学園生活Ⅴ★
一樹が深々と頭を下げる姿を、明日奈は少し驚いたように見つめていた。
普段の一樹なら、ここまで素直に誰かへ教えを請うことはほとんどない。
けれど、明日奈にはなんとなく理由が分かっていた。
一樹はずっと――『学園最下位』という言葉を嫌っている。
中学時代から一緒にいたからこそ、それくらいは言葉にされなくても分かる。
昔の一樹は、何をやらせても人並み以上にこなす人間だった。
勉強も運動も、少し努力すれば結果を出した。成績だって学年上位を維持していたし、何か新しいことを始めても、気が付けば周囲より先へ進んでいた。
そんな一樹にとって、赤城学園での二か月は初めて経験するほどの挫折だったのだろう。
この学園では、銃器の扱いや身体能力だけでは評価されない。
天使から与えられた力を、どれだけ扱えるか。
それが成績を大きく左右する。
そして一樹だけが、その力を一度として発現させられていなかった。
教師に教えられた方法を試しても、他の生徒と同じ訓練を繰り返しても、何も起こらない。
結果として、一樹の評価は最下位まで落ちた。
才能がない。
適性がない。
そんな言葉を何度も向けられ、いつの頃からか一樹自身も、真面目に努力することをやめてしまった。
どうせ何をやっても変わらない。
そう思っているように見えた。
それでも――。
明日奈は知っている。
ふざけて笑っている一樹が、ランキングを見た瞬間だけ、ほんの少し悔しそうな顔をすることを。
だから今、学園長であるミカエル本人から「力を引き出せるかもしれない」と言われたことが、一樹にとってどれほど大きな意味を持つのかも分かっていた。
「ええ。私でよければ、これからも直接見てあげるわ」
「ありがとうございます!」
一樹は勢いよく顔を上げた。
その表情を見て、明日奈は思わず目を細める。
久しぶりに見た気がした。
何かを本気でやろうとしている時の、一樹の顔。
――やっと、俺にも可能性が出てきた。
胸の奥から、そんな思いが込み上げてくる。
これまで何をやっても発現しなかった能力。
周囲から何度も役立たずのように扱われ、そのたびに気にしていないふりをしてきた。
けれど、学園長本人が教えてくれる。
それなら、本当に何かが変わるかもしれない。
最下位から抜け出せるかもしれない。
そんな期待が、一樹の顔に隠しきれない笑みを浮かばせていた。
「それじゃあ綺兎部君。まずは私が言う通りにやってみて」
「はい!」
「一度で成功しなくても気にしないこと。今日駄目なら、また別の方法を考えればいいわ。あなたの力がどういうものなのか分かるまでは、私も付き合ってあげるから」
「本当ですか?」
「もちろん」
ミカエルが少し身を屈め、一樹の顔を覗き込む。
距離が近い。
一樹は反射的に身体を僅かに仰け反らせた。
「…………」
「一樹」
「な、なんだよ?」
「顔、赤いわよ」
「赤くなってない!」
「なってるわよ!」
「なってないって!」
明日奈がじっと睨みつけてくる。
「そうやってすぐ女の人に鼻の下伸ばすの、本当にどうかと思うわ」
「伸ばしてねぇよ! というか、すぐ殴ったり撃ったりしてくる明日奈に言われたくないんだけど!」
「何よ!」
「だから彼氏の一人もできないんだよ!」
「うるさいわね! 私にはちゃんと心に決めてる人がいるの!」
「…………え?」
一樹の動きが止まった。
「明日奈に?」
「何よ、その反応」
「いや……好きな奴いるんだな」
「……いるわよ」
明日奈が小さく視線を逸らす。
一樹は数秒考えたあと、真顔で言った。
「そいつ、大変そうだな」
「…………」
「明日奈に毎日撃たれたり殴られたり――」
「そこまで言わなくてもいいじゃない……」
「え?」
てっきり殴られると思っていた。
けれど明日奈は拳を振り上げることもなく、僅かに俯いている。
「……なんで落ち込むんだよ」
「知らない!」
顔を上げた明日奈は、一樹から逃げるようにそっぽを向いた。
そんな二人を交互に見ていたミカエルが、妙に納得したように何度か頷く。
「なるほどねぇ……」
「何がですか?」
「別に?」
「絶対何か分かってる顔じゃないですか」
「綺兎部君には、まだ分からなくてもいいことよ」
「なんですか、それ」
「そのうち分かるんじゃない?」
ミカエルは楽しそうに笑う。
その後ろで明日奈が何かを小声で呟いているが、一樹には聞き取れなかった。
「さて」
ミカエルが手を叩く。
「そろそろ本題に戻りましょうか。綺兎部君、ライフルを持って射撃位置について」
「分かりました」
一樹は愛用しているライフルを抱え、先ほど明日奈が射撃を行った場所へ向かった。
地面にうつ伏せになり、銃床を右肩へ押し当てる。
頬をストックへ添え、スコープを覗く。
一キロ先。
明日奈が撃ったものとは別のアルミ缶が、小さく視界の中央に映っている。
一樹は一度スコープから目を離すと、ボルトを引いた。
薬莢ではなく、新しい実弾が薬室へ送り込まれる。
カチリ、と金属音が鳴った。
「…………」
一樹はゆっくりと息を吸った。
吐く。
また吸う。
呼吸を一定に整えていく。
その時だった。
『綺兎部君』
「――っ」
突然、頭の中へ声が響いた。
反射的に後ろを振り返りそうになる。
『そのままでいいわ。私よ』
『……学園長?』
『そう』
一樹は目だけを動かし、少し離れた場所に立っているミカエルを確認する。
口は動いていない。
『これ……頭の中で話してるんですか?』
『正確には、私の思考をあなたへ直接届けているだけ。今はそこまで難しく考えなくていいわ』
『天使って本当に何でもありですね……』
『何でもはできないわよ』
どこかで聞いたような返答だな。
一樹はそんなことを考えながら、再びスコープを覗き込む。
『それじゃあ、一つ質問するわね』
『はい』
『綺兎部君にとって、天使の力ってどんなもの?』
『天使の力……ですか?』
一樹は少し考えた。
『やっぱり、凄く大きな力ってイメージです』
『大きな力?』
『だってそうじゃないですか』
照準を合わせながら、一樹は思考の中で答える。
『天使が現れる前まで、世界では戦争も紛争も続いていた。それが天使たちが現れてから、世界そのものが変わった』
炎を生み出す。
水を操る。
人間の身体能力を遥かに超える力を与える。
一人の存在が、それまでの兵器体系すら変えてしまった。
『そんなものを見てたら、俺には強大な力としか思えませんよ』
『なるほどね』
ミカエルは一樹の答えを聞きながら、僅かに目を細める。
『でもね。それが少し違うの』
『違う?』
『私たち天使が扱っている力そのものが、人間には大きすぎるのよ』
『……どういう意味ですか?』
『器の違い、と言えば分かりやすいかしら』
ミカエルの声音が少し真面目になる。
『天使は、自分自身の力をそのまま扱える。でも人間は違う。私たちから流れ込んでくる力のすべてを、一度に受け止めることはできない』
『だから、人によって使える量が違う?』
『そういうこと』
少し離れた場所では、明日奈が木へ背中を預けながら二人を見つめていた。
もちろん、二人が思考の中で会話をしていることなど知らない。
一樹が急に黙り込み、時折わずかに表情を変えるものだから、不思議そうに眉を寄せている。
『まずは小さく考えてみて』
『小さく?』
『ええ。大きな炎を出す必要もないし、何かを爆発させる必要もない。ほんの少しだけでいい』
ミカエルは続ける。
『私から流れてくる力を、ほんの僅かだけ受け取るイメージ。そして、その力を銃から弾丸へ流す』
『それだけですか?』
『それだけ』
『……簡単すぎません?』
『本来はね』
一樹は思わず眉を寄せた。
そんな一樹の表情を見て、明日奈も首を傾げる。
「……何あの顔」
何か納得できないことでも言われたのだろうか。
けれど、明日奈には分からない。
『とりあえずやってみましょう』
『はい』
『私から流れてくるものを全部受け取ろうとしない。ほんの少し。指先ですくう程度でいいわ』
一樹は目を閉じた。
そして意識を、自分の内側へ向ける。
何かが流れてくる。
そう想像する。
赤城学園の生徒たちが使う炎。
赤い光。
熱。
それをほんの少しだけ受け取り、腕を通し、ライフルへ流し込む。
「…………」
何も起こらない。
『焦らなくていいわ』
『でも……』
『もう一度』
一樹は息を整えた。
スコープの先には、一キロ先の標的。
明日奈は二発で当てた。
俺は――。
『それと一つ』
『なんですか?』
『この一発を外したら、あなたは一か月間、天野さんを「明日奈様」と呼ぶんだったわね?』
『…………』
一瞬にして、別の意味で集中が途切れた。
『学園長』
『なに?』
『今それ言います?』
『だって忘れてそうだったから』
『忘れてませんよ! というか一番忘れたいのに忘れられないんですよ!』
思わず身体が震える。
明日奈様。
一か月。
毎日。
想像しただけで胃が締め付けられる。
「絶対嫌だ……」
思わず声が漏れた。
「何が?」
少し離れた場所から明日奈が聞いてくる。
「なんでもない!」
「変なの」
明日奈は首を傾げる。
一樹は再びスコープへ目を戻した。
心臓の鼓動が速くなる。
さっきまでとは違う緊張が身体を包み込んでいく。
単なる賭け。
本来なら、それだけの話だった。
けれど今は違う。
学園長が自分を見ている。
能力を使えるかもしれないと言ってくれた。
そして、この一発が成功すれば――。
自分は変われるかもしれない。
「スゥ……」
息を吸う。
「ハァ……」
吐く。
呼吸を整えようとする。
しかし、さっきまで一定だった呼吸が徐々に乱れていく。
引き金へ指を伸ばす。
止まる。
また離す。
もう一度伸ばす。
また止まる。
時間だけが過ぎていった。
どれくらい経っただろう。
一分にも満たないはずなのに、一樹には何倍もの時間に感じられた。
周囲では銃声が鳴っている。
風が木々を揺らしている。
鳥が枝から飛び立つ。
けれど、それらの音が少しずつ遠ざかっていく。
自分の鼓動だけが、耳の奥で異様に大きく響いていた。
――外したらどうなる?
そんな考えが頭を掠める。
明日奈との賭けに負ける。
それだけじゃない。
また証明してしまう。
自分は何もできないのだと。
入学前の俺は、こんなんじゃなかった。
何をやっても、ある程度はできた。
努力すれば結果が出た。
勉強も。
運動も。
誰かに負けることはあっても、次は勝てると思えた。
だから赤城学園へ入学した時も、当然のように考えていた。
自分なら上へ行ける。
代理戦争の選抜に入り、いずれは学園の上位に立てる。
そんな根拠のない自信すらあった。
それが――たった一つ。
天使の力を使えない。
ただそれだけで、全部崩れた。
何度訓練しても炎は出ない。
どれだけ教えられても、何も感じない。
周りの生徒が当然のようにできていることを、自分だけができない。
いつしか努力することすら怖くなった。
頑張っても駄目だった時、自分には本当に何もないのだと認めなければならなくなるから。
だから諦めたふりをした。
どうせ無理だと笑って、授業も適当に受けるようになった。
そうしていれば、本気で負けたわけじゃないと思えたから。
でも――。
今は違う。
学園長が俺を見ている。
明日奈が俺を見ている。
俺自身が、もう一度やろうとしている。
もし、この一発を外したら。
もし、能力がやっぱり使えなかったら。
また――。
「ハァ……ハァ……」
呼吸が乱れる。
手のひらに汗が滲む。
スコープの中で、小さな標的が僅かに揺れて見えた。
明日奈はそんな一樹の様子を黙って見つめていた。
最初は勝負だった。
自分が勝って、一樹に「様」を付けさせる。
それだけのつもりだった。
けれど今は、そんなことはどうでもよくなっている。
――頑張って、一樹。
口には出さない。
出したところで、一樹の集中を乱すだけだ。
ただ心の中で願う。
当てて。
能力を使って。
昔みたいに、もう一度自信満々に笑ってほしい。
そんな一樹を見たいと思っていた。
一方で、ミカエルも黙って一樹を見ている。
先ほどまでの柔らかな笑みは消えていた。
赤い瞳が、一樹の背中をじっと見つめている。
――やっぱり、変ね。
能力を使おうとしている。
確かに一樹はそうしている。
こちらから僅かに力を流している。
普通の人間なら、微量であっても何かしら反応が起きるはずだ。
熱を感じる。
指先に炎が宿る。
身体能力が僅かに上がる。
けれど一樹には、それがない。
いや――。
違う。
何も起きていないわけではない。
ミカエルは僅かに目を細めた。
自分が流している力が、一樹の中へ入っていかない。
拒絶されているわけでもない。
まるで――もっと別の何かに触れた瞬間、消えているような。
その感覚に、微かに覚えがあった。
懐かしい。
ひどく遠い昔に感じたことのある――。
けれど、思い出せない。
ミカエルは一樹を見つめたまま、僅かに眉を寄せた。
――この気配……いったい……。
その頃、一樹はそんなミカエルの思惑など知る由もなく、自分自身と戦っていた。
引き金へ指を掛ける。
震えている。
心臓が痛いほど脈を打つ。
それでも、もう逃げたくなかった。
ここで逃げたら、本当に今までと何も変わらない。
「……やる」
小さく呟く。
指先へ力を込める。
スコープの中央。
一キロ先のアルミ缶。
そこへ照準を合わせた。
大丈夫。
できる。
俺ならできる。
そう何度も自分へ言い聞かせる。
最後にゆっくり息を吐き、途中で止めた。
一瞬だけ身体から余計な力が抜ける。
その瞬間――。
一樹は引き金を引いた。
――ドンッ!
腹の底まで響く銃声が森を震わせた。
肩へ強い反動が伝わり、銃口が跳ね上がる。
撃った。
たった一発。
そこに今の自分が持っているすべてを込めた。
「…………」
一樹はすぐにスコープを覗き直した。
明日奈も息を止める。
ミカエルもまた、何も言わずに一キロ先へ視線を向けた。
果たして――。
その一発が、一樹に何をもたらしたのか。
答えは、次の瞬間には明らかになる。




