顔合わせⅨ
「……………………」
由愛の自己紹介を聞き終えた明日奈は、何も言わなかった。
ただし、その表情を見る限り、機嫌がいいとは到底思えない。
俺には、明日奈の背後でメラメラと炎が燃え上がっているようにすら見えた。
もちろん幻覚だ。
たぶん。
赤城学園の生徒なら本当に炎を出せるので、絶対に幻覚だとも言い切れないのが怖いところだけど。
――まずい。
なんで怒ってるのかは分からないけど、この空気はどうにかした方がいい。
俺は膝の上に座っている由愛へ視線を落とした。
「じゃあさ」
「なぁに、イッキ?」
「由愛の身長が、あと十センチ伸びたら考えてやるよ」
「本当!?」
由愛の目が一気に輝く。
「ああ。十センチ伸びたらな」
俺は笑いながら答えた。
もちろん、本気ではない。
由愛は中学の頃からほとんど身長が変わっていない。
今から十センチも伸びる可能性なんて、そう高くはないだろう。
つまり、実質的には先延ばしだ。
「分かったのよさ!」
しかし由愛本人は、俺の思惑など全く気づいていなかった。
「絶対あと十センチ伸びてみせるの!」
「頑張れ頑張れ」
「毎日牛乳飲むのよさ!」
「そうだな」
「いっぱい寝るの!」
「そうだな」
「それでイッキのお嫁さんになるのよ!」
「はいはい」
適当に返していると、隣から憐矢の低い声が聞こえた。
「一樹」
「何だよ」
「そんな約束していいのか?」
「約束ってほどじゃないだろ」
「この前も言ったはずだ。勢いで約束するのはやめた方がいい」
「…………」
痛いところを突かれた。
「もし本当に由愛が十センチ伸びたら、どうする?」
「いや、流石に――」
「その時は結婚するのよさ!」
「由愛は黙ってろ」
「むぅ」
憐矢は相変わらず真顔だ。
「十センチ伸びたら、本当に責任を取ることになるぞ」
「でも、今はこれでいいだろ。じゃないと由愛がまた暴れそうだし」
「……確かに」
憐矢が由愛を見る。
由愛は俺の膝の上で嬉しそうに足をぶらぶらさせていた。
「由愛が暴れると面倒だからな」
「だろ?」
「聞こえてるのよさ!」
「暴れるなよ」
「暴れないもん!」
こうして。
いつ実現するかも分からない、妙な約束が一つ増えてしまった。
「それじゃあ」
勾坂先輩が苦笑しながら明日奈を見る。
「次は天野さんかな?」
「はい」
明日奈はミカエルから借りたハンカチで目元を軽く拭う。
少し赤くなった瞳を気にしているようだったが、やがて気持ちを切り替えるように一度息を吐いた。
「……ちょっと色々あって泣いてたところを見られちゃいましたけど、そこは忘れてください」
「了解」
勾坂先輩はそれ以上触れなかった。
明日奈は一歩前へ出る。
「改めて。天野明日奈。赤城学園一年です」
そして俺たち三人を順番に見た。
「一樹と憐矢、それから由愛とは中学からの付き合いです。得意なのは射撃。特にハンドガンを使った近・中距離戦を中心に訓練しています」
「なるほど」
勾坂先輩が頷く。
「天野さんの名前も聞いたことがあるよ。かなり積極的に実戦訓練へ参加してるらしいね」
「まだまだです」
「そういう人ほど伸びるんだよ」
「ありがとうございます」
こうして明日奈の自己紹介も終わり、先ほど俺たちが聞いた上級生三人の紹介も、簡単にもう一度繰り返された。
それからしばらく。
やることがなくなった。
「…………」
誰かが話せば会話は続く。
由愛は相変わらず俺の膝の上。
勾坂先輩は枢木先生と時折昔話をしている。
栖偽先輩は窓の外を眺め、斬時先輩は黙ったまま座っている。
憐矢はそんな斬時先輩を時折気にしていた。
そして明日奈は――。
「…………」
なんで俺の膝を見てるんだろう。
怖いから聞かないでおこう。
そんな状態のまま、ミカエルが指定した集合時間を迎えた。
しかし。
「来ないわねぇ……」
学園長が机の上の時計を見る。
「揮移先輩ですよね?」
「そう」
「遅刻ですか?」
「いつものことなのよ」
ミカエルが頬を膨らませる。
「でも今日は二十分以内って言ったんだから、少しくらい急いでくれてもいいじゃない」
「普段から遅れる人なんですか?」
「必要な時にはちゃんと来る子なんだけどねぇ……」
それから、さらに十分ほど経った頃だった。
コンコン。
学園長室の扉が鳴る。
『入っていい?』
扉の向こうから女性の声がした。
「いいわよ」
ミカエルは明らかに不満そうな声で返した。
「みんな待ってるから早く入りなさい。遅れるとは思ってたけど、今日くらい時間を守ってほしかったわ」
「はいはい」
扉が開く。
そして、一人の女子生徒が室内へ入ってきた。
「…………」
最初に感じたのは、綺麗な人だということだった。
短く切り揃えられた黒髪。
整った顔立ち。
姿勢もよく、立っているだけでどこか気品を感じさせる。
制服も乱れ一つなく着こなしている。
年上ということを差し引いても、俺たち一年生とは明らかに雰囲気が違った。
「すみません。昨日の訓練が少し長引いて、救護室で仮眠してたの」
「仮眠?」
「ええ。放送で名前を呼ばれて起きたんだけど、寝起きで急いで走る気にもなれなかったから」
「だからって遅刻していい理由にはならないでしょう?」
ミカエルの眉がぴくりと動く。
だが女子生徒は全く怯まなかった。
「ちゃんと来たんだからいいじゃない」
「よくない!」
「細かいわね」
「細かくない!」
随分と遠慮がない。
というか。
この人、学園長相手に普通に口答えしてるんだけど。
「狩亜」
勾坂先輩が少し呆れた声を出した。
「流石に今回は謝っておいた方がいいんじゃないか?」
「もう謝ったわ」
「最初の一言だけだろ」
「十分じゃない?」
「十分じゃないからミカエルが怒ってるんだよ」
「優斗はどっちの味方なの?」
「どっちでもない。部屋を壊さない側の味方だよ」
何だ、その言い方。
俺が疑問に思った直後――。
ふわっ。
室内の温度が上がった。
「え?」
ミカエルの周囲に、赤い光が集まっていく。
「狩亜ちゃん」
笑っている。
笑っているのに怖い。
「遅刻は、駄目って言ったわよね?」
「だから?」
狩亜と呼ばれた少女は涼しい顔だ。
「反省してるように見えない」
「反省するほどのこととも思ってないもの」
「…………そう」
次の瞬間。
ミカエルの横に集まった炎が、一本の細い矢へと変わった。
「学園長!?」
赤い炎の矢が一直線に飛ぶ。
俺が声を上げた時には、もう遅かった。
だが。
「…………」
狩亜先輩は避けなかった。
右手を上げる。
その手の中へ――炎の矢が収まった。
「は?」
俺は思わず声を漏らす。
炎が燃え上がっている。
なのに狩亜先輩の手は焼けていない。
それどころか。
「こんなので怒ってるつもり?」
パキン。
炎で作られた矢を、まるで細い枝でも折るように握り潰した。
赤い火の粉が周囲へ散る。
「…………マジかよ」
俺の知っている生徒の能力とは明らかに違う。
次の瞬間。
狩亜先輩の黒い瞳が、一瞬だけ赤く染まった。
空気が震える。
炎が彼女の身体を薄く包んだ。
それは、ミカエルが力を使った時に感じる圧力に少しだけ似ていた。
「この人……本当に生徒なのか?」
思わず呟く。
「生徒だ」
隣から憐矢が答える。
「多分」
「最後に多分つけるなよ。余計怖いだろ」
そんな俺たちをよそに、二人の間では完全に火花が散っている。
「どうしてそんなに怒るの?」
狩亜先輩が冷静に言う。
「私だって寝たい時くらいあるわ」
「だからって、呼び出しに遅れる必要はないでしょ!」
「ちゃんと来たじゃない」
「三十分後にね!」
「誤差よ」
「十分快適に遅刻してるじゃない!」
「二人とも」
勾坂先輩が立ち上がった。
そのまま自然な動きで、ミカエルと狩亜先輩の間へ入る。
「ここで能力を使うのはやめてくれないか?」
「優斗、どいて」
「嫌だよ」
「危ないわよ?」
「分かってる」
笑顔は崩していない。
けれど、その声だけは先ほどよりも少し強かった。
「学園長もです。こんなところで揮移と張り合わないでください。二人が本気になったら、この部屋だけじゃ済まないでしょう?」
「私は張り合ってないわよ」
「先に撃ったのは学園長ですよね?」
「教育よ」
「炎の矢を撃つ教育って何ですか」
もっともな意見だった。
「それに狩亜も」
勾坂先輩が振り返る。
「煽るな」
「煽ってないわ」
「『やってみる?』って顔してる」
「顔だけじゃないわよ」
「余計悪い」
狩亜先輩の口元が僅かに上がる。
「ミカエル」
「何よ」
「久しぶりにやる?」
ミカエルの眉が上がった。
「あら。私に勝てると思ってるの?」
「やってみないと分からないでしょう?」
「分かるわよ」
ミカエルが笑う。
「あなたが赤城で一番力を扱える人間なのは認める。でも――私はその力をあなたたちに与えている側なのよ?」
「だから何?」
「狩亜」
勾坂先輩が頭を抱えた。
「やめろって言ってるだろ」
「本気でやるなら相手してあげてもいいわよ?」
ミカエルの周囲に、再び炎が揺らめく。
「でも、この学園でやるつもりなら許さないからね。私たちが本気でぶつかったら、校舎どころか周辺の訓練区画まで無事じゃ済まないもの」
「なら場所を変える?」
「上等――」
「変えません」
勾坂先輩が即座に遮った。
「二人とも座ってください」
「優斗、生徒のくせに学園長へ命令するの?」
「学園長が生徒と喧嘩しようとしてるからでしょう」
「…………」
「…………」
ミカエルと狩亜先輩が睨み合う。
その間でも、小さな火花が弾けていた。
「……この学園、大丈夫なのか?」
俺が呟く。
「今更だな」
憐矢が静かに答えた。
いや。
今まで自分が学園最下位だとか、能力が使えないとか、そんなことばかり気にしていたけれど。
どうやら赤城学園には、俺なんかより遥かに厄介な人間がたくさんいるらしい。
そして。
目の前にいる女子生徒――揮移狩亜。
天使であるミカエルを相手に一歩も引かず、彼女の炎すら正面から受け止めた。
まだ自己紹介すら聞いていない。
それでも、一つだけ確信できた。
この人が。
この赤城学園で、最も強い生徒なのだろう。




