第38話 母さんと呼んだ日
王都での過酷な審問と、すべての手続きを終え、アリシアとヴィルヘルムを乗せた馬車がグランベル辺境伯邸の門をくぐったのは、雪解けの気配がかすかに混じる、冬の夕暮れだった。
「アリシア様、ご当主様。お帰りなさいませ」
玄関前には、執事のハインツや料理長のベルナルトをはじめ、使用人たちが勢揃いして出迎えてくれた。
「ママぁーっ!」
馬車の扉が開くや否や、小さな影が弾かれたように飛び出してきた。
リリィだ。短い足で雪の残る石畳を駆け抜け、馬車から降りたアリシアの足元に、勢いよくしがみつく。
「ただいま、リリィ。いい子で、お留守番できていたわね」
アリシアは冷たい風から守るように、リリィの小さな身体をしっかりと抱きしめた。
だが、その視線はすぐに、周囲を彷徨った。
いつもなら、妹の後ろに立って礼儀正しく頭を下げるはずの、もう一人の小さな影が、見当たらない。
「ハインツ。……エミルは?」
アリシアの問いに、ハインツは少しだけ困ったように眉を下げた。
「エミル様なら、自室に。王都から早馬で審問の結果が届いてからというもの、ずっと部屋に引きこもられたまま、食事もほとんど……」
アリシアの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
予想していたことだった。あの優しく賢い少年が、自分の言葉の招いた結果を知って、何も感じないはずがない。
「行ってやってくれ」
背後から、ヴィルヘルムの低く、温かい声が降ってきた。
「ここは、私とハインツたちで片付けておく」
「……ありがとうございます、ヴィル」
アリシアはリリィをカトリーナに預け、静かに、だが急ぎ足で、屋敷の階段を上がっていった。
* * *
エミルの部屋の前に立ち、アリシアは小さく深呼吸をしてから、三度、扉を叩いた。
「エミル。入るわよ」
返事を待たずに、扉を開ける。
薄暗い部屋の中、エミルは窓を背に、ベッドの上に座り込んでいた。
その両手には、父ジェラルドが遺した古い革表紙の帳面が、すがるような強さで握りしめられている。
彼が、顔を上げた。
その瞳は赤く腫れ、疲労と、幼い子どもには背負いきれぬほどの絶望の色が、濃く沈んでいた。
「……おかえりなさい」
掠れた、ひどくよそよそしい声だった。
これまで彼が口にしていた「先生」という呼びかけすら、今は紡げないらしかった。
出会ってから今日まで、不器用ながらも一直線に深まってきた二人の関係が、ここで初めて、はっきりと音を立てて、ひびを入れたのだ。
アリシアは何も問い詰めず、ただ静かにベッドへ歩み寄り、エミルの隣に腰を下ろした。
長い沈黙が、流れた。
アリシアは急かさず、彼が自分で言葉を見つけるのを、ただ待った。
やがて、エミルの小さな肩が、小刻みに震え始めた。
ぽたり、ぽたりと、握りしめた帳面の革表紙に、涙の雫が落ちる。
「……僕が、話したから」
絞り出すような、痛ましい声だった。
「僕が、神殿の人たちに本当のことを話したから……だから、お母さまは、もう二度と帰れないところへ、行くことになったんですよね」
エミルは、とうとう両手で顔を覆い、声を上げて泣きじゃくった。
「僕が……僕が、お母さまを、あんなところに、追いやったんだ……!」
誰にも言えぬまま、彼の中で膨らみ続けていたものが、ようやく外に溢れ出した。
アリシアは、泣き崩れる彼の背に、そっと手を添えた。
そして、大人の振りかざす『正義』も、セレスティアがいかに愚かであったかという『理由』も、一切口にしなかった。
そんなものは、この八歳の少年の心を救う言葉ではない。
「エミル」
アリシアの、静かで、芯のある柔らかな声が、部屋の空気を包んだ。
「あなたのお母様を裁いたのは、あなたじゃないわ」
エミルの肩の震えが、わずかに止まる。
「裁いたのは、残された記録と、審問の場にいた大人たちと……そして、私よ」
アリシアは、すべての大人の醜さと、実の母を法廷へ引きずり出した冷酷な因果の、その全責任を、自らの両肩に引き受けた。
「だから、恨みたくなったら、私を恨んでいい。お母様を追いやった憎い女だと、私を責めてもいいわ」
アリシアは、エミルの顔を覆っていた小さな両手を、そっと解いた。
そして、涙に濡れたその瞳を、真っ直ぐに見つめる。
「でも、私はあなたとリリィを、何があっても手放さない。あなたがどんなに私を拒んでも……絶対に、守り抜くわ」
エミルは、息を呑んで、アリシアの瞳を見つめ返した。
そこには、自分を利用しようとする大人の打算も、上辺だけの同情もなく、ただ、揺るぎない覚悟だけがあった。
その覚悟に触れた時、エミルの視線は、自然と、自分の膝の上に落ちた。
ずっと、すがるように握りしめてきた、父の帳面へと。
涙で滲む視界の中、彼の指は、無意識のうちに、その最後のページを開いていた。
かつては難しくて読めなかった、父の走り書き。
だが、文字を覚え、帳簿の読み方を学んだ今の彼には、そこに記された一文が、はっきりと読めた。
『正直であることは、何よりの財産だ』
不器用で、商売にしか取り柄のなかった父が、二人の子に遺した、たった一つの祈り。
その瞬間、エミルの中で、ずっと凍りついていた何かが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
――僕は、嘘をつかなかった。
父さんの教えを、守ったんだ。
父さんは、それを、怒ったりしない。きっと。
胸の奥につかえていた重い石が、その小さな一文に、確かに支えられていく。
自分のした「正直」は、間違いではなかった。父が、何より大切にしろと遺したものだったのだから。
「……先生」
エミルから、大粒の涙が、次々と溢れ出した。
だがそれは、もう、先ほどまでの絶望の涙ではなかった。
張り詰めていた心の糸がほどけ、堰き止められていた本当の気持ちが、ようやく流れ出した、温かい涙だった。
「父さんを、忘れたわけじゃ、ありません。父さんは、ずっと、僕の父さんです」
エミルは、しゃくり上げながら、必死に言葉を紡ぐ。
実の父への愛情と敬意を、捨てる必要などないのだと、彼はようやく理解した。
「でも……僕は、あなたを」
エミルは帳面を膝に置き、小さな両手を伸ばして、アリシアの外套の袖を、ぎゅっと掴んだ。
「あなたを……母さんって、呼びたいです」
その瞬間、アリシアの目から、堪えきれず、一筋の涙がこぼれた。
血の繋がりなど、ない。
法の上で認められたのも、つい今日のことだ。
それでも、この少年は、深い闇を、たった一人でくぐり抜けた。そしてその先にいる彼女を、自分自身の意思で、『母』として選んでくれたのだ。
「ええ……。ええ、エミル……!」
アリシアは、エミルの小さな身体を、壊れものを扱うように、けれど力強く、抱きしめた。
エミルもまた、彼女の胸に顔を埋め、子どものように声を上げて泣いた。
どれほど、そうしていただろう。
やがて、二人の涙が少しだけ落ち着いた頃、廊下の方から、小さな足音が近づいてきた。
「おにいちゃん?」
少し開いたままの扉の隙間から、リリィが、不思議そうに顔を覗かせる。
そして、兄とアリシアが抱き合っているのを見ると、ぱっと顔を輝かせ、嬉しそうに駆け込んできた。
「ママ! おにいちゃん!」
アリシアは、笑って、二人まとめてその腕の中に抱き込んだ。
「私が、あなたたちのお母さんよ。……ずっと、ずっと、一緒にいるわ」
王都から遠く離れた、辺境の屋敷の一室。
オレンジ色の夕日が差し込むその部屋で、三人は身を寄せ合い、ただ静かに、温かい涙を流し続けた。
血ではなく、選んだのだ。
すべてを奪われ、雪の夜に捨てられた女は、暗闇をくぐり抜けた少年の、たった一言で――本当の意味での『家族』を、手に入れたのだった。




