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顔合わせⅥ

『鷹野目憐矢、天野明日奈』


 学園中に響き渡るミカエルの声を、大講堂の一角で聞いている女子生徒がいた。


 机に肘をつき、頬杖をしながら天井近くに設置されたスピーカーへ視線を向ける。


 彼女はもう片方の手で、癖のせいでぴょこんと跳ねた髪を何度も撫でつけていた。


「…………」


 もしかすると。


 次は、自分の名前が呼ばれるかもしれない。


 そんな淡い期待を抱きながら、続きを待つ。


『そして、一年最後の一人は――絢兎部一樹。以上八名は至急、学園長室まで来ること。二十分以内だからね』


「…………」


 名前は呼ばれなかった。


 ほんの僅かに期待していただけに、面白くない気持ちが湧いてくる。


 だが、その感情も長くは続かなかった。


 放送が終わった――と思った直後。


『なんで私、あんな堅苦しい喋り方しなきゃいけないの?』


『お前が学園長だからだろうが』


 マイクを切り忘れたらしく、ミカエルと枢木葬鬼の会話がそのまま校内へ流れ始めた。


 周囲の生徒たちが呆気に取られる。


 しかし彼女は、そんなやり取りにはほとんど興味を示さなかった。


 気になっているのは別のことだ。


「……どうして学園最下位が、学園長直々に呼ばれたんだろう」


 絢兎部一樹。


 入学から二ヶ月。


 天使の力を未だに一度も扱うことができず、現在の学園順位は最下位。


 本来であれば、学園長から最も遠い場所にいるはずの人間だ。


 そんな彼が、赤城学園でも前例のない天使からの直接招集を受けた。


「…………面白い」


 さっきまで自分が選ばれなかったことに抱いていた不満など、綺麗に消えていた。


 代わりに湧き上がってきたのは、好奇心。


「絢兎部一樹……観察対象としては、かなり当たりなんじゃない?」


 口元が自然と緩んだ。


 彼女――狗龍幸にとって、『面白そう』という感情は何よりも優先される。


 気になった人間がいれば調べる。


 過去。


 成績。


 交友関係。


 家族構成。


 行動パターン。


 本人すら忘れているような小さな出来事まで。


 一度興味を持ってしまえば、気が済むまで徹底的に情報を集める。


 そして、それを自分だけの調査記録へまとめる。


 それが狗龍幸という少女の、少しばかり厄介な趣味だった。


 その性格は、この赤城学園では意外なほど役に立っている。


 彼女の得意分野は情報処理。


 派手な銃撃戦や能力戦闘とは違い、一見すると地味な分野だ。


 だが、敵部隊の位置、戦力、行動傾向、通信内容。


 それらを誰よりも早く集め、分析する者がいるかどうかで、戦場における勝敗は大きく変わる。


 だからこそ、狗龍は一年生でありながら学園順位二桁に食い込んでいた。


 もっとも。


 本人が情報を集める理由は、もう少し不純だった。


「どんな顔するんだろ……」


 知られたくないことを言い当てられた瞬間。


 相手の表情が固まる。


 焦る。


 慌てる。


 その変化を見るのが、狗龍は好きだった。


「最近、面白いこともなかったし……絢兎部君、ちょっと調べてみようかな」


 顎へ指を添えながら、大講堂後方の扉へ視線を向ける。


 ちょうどそこから、一樹と憐矢が出ていくところだった。


「何から調べようかな……」


 数秒考えて――。


「まあ、面白そうなもの全部でいっか」


 結論は早かった。


 幸は椅子から立ち上がると、周囲がまだ放送の余韻にざわついている中、一樹たちの後を追った。


 一定の距離を保ったまま、二人の背中を眺める。


「…………」


 そして廊下へ出たところで、制服のポケットから手のひらに収まるほどの小型器具を取り出した。


 見た目こそ小型拳銃に似ているが、実弾を発射する武器ではない。


 情報処理科で使われる、超小型端末射出用のツールだった。


「よっと」


 狙うのは、一樹の首元。


 ピシュッ――。


 空気が抜けるような小さな音。


 射出された数ミリほどの端末が、一樹の制服の襟へ吸い付くように付着した。


 一樹は気づかない。


 憐矢も振り返らない。


「成功」


 幸の口元が大きく吊り上がった。


 制服に取り付けられた小型端末からは、周囲の音声を拾うことができる。


「これで学園長室で何を話すのか、あとで聞かせてもらおっと」


 学園長から直接呼び出された八人。


 その中に、なぜ学園最下位の一樹が選ばれたのか。


 それが分かるかもしれない。


「楽しみ……」


 嬉しさを隠すこともなく、幸は一樹たちから離れた。


「それじゃ、私は授業に戻ろうかな」


 踵を返す。


 足取りは軽い。


 今にも鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌だった。


 ――その時。


「…………あ」


 廊下の向こうから、一人の少女が歩いてくるのが見えた。


 いや。


 幸からすれば『少女』というより――。


「……なんであいつがいるのよ」


 子供。


 そう表現した方がしっくりくる。


 茶色がかった髪。


 小学生と見間違えてしまいそうなほど小柄な身体。


 だが、れっきとした赤城学園の一年生。


 今年の五月で十六歳になった少女である。


「そういえば……あいつも呼ばれてたっけ」


 氷川由愛。


 先ほどミカエルが呼んだ八人の中に、確かにその名前はあった。


 由愛の姿を確認した途端、さっきまでの幸の上機嫌が嘘のように消え失せる。


「…………ちっ」


 舌打ちが漏れた。


 情報処理を得意とする幸と同じく、由愛もまた一年生でありながら学園順位二桁。


 そして何かにつけて幸と競うことになる相手でもある。


 幸にとっては――非常に気に入らない存在だった。


 じろり。


 露骨に不機嫌な視線を向ける。


 普通なら、それだけで近づくのを躊躇うだろう。


 だが。


「あっ!」


 由愛の表情がぱっと明るくなった。


「さっちん!」


「…………」


 ぶんぶんと大きく手を振ってくる。


「なんでさっちんがこんなところにいるのよさ?」


「……相変わらず馴れ馴れしいわね」


 これでは名前を隠しておく意味もない。


 狗龍幸。


 赤城学園一年生。


 学園順位二桁。


 情報収集と情報処理を得意とする少女。


 対する目の前の小柄な少女は――。


「氷川由愛。どうしてあなたが学園長に呼ばれたのかしらね」


「なんでだろう?」


 本気で分からないらしい。


 由愛は首を傾げた。


「それと」


 幸は眉間に皺を寄せる。


「さっちんって呼ぶのやめてくれる? あなたとそこまで仲良くなった覚えはないんだけど」


「いいじゃん、さっちんで」


「よくない」


「呼びやすいのよ?」


「知らないわよ」


「仲良しっぽいのよさ」


「仲良くないから」


「これから仲良くなればいいのよ!」


「ならなくていい」


 由愛は楽しそうに笑う。


 幸の拒絶など、まるで聞いていない。


 本当に腹が立つ。


「ところで、あなた学園長に呼ばれてるんじゃなかった?」


「…………」


 由愛が固まった。


「あっ!」


「忘れてたの?」


「そうだったのよさ! 急がなくちゃ!」


「二十分以内って言われてたでしょ」


「イッキたちも呼ばれてるから、久しぶりに話せるのよ!」


「……イッキ?」


 どうやら一樹とは昔からの知り合いらしい。


 また一つ、興味深い情報が増えた。


 幸の頭の中に、無意識に記録される。


「だったら早く行けば? 遅れたら後悔するって学園長も言ってたけど」


「そうだったの!」


 由愛は慌てて駆け出した。


「教えてくれてありがとうなのよさ、さっちん! またね!」


「だから、さっちんって――」


 幸の言葉を最後まで聞くことなく、由愛は廊下を走っていく。


「…………」


 小さな背中が遠ざかる。


「廊下走ったら――」


 転ぶわよ。


 そう言おうとした。


 その瞬間。


「わっ!?」


 ベチャッ。


「…………」


 由愛が盛大に転んだ。


 前のめりに。


 完全に。


「…………だから言おうと思ったのに」


 幸は頭を抱えた。


 そして、少し迷ったあと。


「……もう」


 仕方なく由愛のもとへ歩いていく。


 床へうつ伏せになっていた由愛が、ゆっくり顔を上げた。


「…………痛いよぉ」


 目には大粒の涙が溜まっている。


「なんで泣くのよ……」


「痛かったの……」


「子供じゃないんだから」


「痛いものは痛いのよさ……」


「…………」


 本当に十六歳なのだろうか。


 見た目だけではなく、中身まで幼い。


「ほら」


 幸は由愛へ手を差し出した。


「いつまで寝てるの。起こしてあげるから」


「…………」


 由愛が差し出された手を見る。


 そして。


「さっちん……」


「何よ」


「優しいのよ」


「は?」


「ありがとうなのよ!」


「別に優しくなんか――」


 言い切る前に、由愛の小さな手が幸の手を握った。


「…………」


 細い。


 驚くほど小さな手だった。


 幸はその手をしっかり握り、一気に引っ張り起こす。


「ほら、立って」


「うん」


 由愛が立ち上がったことを確認すると、制服についた埃を幸が軽く払った。


「廊下で走るから転ぶのよ。これからは走らない。分かった?」


「……うん」


「急いでても走らない」


「うん……」


「怪我したら意味ないでしょ」


「…………」


 由愛は少しだけ驚いた顔で幸を見上げる。


「何?」


「やっぱりさっちん優しいのよさ」


「だから違うって言ってるでしょ」


「えへへ」


「笑うな」


「ありがとうなのよ、さっちん」


「…………どういたしまして」


 反射的に答えてしまった。


「ほら。今度こそ行きなさい。遅れるわよ」


「うん!」


 由愛の顔に、いつもの無邪気な笑顔が戻った。


「それじゃあ行ってくるのよさ!」


「今度は走らない!」


「分かったのよー!」


 ててて、と。


 先ほどより明らかに速度を落としながら、由愛は廊下を進んでいった。


「…………」


 その小さな背中を、幸はしばらく見つめていた。


「本当に……腹立つ」


 あの無邪気な笑顔を見ると苛立つ。


 声を聞いても苛立つ。


 馴れ馴れしく『さっちん』と呼ばれるだけでも苛立つ。


 なのに。


「…………なんで」


 胸の奥が、妙に温かい。


 由愛が笑うと。


 どこか安心する。


 転べば心配になる。


 泣いていれば放っておけない。


「意味分かんない……」


 本人ですら説明できない感情だった。


 嫌いなはずなのに。


 最大のライバルのはずなのに。


 放っておくことができない。


「……まあ、いいか」


 幸は小さくため息を吐き、再び大講堂へ向かって歩き出した。


 その背中だけを見れば、先ほどまで由愛を睨みつけていた人物と同一人物には見えない。


 もし第三者が一連の光景を見ていたなら、きっとこう思っただろう。


 ――まるで、手のかかる娘を見送る母親みたいだ、と。


「…………誰が母親よ」


 誰に言われたわけでもないのに。


 なぜかそんな言葉が口から漏れた。

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