第40話 奪われなかったもの
厳しい冬が終わり、辺境の分厚い氷が解け始めた頃。
春の暖かな日差しが差し込む自室で、アリシアはエミルとリリィを前に、静かに口を開いた。
「ヴィルヘルム様がね、私たち四人で、家族になりたいと、そう言ってくださったの」
その言葉に、エミルは膝の上で小さな手を握りしめた。
だが、その瞳に、かつてのような怯えはなかった。あの罪悪感の闇を、彼はもう、一度自分の力でくぐり抜けている。
「……父さんのことは、忘れなくて、いいですか」
それは、迷いの問いではなかった。確かめておきたい、ただ一つのことだった。
「もちろんよ」
アリシアはエミルの目線に合わせて膝をつき、その小さな手を、両手で優しく包み込んだ。
「あなたのお父様は、ジェラルド様、ただ一人。それは永遠に変わらないし、忘れる必要なんて、どこにもないわ」
エミルは、ホッと息を吐いた。そして、自分の意思で、はっきりと顔を上げた。
「じゃあ……僕は、父さんとは別の言葉で。ヴィルさまのことは父上って、呼びたいです」
少し開いたままの、扉の向こう。
外で返事を待っていたヴィルヘルムが、ふっと、息をついた気配がした。
「パパ!」
空気を読んだのか読んでいないのか、リリィが嬉しそうに飛び跳ね、扉の向こうの大きな身体に、勢いよく抱きついた。
ヴィルヘルムが、困ったように、けれどひどく優しく、リリィを抱き上げる。
エミルが控えめの声で「……父上」と呟いたのをアリシアは微笑みながら聞いていた。
一人で、決めない。
血の繋がりを超えた、新しい家族の形が、ここに、確かに決まった。
* * *
嵐のような戦いの日々は、過ぎ去った。
返還された持参金と慰謝料を、アリシアは自らの贅沢には一切使わなかった。それらはすべて、辺境に設立された「子どもたちのための基金」へと姿を変えた。
身寄りのない子や流民が腹を満たせる救貧食堂と、文字と計算、そして自分の足で立つための『帳簿』の知識を教える、学び場。かつて自分を絶望から救った『働く力』を、次の世代へ渡していくために。
復讐も、過去の清算も、すべて終わった。
残されたのは、ただ、これから先へと続いていく、穏やかな日々だけだった。
* * *
木々が瑞々しく芽吹き始めた、うららかな春の昼下がり。
グランベル辺境伯邸の中庭で、小さな、けれど誰よりも祝福に満ちた、婚礼の儀が執り行われた。
王都の貴族が催すような、見栄と打算にまみれた豪奢な夜会とは、無縁の式。
列席するのは、ハインツやベルナルトをはじめとする屋敷の使用人たちと、領民たち。救貧食堂の常連や、かつてアリシアが保護した流民の代表。王都からは兄エドガーが笑顔で駆けつけ、監査官アルベルトも、公務の合間を縫って静かに見守っている。王都のグリュンベルク商会からは、荷馬車いっぱいの祝いの品が届いていた。
「お、落とさないように、しないと……っ」
エミルが、ガチガチに緊張しながら、二人の指輪を乗せた花籠を運ぶ。
その後ろで、可愛らしいドレスを着たリリィが、「わーい!」と、少しばかり花びらを撒き散らしすぎている。
その微笑ましい光景に、列席者たちから、どっと温かい笑い声が上がった。
春の光の下、祭壇の前に立つヴィルヘルムは、アリシアの手を優しく取り、その真っ直ぐな瞳で、誓いの言葉を紡いだ。
「血ではなく、選び合った家族として。君たちを、守る」
アリシアもまた、彼の大きく温かい手を両手で包み込み、心からの笑顔で、応えた。
「共に働き、共に食べ、共に守る家族を、作ります」
飾り気のない、けれど何よりも重く、誠実な誓い。
盛大な拍手と歓声が、春の青空へと、吸い込まれていった。
* * *
宴が和やかに進む中。
庭の片隅のテーブルで、エミルは一人、画用紙に向かっていた。
描き上げたのは、アリシア、エミル、リリィ、そしてヴィルヘルムの四人が、手を繋いで笑っている絵だった。
エミルは、完成したその絵のすぐ隣に、父ジェラルドが遺した古い帳面を、そっと置いた。
亡き父を、忘れたわけではない。「正直であること」を教えてくれた父の教えは、そのままに。ただ、この温かい輪の中に、四人目を、加えただけなのだ。
絵と帳面が、並んで置かれている。
それは、罪悪感を乗り越えた八歳の少年が出した、一つの、確かな答えだった。
* * *
少し離れたテラスの端で、アリシアはそっと、自分の手を見つめた。
王都の屋敷を追い出された、あの猛吹雪の夜。
彼女は、実務で黒く汚れた自分の指を「可愛げがない」と恥じ、必死に隠そうとしていた。
役立たずと罵られ、すべてを失った自分が、ただ、惨めで仕方がなかった。
けれど、今は違う。
インクの染みが抜けきらない、この指のペンだこを、彼女は今、心から誇りに思っている。
この手で堂々と帳簿を握り、理不尽な悪意と戦い、多くの人々を飢えから救い、そして――新しい未来を、自らの手で掴み取ったのだから。
家も、財産も、名前も、信用も。
一度は、すべて、理不尽に奪われた。
けれど、決して、奪われなかったものがある。
信念と他人を愛する心だ。
それがアリシアをここまで連れてきた。
「母さん!」
「ママ!」
「アリシア」
春の陽だまりの中から、彼女を呼ぶ、三つの愛おしい声が、重なった。
「……今、行きます」
アリシアは顔を上げ、誇り高き、インクの染みの残る指で、ドレスの裾を、少しだけ持ち上げた。
そして、光の溢れる家族の輪の中へと、もう二度と迷うことのない足取りで、歩いていった。
~Fin~




