顔合わせⅧ
「イテぇ……」
由愛に叩かれた頬をさすりながら、俺は膝の上にいる小さな身体を見下ろした。
「由愛。俺の上にいてもいいから、頼むから暴れないでくれ。な?」
子供をあやすように言うと、由愛は不満そうに頬を膨らませる。
「イッキが言うなら大人しくするのよさ」
「よし」
「でも、明日奈に言われるのは嫌なの」
「なんでよ!」
明日奈が即座に反応した。
由愛はそんな彼女をちらりと見て――。
「だって、いつも私とイッキが遊んでる時間を邪魔してくる、あの忌々しい女が――」
「誰が忌々しい女よ!」
明日奈の額に青筋が浮かぶ。
さすがに今のは駄目だ。
「由愛」
「ん?」
ゴンッ。
「――っ!」
軽く拳骨を落とした。
「痛いのよさぁ!」
由愛が頭を押さえながら俺を見上げる。
「イッキ! 何するの!」
「今のは由愛が悪い」
「むぅ……」
「明日奈にそんな言い方するんじゃない」
少しだけ声を低くする。
由愛は不満げな顔をしたままだったけれど、俺が真面目に怒っていると分かったのか、大人しくなった。
「明日奈だって、色々ある中で俺たちと一緒に遊んでくれてるんだ。ずっと一緒にいてくれてるんだから、そこはちゃんと感謝しないと駄目だろ」
「…………」
「由愛?」
「……痛かったのよさ」
「そこじゃない」
「…………ごめんなさい」
小さな声だった。
頭を押さえている由愛の目尻には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「分かればいい」
さすがに少し強かっただろうか。
そう思って由愛の頭を撫でていると――。
「……一樹」
明日奈の声が聞こえた。
「ん?」
振り返る。
「…………」
扉の近くに立ったままの明日奈が、俺を見ていた。
その瞳には涙が浮かんでいて、一筋だけ頬を伝っている。
「明日奈?」
「……何でもない」
「いや、泣いてるだろ」
「泣いてないわよ」
「いや、どう見ても――」
「泣いてない!」
「分かった分かった!」
いつもの明日奈だ。
そう思った瞬間。
俺の胸の奥に引っかかっていたものが、ほんの少しだけ軽くなった。
さっき。
大講堂へ向かう廊下で、俺は明日奈に酷いことを言った。
俺を惨めな奴だと思っている。
同情して自己満足している。
俺の最後のプライドまで踏みにじろうとしている――。
感情に任せて、そんな言葉をぶつけた。
でも。
今なら分かる。
明日奈はそんなつもりじゃなかった。
ただ俺のことを心配していただけだ。
それくらい、本当は最初から分かっていたはずなのに。
「なあ、明日奈」
「……何よ」
「さっきは、ごめん」
「…………」
「俺、意固地になりすぎてた」
さっきまでなら、こんな言葉は絶対に口から出なかっただろう。
でも今は、不思議なくらい素直に言えた。
「お前が俺のこと馬鹿にしてたわけじゃないって、本当は分かってたんだと思う。でも、俺自身が今の自分を許せなくて……それを明日奈にぶつけた」
「一樹……」
「だから、ごめん」
一度、息を吸う。
「まだ俺と友達でいてくれないか?」
言葉にした瞬間、自分でも少し恥ずかしくなった。
中学からずっと一緒にいる相手に、何を今さら聞いているんだとも思う。
それでも。
ちゃんと言っておきたかった。
「…………馬鹿」
「え?」
「そんなの、聞く必要ないでしょう」
明日奈が涙を拭いながら笑った。
「私だって悪かったのよ。賭けのこともそうだし、一樹がどう感じてるのか分かってるつもりになってた」
「明日奈……」
「だから、お互い様」
「……そっか」
「その代わり」
「ん?」
「もう『様』はなしだからね」
「え」
「普通に呼びなさい」
「いや、でも約束が――」
「もう終わり!」
「でも――」
「終わりったら終わり!」
強引だ。
相変わらず強引だけど。
さっきまでとは違って、それが嫌じゃなかった。
「分かったよ」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ呼んで」
「今?」
「今」
「…………」
なんだ、この妙な緊張感。
「明日奈」
「……うん」
それだけなのに。
明日奈の表情が少しだけ柔らかくなった。
「昔みたいに呼んでくれてもいいのよ?」
「昔みたいにって……」
俺は思わず視線を逸らす。
昔。
まだ俺たちがもっと幼かった頃。
今よりずっと距離が近かった時に使っていた呼び方がある。
由愛も。
憐矢も。
当然、知っている。
「それは流石に恥ずかしいだろ」
「私は別にいいけど?」
「俺が嫌なんだよ!」
「そう?」
「ああ。俺は今まで通り明日奈でいい」
「……分かった」
少し残念そうにも見えたけれど、明日奈はすぐに笑った。
「じゃあ、これからもよろしくね」
「ああ」
俺も笑う。
「これからも一緒に楽しくやっていこうな、明日奈」
「うん」
明日奈は少しだけ間を空けて――。
「よろしくね、イッキ」
「…………」
「何よ」
「いや」
懐かしい呼び方だった。
思わず昔を思い出してしまう。
「なんでもない」
こうして。
今朝から続いていた俺と明日奈の喧嘩は、思っていたよりもずっとあっさり終わった。
もっとも。
今はそれより遥かに大きな問題が目の前にある。
「青春ねぇ」
声のした方を見る。
ミカエル学園長が机に頬杖をつきながら、ニヤニヤしていた。
「……学園長」
「なあに?」
「ずっと見てたんですか?」
「ここ、私の部屋だもの」
「そりゃそうですけど!」
「いやぁ、いいわね。友情って」
「お願いだからそういう言い方やめてください!」
「あら、どうして?」
「恥ずかしいからですよ!」
そんな俺たちを眺めながら、ミカエル学園長は時計へ視線を向ける。
「あと狩亜ちゃんだけなんだけどなぁ……」
「まだ来てないんですか?」
「そうなのよ」
名前を呼ばれた八人。
既にこの部屋には七人いる。
残っているのは、二年生の揮移狩亜という生徒だけだ。
「まあ、あの子については少しくらい待ちましょう。それより、今のうちに自己紹介を済ませておいて」
そこでミカエル学園長が明日奈を見る。
「あ、それと明日奈ちゃん」
「ちゃん付けやめてくださいって言いましたよね?」
「はい、これ」
「え?」
学園長が机の引き出しから白いハンカチを取り出す。
次の瞬間。
「…………お?」
ハンカチが宙に浮いた。
誰も触っていない。
それなのに空中をゆっくりと移動し、そのまま明日奈の目の前まで飛んでいく。
「…………」
明日奈がそれを受け取った。
「これで涙拭いて」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
何事もなかったように会話している二人を見ながら、俺は思わず呟く。
「天使って、本当になんでもありだな……」
「あら」
ミカエル学園長が俺を見る。
「なんでもできるわけじゃないわよ?」
「そうなんですか?」
「もちろん。私たちにだって、できないことはたくさんあるもの」
「今の見せられたあとだと説得力ないですけど」
「ふふっ。それは綺兎部君が、私たちのことを過大評価しすぎなのよ」
そう言いながら学園長は、今度は俺の膝の上を指差した。
「じゃあ、明日奈ちゃんが涙を拭いてる間に――由愛ちゃん」
「はーい!」
「自己紹介してくれる?」
「分かったのよさ!」
由愛は俺の膝の上に座ったまま、ぶらぶらと足を振る。
「おい、せめて降りて自己紹介したらどうだ?」
「ここでいいの」
「よくないだろ」
「ここが落ち着くのよさ」
「……もう好きにしてくれ」
諦めた。
由愛は満足そうに笑うと、向かい側に座っている先輩たちへ顔を向けた。
「私の名前は氷川由愛なの!」
満面の笑み。
「一年生で、得意なのは情報処理なのよさ。コンピューターを弄ったり、プログラムを作ったり、ネットワークを調べたりするのが得意なの」
「へぇ」
勾坂先輩が興味深そうに由愛を見る。
「情報系なんだね」
「そうなの!」
「戦闘は?」
「苦手!」
「そこまで堂々と言うんだ……」
「だって本当に苦手なんだもん」
由愛は胸を張って答える。
「でも、ハッキングなら誰にも負けないのよさ!」
「待て」
俺は思わず口を挟む。
「それ、自己紹介で堂々と言っていい特技なのか?」
「学校でも使ってるから大丈夫!」
「本当か?」
「たぶん!」
「絶対大丈夫じゃないだろ!」
勾坂先輩が笑いを堪えている。
栖偽先輩は真面目な表情のまま頷いていて、斬時先輩は相変わらず何を考えているのか分からない。
「それと――」
由愛が突然、俺の方を振り返った。
「まだあるのか?」
「あるのよ」
「何?」
「私の将来の夢!」
「夢?」
「うん!」
嫌な予感がする。
由愛は俺の顔を見上げる。
そして。
これ以上ないくらい無邪気な笑顔で言った。
「将来は、イッキのお嫁さんになるのよ!」
「…………」
部屋が静まり返った。
「…………は?」
一番最初に声を漏らしたのは、俺だった。
「お前、何言って――」
「昔から決めてるの!」
「聞いてない!」
「今言ったから大丈夫なのよさ!」
「何が大丈夫なんだよ!」
隣を見る。
「…………」
憐矢が俺を見ていた。
「何だよ」
「いや」
口元が僅かに笑っている。
「由愛は相変わらずだと思ってな」
「笑うな!」
「イッキのお嫁さん……」
明日奈の声が聞こえた。
「…………」
振り返りたくない。
「一樹?」
「はい」
「どういうこと?」
「俺が聞きたいよ!」
「由愛?」
「なぁに、明日奈?」
「ちょっとそこから降りなさい」
「嫌なの」
「降りなさい」
「絶対嫌なのよさ」
再び二人の間に火花が散る。
「だから学園長室で喧嘩するなって!」
俺の声が部屋中に響いた。
その一方で。
俺たちのやり取りを見ていたミカエル学園長は、口元へ手を当てながら楽しそうに笑っていた。
「本当に面白い子たちを集めたわね、私」
「自分で集めたんでしょうが」
枢木先生の冷静な突っ込みだけが、妙に部屋へ響いた。




