学園生活Ⅳ
「それじゃあ、先にやらせてもらうわよ」
そう告げると、明日奈は迷いなく地面へとうつ伏せになった。
左手で銃床を支え、右手をグリップへ。肩へしっかりと銃床を押し当てると、頬をストックへ添え、スコープを覗き込む。
さっきまで俺とくだらない言い争いをしていた奴と同一人物とは思えないほど、その姿は様になっていた。
明日奈が使っているのは、一般的なボルトアクション式の狙撃銃だ。
彼女がボルトを引くと、金属同士が擦れ合う乾いた音が響き、実弾が薬室へ送り込まれる。
ここは赤城学園の正式な狙撃訓練場だ。
当然、使われているのは訓練用のおもちゃなんかじゃない。本物の銃と、本物の弾丸。
だからこそ、射線の先には広大な安全区域が確保されているし、訓練中の銃口管理には厳しい規則が設けられている。
まあ、その規則を平然と破って俺の足元へ撃ってきた奴が、今まさに目の前にいるわけだけど。
「…………」
明日奈がゆっくりと息を吸う。
肺を満たした空気を少しずつ吐き出し、途中で止める。
身体の動きが消えた。
指先だけが、静かに引き金へ触れる。
――ドンッ!
腹の底まで響く発砲音が森へと広がった。
銃口がわずかに跳ね上がり、遅れて遠くから乾いた着弾音が聞こえてくる。
明日奈はすぐにスコープから目を離さなかった。
数秒ほど標的を確認したあと、小さく息を吐く。
……今の反応。
外したな。
俺がそう思った直後、明日奈は何も言わずに右手をボルトへ伸ばした。
ボルトを引く。
金色の薬莢が薬室から弾き出され、地面へ落ちる。
続けてボルトを押し戻し、二発目を装填。
一つ一つの動作に無駄がない。
普段の明日奈を知っているからこそ、こういう時だけは素直に感心してしまう。
銃を握った時のこいつは、本当に強い。
「……………………」
再び静寂が訪れる。
もちろん、本当に音が消えたわけじゃない。
遠くでは他の生徒たちも射撃を続けている。断続的な発砲音が森のあちこちから響いていた。
それでも今の俺には、それらが妙に遠く感じられた。
明日奈がそれほど集中しているからだろう。
スコープの向こうにあるのは、一キロ先に設置された小さなアルミ缶。
肉眼では点にすら見えない標的だ。
明日奈は風を読むように周囲を見て、それから再び照準へ意識を戻した。
ほんのわずかに揺れていた木々の葉が止まる。
風が弱まった。
その瞬間だった。
――ドンッ!
二発目の銃声。
撃った直後、明日奈の口元がわずかに緩んだ。
今度は自信があるらしい。
俺も近くに置かれていた観測用のスコープを覗き込む。
「……マジか」
さっきまで立っていたアルミ缶が消えていた。
視線を少し横へ動かすと、数メートルほど離れた場所に、ひしゃげたアルミ缶が転がっている。
命中だ。
「ふぅ……」
明日奈がようやく銃から顔を離した。
小さく漏れた息は、失敗した時のものではない。
緊張から解放された安堵の息だった。
「明日奈。当たったんだよな?」
「見れば分かるでしょ?」
明日奈は立ち上がりながら、当然と言わんばかりに髪を払った。
「あれくらい楽勝よ。もう少し遠くてもよかったくらいね」
「……二発使ったくせに」
「何か言った?」
「何も言ってません」
睨まれたので即座に訂正する。
けれど、明日奈は平然とした顔をしているものの、ほんの少しだけ頬が緩んでいた。
たぶん本人も分かっている。
一発目で風の流れを読み違えたことも、二発目の直前に風が弱まったことも。
それでも、一キロ先の小さな標的へ二発で命中させた事実は変わらない。
普通に凄い。
「はい。次は一樹の番」
明日奈が俺の手にあるライフルへ視線を落とした。
「その銃で本当に当てられるのかしら?」
「やってみないと分からないだろ。それに、こいつなら結構当ててるんだぞ。授業でも何度か――」
「七百メートルくらいまでなら、でしょ?」
「うっ……」
痛いところを突いてきやがる。
確かに俺が比較的安定して命中させられるのは、七百メートル前後までだ。
一キロになると一気に難易度が上がる。
「私は二発だったから、一樹も二発以内で当てないと負けだからね」
「…………二発かぁ」
思わず弱音が漏れた。
正直、厳しい。
普段なら五発くらい撃って、そのうち一発当たれば上出来という距離だ。
しかも、相手は小さなアルミ缶。
このまま普通に勝負すれば、かなりの確率で俺が負ける。
つまり――。
一か月間。
天野明日奈を。
明日奈様と呼ばなければならない。
「…………最悪だ」
「何が最悪なのよ」
「いや、こっちの話」
そんな未来を想像しただけで胃が痛くなってきた。
どうする。
一発目で風を確認して、二発目で修正するか。
いや、それをやった明日奈ですら二発目でギリギリだった。
俺の腕なら――。
「一樹君なら、大丈夫だと思うわよ」
「え?」
不意に聞こえてきた声に振り返る。
そこに立っていたのは、赤い髪を風に揺らす女性だった。
「…………学園長」
ミカエル学園長。
さっきまで少し離れた木のそばから授業を眺めていたはずなのに、いつの間にか俺たちのすぐ近くまで来ていた。
ミカエルは俺が持っているライフルを一度見てから、一キロ先の標的へ視線を向ける。
「あなたなら、一発で当てられる可能性だってあるわ」
「俺がですか?」
「ええ。ただし――」
ミカエルの赤い瞳が俺へ向けられた。
「あなたの中にある力を、ちゃんと引き出すことができれば、だけどね」
「…………俺の中にある力?」
思わず聞き返した。
隣にいた明日奈も眉を寄せる。
「学園長。さっき言ってた『観察したい生徒』って……もしかして、一樹のことなんですか?」
「そうね」
ミカエルは否定しなかった。
「正確には、一樹君だけじゃないわ。天野さんもそうだし、鷹野目君もそう」
「憐矢も?」
「ええ。鷹野目君は特に狙撃への適性が高い。集中力だけなら、すでに一年生の水準からかなり抜けているわ。このまま経験を積めば、いずれ学園の一桁順位を狙えるくらいにはなると思う」
「……あいつ、そんなに凄かったのか」
普段から狙撃が得意なのは知っていたが、学園長からそこまで評価されているとは思わなかった。
「そして天野さん」
「はい」
「あなたは技術もあるけれど、それ以上に感情と能力の結びつきが強いわ。今はまだ力任せな部分があるけれど、それを制御できるようになれば、今よりずっと上へ行ける」
「……ありがとうございます」
珍しく明日奈が素直に頭を下げる。
それからミカエルの視線が、ゆっくりと俺へ向いた。
「そして――一樹君」
「はい」
何故だろう。
その一瞬だけ、ミカエルの表情から笑みが消えた。
俺を見る赤い瞳が、何かを確かめようとしているように見える。
「あなたには……まだ私にも分からないことが多いの」
「え?」
「能力が発現しない理由もそう。身体能力の数値と能力適性検査の結果が噛み合っていないこともそう。それに――」
そこでミカエルは言葉を止めた。
ほんのわずかに目を細める。
「……いえ。今はいいわ」
「気になるところで止めないでくださいよ!」
「あら? 秘密の多い女の方が魅力的でしょう?」
「そういう問題じゃないですよ!」
俺が思わず声を上げると、ミカエルは楽しそうに笑った。
「でも、本当に不思議なのよ」
笑みを残したまま、今度は少し真面目な声音になる。
「入学してから二か月。あなたの授業記録も、身体検査も、能力適性も、一通り確認したわ。それでも、どうしてあなたにだけ力が発現しないのかが分からない」
「……俺の授業記録まで見てたんですか?」
「もちろん」
「学園長って、もしかして俺のことストーカーしてます?」
「一樹っ!」
ゴンッ!
明日奈の拳が俺の頭に落ちた。
「いってぇ!」
「学園長に何言ってるのよ! 失礼でしょうが!」
「いや、だって普通に怖くないか!? 知らないところでずっと俺のこと調べてるんだぞ!」
「仕事でしょ!」
「ふふっ」
俺たちのやり取りを見ていたミカエルは、口元を押さえて笑っていた。
「気にしなくていいわよ、天野さん。一樹君のそういうところ、私は結構好きだから」
「…………学園長」
明日奈の声が一段低くなった。
「一樹をそうやって誑かさないでもらえます?」
「た、誑かす?」
なんで明日奈が怒ってるんだ。
しかも、さっきまで俺を殴っていたくせに。
「怖い顔しないで、天野さん。別に取ったりしないわよ」
「取るって何をですか!?」
「さあ?」
ミカエルは楽しそうに笑う。
明日奈の眉間に皺が寄った。
俺には二人が何の話をしているのか、さっぱり分からない。
「それより学園長」
俺は話を戻すことにした。
「俺が能力を使えない理由……結局、分からなかったんですよね?」
「ええ」
今度はミカエルも誤魔化さなかった。
「正直に言えば、分からなかったわ」
「天使でも分からないことってあるんですね」
「私たちは神様じゃないもの。何でも知ってるわけじゃないわよ?」
そう言いながら、ミカエルは俺の顔をじっと見る。
何となく居心地が悪くなって視線を逸らした。
俺以外の生徒は、当たり前のように能力を使っている。
炎を生み出し、身体能力を高め、銃弾へ力を付与する。
それが、この学園では普通だ。
なのに、俺だけが何もできない。
「……学園長」
「なに?」
「俺、本当に能力を使えるようになるんですか?」
口にしてから、自分でも情けない質問だと思った。
だけど聞かずにはいられなかった。
「このまま使えなかったら……俺、ずっと学園最下位のままですよね」
能力が使えない。
ただそれだけで、入学前まで持っていた自信のほとんどを失った。
中学までは何をやっても、それなりにできた。
勉強も運動も、人より少し得意だった。
だから、この学園でも何とかなると思っていた。
けれど現実は違った。
入学して、たった二か月。
俺の名前の横には、ずっと最下位という数字が付いている。
「…………」
ミカエルは何も言わず俺を見つめていた。
その赤い瞳が、ほんの少しだけ揺れる。
「私はね、一樹君」
「はい?」
「あなたに力がないとは、一度も言っていないわ」
「でも……」
「分からないのよ」
ミカエルは、はっきりと言った。
「何もないから分からないんじゃない。私たちが知っている方法では、あなたの中にあるものを測れない。だから分からないの」
「俺の中に……あるもの?」
「ええ」
ミカエルは俺へ一歩近づいた。
そして人差し指を伸ばし、俺の胸の中央へ軽く触れる。
「だから今日は、それを確かめに来たの」
「…………」
「あなた自身も知らない、あなたの中にある力をね」
何故だろう。
指先が触れているだけなのに、胸の奥が妙にざわついた。
痛いわけじゃない。
熱いわけでもない。
ただ――どこか懐かしいような、不思議な感覚だった。
けれど、それも一瞬で消える。
「学園長自ら、俺に教えてくれるんですか?」
「そのつもりよ」
「本当に?」
「ええ。少なくとも、私が納得するまではね」
ミカエルは微笑んだ。
その横では何故か明日奈が物凄い顔で俺たちを睨んでいる。
「…………近いです、学園長」
「あら、ごめんなさい」
ミカエルは苦笑しながら一歩下がった。
なんで明日奈が怒っているのかは分からない。
だけど、俺にとってはそんなことよりも重要なことがあった。
もし。
本当に俺にも力があるのなら。
今まで散々言われてきた『学園最下位』という評価を、ひっくり返せるかもしれない。
目の前には一キロ先の標的がある。
たった一発。
この一発で何かが変わる可能性があるのなら――試さない理由なんてない。
「学園長」
俺はミカエルへ身体を向け、頭を下げた。
「お願いします。俺に――力の使い方を教えてください」
自分でも驚くほど、声は真剣だった。
ミカエルはそんな俺をしばらく見つめたあと、静かに微笑む。
「ええ。やってみましょう、一樹君」
その時の俺はまだ知らなかった。
ミカエルが探そうとしているものが、赤城学園の誰もが使っている『炎』とは、まるで違うものだということを。




