顔合わせ★
あの射撃訓練から、五日が経った。
それからの学校生活は、一樹にとって軽い地獄のようなものになっていた。
「ほら、一樹。ちゃんと“様”を付けなさいよ。約束したでしょ?」
「……分かってるよ、明日奈様」
口にするたびに、胸の奥が妙にざらつく。
たかが呼び方だ。しかも、自分から持ちかけた賭けに負けた結果なのだから、文句を言える立場でもない。
それでも、一樹にとってあの日の敗北は、単なる賭けの結果ではなかった。
五日前――。
ミカエルに直接教えを受け、天使の力を引き出そうとしながら放った、あの一発。
一樹は震える指で引き金を絞った。
銃声が森の中を駆け抜け、撃ち出された実弾は一キロ先のアルミ缶へ向かって一直線に飛んでいく。
――はずだった。
弾丸は標的の脇を僅かに逸れ、そのまま後方の土へと深く突き刺さった。
「うおっ!?」
少し離れた位置で別の射撃をしていた憐矢が、思わず身を屈める。
「危ないな、一樹……。射線管理くらいはしっかりしろ」
「…………外れた」
憐矢の声は、一樹の耳にはほとんど入っていなかった。
スコープの中央には、何事もなかったようにアルミ缶が立ち続けている。
たった、それだけだった。
だが、一樹にとっては十分すぎる結果だった。
――結局、駄目だった。
胸の奥に生まれた期待が、一瞬で崩れていく。
もしかしたら。
今日なら。
学園長が直接教えてくれるのなら。
自分にも、他の生徒と同じように天使の力を使えるかもしれない。
そんな期待を抱いてしまったからこそ、外れたという事実が重かった。
結局、俺は何も変わっていない。
学園最下位。
能力を使えない落ちこぼれ。
その評価を覆すどころか、たった一発の弾丸すら満足に当てられなかった。
「……一樹」
明日奈の声が聞こえた。
いつものような勝ち誇った声音ではない。
一樹が顔を上げると、明日奈は何か言いたそうにこちらを見ていた。
その隣では、ミカエルも黙っている。
二人とも、少なからず期待していたのだろう。
少なくとも一樹には、そう見えた。
だからこそ、その視線が痛かった。
責められているわけではない。
笑われているわけでもない。
それでも、一樹には二人の優しささえ、自分の失敗を突きつけるものに感じられてしまった。
期待された。
なのに、応えられなかった。
ただ、それだけのことが胸の奥を強く締めつける。
「綺兎部君」
ミカエルが静かに声を掛けてきた。
「今日は駄目だったけど、それだけよ。今度、時間を取って私がもう一度教えてあげる。力が使えるようになるまで、ちゃんと付き合うから」
「…………はい」
それが励ますための言葉だということは分かっていた。
悪意なんて一欠片もない。
むしろ、自分のためを思って言ってくれている。
だからこそ、苦しかった。
――次がある。
――また頑張ればいい。
そんな言葉を受け入れるには、一樹は自分自身に失望しすぎていた。
また期待される。
そして、また失敗するかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥に冷たいものが広がった。
こんな惨めな思いをするくらいなら、何も期待されない方がいい。
何もできない人間だと思われていた方が、まだ楽だった。
――死んだ方がマシな人間。
ふと、そんな言葉が頭を過った。
一度浮かんでしまった言葉は、簡単には消えてくれない。
何度も、何度も、頭の奥で反響する。
この学園では、結果を出せる人間が評価される。
能力を磨き、戦闘技術を身につけ、代理戦争へ出る。
国のために戦うため、この場所には何万人もの学生が集められている。
その中で自分は何をしている?
他の生徒は結果を残している。
明日奈も。
憐矢も。
みんな、自分の得意なものを持っている。
それなのに、自分だけが何も持っていない。
中学までは違った。
勉強も、運動も、誰かに負けることなんてほとんどなかった。
努力をすれば結果が出たし、結果が出れば周囲も認めてくれた。
それが当たり前だった。
だからこそ、一樹は自分に自信を持っていた。
赤城学園でも、同じようにやれると思っていた。
――でも、違った。
どれだけ頑張っても、天使の力だけは使えなかった。
そして今度は、学園長にまで期待してもらったのに、その期待に応えることすらできなかった。
俺には、何が残ってるんだろう。
そんな疑問が浮かんだ時、一樹はもう銃を握っていられなかった。
「…………すみません」
小さく呟き、一樹は立ち上がる。
いつもなら丁寧に扱っているライフルを、その場へ静かに置いた。
「俺……今日はもう、寮に戻ります」
「一樹?」
明日奈が呼び止める。
けれど、一樹は振り返らなかった。
今、彼女の顔を見たら、何を言われても耐えられない気がした。
慰められても苦しい。
怒られても苦しい。
優しくされることさえ、今の自分には辛かった。
「悪い。今日は……一人にしてくれ」
それだけを残して、一樹は歩き出した。
いつもよりずっと重い足を、一歩ずつ前へ運ぶ。
背後では、明日奈もミカエルも何も言わなかった。
いや、本当は何か言っていたのかもしれない。
ただ、一樹には聞こえなかった。
聞こうとも思えなかった。
一度だけでも振り返っていれば、明日奈がどんな顔で自分を見ていたのか分かっただろう。
ミカエルが、外れた弾道ではなく一樹自身をどんな目で見つめていたのかにも気づけたかもしれない。
けれど、今の一樹にそんな余裕はなかった。
ただ俯いたまま、自分が暮らす寮へ向かって歩き続ける。
その背中は、普段よりもずっと小さく見えた。




