第39話 そして春が来る
王都から遠く離れた、うらぶれた地方領地の、ぬかるんだ街道。
分厚い雪雲がようやく晴れ間を見せ始めたその空の下を、一台の質素な馬車が、ゆっくりと進んでいた。
窓から外を見つめるレオハルトの顔に、かつての傲慢な当主代行の面影は、もう微塵も残っていない。
王命と法務院による彼への処分は、過酷かつ徹底的だった。
爵位継承権の、完全な剥奪。次期当主には、領地で堅実に働いていた弟のファルクが、正式に指名された。社交界からは永久に追放され、グレイフェルト家が保有していた流動財産の大部分は、調達委員会の横流しに対する賠償と、アリシアへの返還金として、根こそぎ差し押さえられた。
すべてを失った彼は今、監視の目が常に光るこの辺鄙な地で、生涯の蟄居を運命づけられている。
揺れる車内で、レオハルトは膝の上の一冊の古い帳簿を、すがるように撫でていた。
没収される財産の中で、彼が唯一、持ち出しを許されたもの。それは、かつてアリシアが家政を完璧に回していた頃の、インクの染みが残る、実務の記録だった。
ページを捲れば、そこには彼女の細やかな気配りと、屋敷を生かすための、確かな体温が残っている。
だが、どんなにその文字を愛おしげになぞろうとも――それを書いた手が、彼の元へ戻ってくることは、もう、二度とない。
失ってから気づいても、何もかもが遅すぎたのだ。
すべてが手遅れになった泥濘の道を、彼を乗せた馬車は、ただ静かに進んでいった。
* * *
一方、グランベル辺境伯邸の、家政管理室。
アリシアは、王都の法務院から届けられた、分厚い決算書類に目を通していた。
そこには、彼女が持ち込んだ持参金、五年間で生み出した事業利益、そして不当な追放と精神的苦痛に対する慰謝料が――一シリングの狂いもなく、全額返還されたことが記されている。
莫大な、数字の羅列。
これで、彼女の過去の清算は、法的にも、金銭的にも、完全に終わった。
書類を机に置いた時、アリシアの胸に、ふと、静かな空虚感が広がった。
憎き者たちを叩き潰し、奪われた尊厳を取り戻すために。証拠を集め、記録を武器に、戦い続けてきた。
その激しい戦いが終わり、確かな勝利を手にした今――手元に残されたこの莫大な財産を、一体、何のために使えばいいのだろう。
窓の外へ目をやると、長く厳しかった辺境の冬が終わりを告げ、雪解け水が、庭の石畳を光らせていた。
その温かい光の中を、エミルとリリィが、連れ立って歩いている。
エミルの顔にはもう、王都の方角を見て怯えるような、暗い影はなかった。
その小さな背中を見た瞬間。
アリシアの心の中で、空虚を埋める、新しい決意が芽吹いた。
「……そうね。過去の清算は、終わったわ。これからは、未来のために歩きましょう」
彼女は新しい羊皮紙を引き寄せ、ペンを走らせた。
返還された資金の大部分を投じて、この辺境に、子どもたちのための基金を設立する。
身寄りのない子どもや流民が、温かい食事を取れるよう、救貧食堂を拡大する。そして何より――文字の読み書きや計算、自分の足で生きていくための『帳簿』の知識を教える、学び場を創設するのだ。
かつて自分を絶望から救い、エミルの心を救った、『学ぶ力』と『働く手』。
それを、これからの時代を生きる子どもたちへ、渡していくために。
* * *
夕刻。
春の柔らかな風が吹き抜ける中庭のテラスで、アリシアはヴィルヘルムと向かい合っていた。
「子どもたちのための基金、か。君らしい、素晴らしい使い道だ。領主としても、全面的に支援すると約束しよう」
計画書に目を通したヴィルヘルムは、深く頷いて、書類をテーブルに置いた。
「ありがとうございます、ヴィル」
その名を、自然に呼べるようになった距離を、アリシアは心地よく感じていた。
「そういえば、ヴィルの元にも、王都から書状が届いていたようですが……」
「ああ。監査院のアルベルトや、王宮の重鎮たちからだ。今回の審問での法的な手腕が評価されたらしくてな。王都へ戻り、中央の要職に就かないか、という打診だった」
アリシアは、小さく息を呑んだ。
中央の、要職。それは貴族として、これ以上ない名誉であり、権力の中枢へ返り咲く、絶好の機会だ。
彼が王都へ行ってしまえば――この辺境での穏やかな日々は、終わってしまうのだろうか。
だが、ヴィルヘルムは、迷う素振りすら見せずに首を振った。
「断った。私は、この辺境に残る」
「……よろしかったのですか」
「中央への務めは、この国境の地を堅実に守ることで、十分に果たせる。それに――」
ヴィルヘルムは、わずかに言葉を切った。
「ようやく、この屋敷に、帰りたいと思える場所ができた。それを手放してまで、欲しい地位など、ない」
ヴィルヘルムはそう言って、西の空に沈みゆく夕日を見つめた。
雪解けの季節特有の、暖かく、それでいて澄んだオレンジ色の光が、彼の横顔を、優しく照らしている。
「アリシア」
ふと、彼が真剣な眼差しで、こちらに向き直った。
「君の戦いは、終わった。過去の清算も、済んだ。……だから、これからの、君自身の未来について、話したい」
ヴィルヘルムの低い声が、春の夕暮れの空気に、溶けていく。
「私は、君の記録を信じ、君の戦う姿を尊敬してきた。君が作ってくれたこの屋敷の温かさに、何度、救われたか分からない」
彼は、飾った言葉も、詩的な愛の囁きも、使わなかった。
ただ、実務者である彼女に向き合うように、真っ直ぐで、誠実な言葉だけを紡ぐ。
「君に、私の妻になってほしい」
アリシアの心臓が、トクリと、大きく跳ねた。
「だが、それだけではない。私は……エミルとリリィも含めて、家族になりたいと思っている」
ヴィルヘルムは、真っ直ぐに、アリシアの瞳を見つめた。
「家を存続させるための跡継ぎが欲しいわけじゃない。王家の縁戚として、血を繋ぐためでもない。……君が泥まみれになって守り抜いてきた、その温かい家族の中に、私も、入れてほしいんだ」
それは、血筋でも、財産でもなく。
ただ純粋に、『共に生きる者』としての――不器用で、誠実な、求婚だった。
その言葉が、アリシアの胸の、一番深いところに触れた。
――跡継ぎが産めない、欠陥品。
そう言い捨てられ、雪の夜に家を追い出された、あの日。
あの時の彼女には、想像もできなかった。血の繋がりも、子を産む腹も、何一つ問わずに、ただ「家族になりたい」と、こんなにも不器用に乞うてくれる人が、いるなどとは。
胸の奥から、言葉にならない、熱いものが込み上げてくる。
アリシアは、泣きそうになるのを必死に堪えながら、彼に向かって、真っ直ぐに微笑み返した。
「……子どもたちと相談してから、お返事をしても、いいですか」
彼を、愛している。その気持ちに、嘘はない。
けれど、この新しい家族の形は――自分一人の意思だけで、決めていいものではなかった。
ヴィルヘルムは、その言葉の真意を、完璧に理解した。
そして、どこまでも優しく、深く、頷いた。
「もちろんだ」
夕暮れの空の下。
一人で決めない。それが、アリシアの選んだ、家族の作り方だった。
その想いを映すように、二人の影が、静かに寄り添って、長く伸びていった。




