今日はもう、寮に戻ります」
一樹が立ち上がった。
その声を聞いた瞬間、胸が締め付けられた。
さっきまでライフルを握っていた彼とは思えないほど、力のない声だった。
そして、一樹は自分のライフルをその場へ置いた。
いつもなら、そんなことは絶対にしない。
誰も使いたがらなかったライフルを、自分から選んで。
「俺と同じだから」
そう言って笑っていた。
使いにくいと評判だったそれを、一樹は何度も整備して、何度も撃って、自分の手に馴染ませてきた。
一心同体だとまで言っていた。
そんな銃を置いていく。
その事実だけで、一樹が今どれほど追い詰められているのかが分かってしまった。
「一樹……」
呼び止めようとした。
でも、その続きが出てこない。
一樹の足が止まる。
ほんの少しだけ、期待した。
振り返ってくれるかもしれない。
そう思った。
「悪い。今日は……一人にしてくれ」
「…………」
何も言えなかった。
ただ、一樹の背中を見つめることしかできなかった。
一歩。
また一歩。
私たちから離れていく。
いつもなら誰よりも大きく見えていた背中が、今日はどうしようもなく小さく見えた。
追いかければいい。
たった数歩走れば、すぐに追いつける。
腕を掴んで、無理やりにでも止めればいい。
それなのに、足が動かなかった。
何を言えばいいのか分からない。
追いかけたところで、また傷つけてしまうかもしれない。
そんなことばかり考えているうちに、一樹の姿は木々の向こうへ消えていった。
「…………」
何もできなかった。
本当に、何一つ。
視線を落とす。
そこには、一樹が置いていったライフルがあった。
傷の目立つ、決して新しくもない銃。
みんなが扱いづらいと言って避けた銃を、一樹だけが使い続けてきた。
なんとなく、その銃が一樹自身のように見えた。
周りから必要とされなくても、自分の居場所を探して。
誰かに認めてほしくて。
それでもうまくいかなくて。
それでも、本当は諦めきれていない。
私はゆっくりと膝を曲げ、そのライフルを拾い上げた。
ずっしりとした重さが両腕へ伝わってくる。
何度も一樹が握ってきたグリップには、使い込まれた跡が残っていた。
「…………ごめんね、イッキ」
気づけば、昔の呼び方が口から零れていた。
中学時代、一樹が今よりずっと自信に満ちていた頃。
私たちが何も考えず、毎日のように一緒に笑っていた頃の呼び方。
視界が僅かに滲んだ。
泣きそうになっていることに気づき、強く唇を噛む。
ここで泣くのは嫌だった。
泣くなら、自分の部屋でいい。
今は一樹の銃をちゃんと持って帰らなきゃいけない。
それくらいしか、今の私にはできないから。
「……馬鹿」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
一樹に対してなのか。
何もできなかった自分に対してなのか。
おそらく、その両方だ。
私は涙が零れないように少しだけ顔を上げ、一樹のライフルを胸元へ抱える。
そして、一度だけ彼が消えていった方向を見つめてから、クラスメイトたちが集まる場所へ戻るため、ゆっくりと歩き出した。




