第36話 涙はもう通じない
王都法務院の大広間。
高い天井のステンドグラスから冷たい光が差し込むその場所で、王宮、監査院、法務院の三機関による合同本審問が開廷した。
静まり返った法廷の中央で、セレスティア・モルフォードは質素な白いドレスに身を包み、肩を震わせて泣き崩れていた。
「私は……怖かったのです……!」
美しい金糸の髪から大粒の涙をこぼし、彼女は両手で顔を覆った。
「レオハルト様に逆らえば、子どもたちに何をされるか分からなかった。横領の濡れ衣を着せたのも、物資の横流しを指示したのも、すべて彼です! 私はただ、弱い女ゆえに、従うしかなかった被害者なのです……どうか、お慈悲を……!」
涙に咽び泣くその姿は、見る者の胸を打つほど可憐で、哀れだった。
並んで座らされていたレオハルトが「ふざけるな、君が!」と叫ぼうとするのを、法務兵が強引に押さえつける。
上位法務官たちの中にも、あまりにも悲痛なセレスティアの様子に、わずかに同情の色を浮かべる者がいた。
だが、告発人席に座るアリシアは、その見事な芝居を、冷え切った目で見つめていた。
「……見苦しいな」
隣に座るヴィルヘルムが、低く吐き捨てるように呟く。
「ええ。ですが、もう誰にも騙されません」
アリシアの言葉を合図にしたかのように、監査院の席から上級監査官アルベルト・カイルが立ち上がった。
その手には、分厚い書類の束が握られている。
「監査院より、記録を提示します」
アルベルトの、感情の削ぎ落とされた声が、セレスティアの泣き声を切り裂いた。
「まず、子どもたちを宿場に遺棄した件。セレスティア殿は『手違いではぐれた』と主張しておられますが――関所の通過記録と宿場台帳によれば、あなたとレオハルト卿の、大人二名で関所を通過している。大人二名が同乗する馬車で、子ども二人が乗っていないことに気づかず王都へ向かう。そのような物理的矛盾は、断じて起こり得ません」
「そ、それは……私がひどい熱を出して、意識が朦朧と……!」
「体調不良であったと仰るなら、こちらの記録と矛盾します」
アルベルトは容赦なく、次の書類を机に置いた。
「医師ギデオンの裏帳簿です。あなたは妊娠と流産を偽装し、子を失った悲しみで伏せっていると、周囲の同情を誘った。……ですが裏帳簿によれば、あなたは流産したとされるその日から連日、大量の高価な美容薬を注文し続けている。子を失い、夫の脅威に怯えているはずの『可哀想な被害者』が、肌の艶を良くする美容にばかり、執着していたと?」
「っ……!」
セレスティアの泣き声が、一瞬だけピタリと止まった。
アルベルトは、さらに畳みかける。
偽造されたアリシアの清算証書の鑑定結果。続いて、彼は一枚の銀行記録を掲げた。
「そして――こちらをご覧いただきたい。辺境の倉番が、記録室への放火に失敗した後、ハーゲン商会から『成功報酬』として支払われた金の、取引銀行の送金記録です」
それは、アリシアがゲオルグを泳がせ、偽の成功報告を商会に送らせることで釣り出した、金の流れそのものだった。
辺境で仕掛けた罠が、王都の銀行記録となって、ここに結実したのだ。
「この送金を遡れば、行き着く先は――セレスティア殿、あなたの実家の代理人だ。さらに、流民たちの拇印が押された、調達委員会の横流しに対する生証言の束も、すべてが同じ一点を指し示している」
アルベルトは、卓上の証拠の山を、静かに見渡した。
「あなたは夫に脅されていた被害者などではない。莫大な裏金を操り、邪魔な前妻を追放し、信託財産を独占しようとした――この一連の事件の、主犯格だ」
「ち、ちがう……私は……っ!」
セレスティアは必死に首を振り、再び大粒の涙を零そうとした。
その時だった。
「十五年前も、あなたはそうして泣いた」
アルベルトの、怒りを極限まで押し殺した低い声が、法廷に響いた。
「十五年前、あなたの実家であるローヴェル家が起こした不正事件。当時十二歳だったあなたは、法廷の真ん中で、今日と同じように泣き崩れ、『すべては使用人が勝手にやったことだ』と偽証した。……その無垢な涙のせいで、何一つ罪のない一人の若者が、罪を着せられた」
アルベルトの拳が、卓上で白く震えていた。
法廷の沈黙の中、ヴィルヘルムが静かに立ち上がった。
その声は、いつもよりさらに低く、抑えられていた。だからこそ、聞く者の背を冷たくさせた。
「……その若者の名は、ルカ・グレーゲン。私の侍従だった」
ヴィルヘルムは、まっすぐにセレスティアを見据えた。
その声は、いつもよりさらに低く、抑えられていた。だからこそ、聞く者の背を冷たくさせた。
「実直で、不器用で、嘘のつけない男だった。あなたの涙を信じた大人たちに着服の罪を着せられ……身の潔白を訴える術もないまま、自ら命を絶った。まだ、十九だった」
冷え切った法廷に、その名がしんと染み渡る。
そして、ヴィルヘルムは背後の従者に目配せをした。
運ばれてきたのは、年季の入った一冊の綴りと、変色した数枚の書類だった。
「だが、私は信じなかった。あの男が、一文たりとも金に手をつける人間ではないと知っていたからだ。……ゆえに、十五年、調べ続けた」
ヴィルヘルムは、まず古い綴りを開いた。
「これは、当時の裁判記録だ。ルカが横領したとされる金額は、三百二十六ゴルト。妙な話だ。一人の侍従が着服するには額が大きく上に半端すぎる。なのに誰も、その経路を問わなかった」
続いて、変色した一枚を掲げる。
「そしてこれが、当時ローヴェル家に出入りしていた商会の、押収済みの取引控えだ。事件のあった同じ月、ローヴェル家へ、出所の説明のつかない金が流れ込んでいる。その額――三百二十六ゴルト。一の位まで、寸分違わずだ」
ざわ、と法廷がどよめいた。
「偶然などではない。ルカが着せられた罪と、同じ金が、同じ時に、あなたの実家の懐に収まっていた。十五年前、誰も辿らなかった金の流れを辿れば、行き着く先は端から決まっていたのだ」
ヴィルヘルムは、最後に一通の証言書を卓に置いた。
「さらに、当時ローヴェル家に仕え、今は隠居している老家令から、署名と拇印つきの証言を得た。『あの金の始末を命じたのは、お嬢様だった』と。……二週間前のことだ」
セレスティアの顔から、完全に色が失せた。
「子どもの涙では、もう何も覆い隠せない。十五年前のあなたの偽証は、こうして紙の上に、すべて残っていた」
ヴィルヘルムは綴りを静かに閉じ、王を代行する法務官たちへと向き直った。
「王家の縁戚たるグランベル辺境伯として、要求する。ローヴェル家の偽証によって罪を着せられた、ルカ・グレーゲンの完全なる名誉回復を。物証はすべて、ここに揃えた。……踏みにじられた者は、決して忘れない。そのことを、ここで証明していただきたい」
法務官たちは、提示された記録を検めると、重々しく頷いた。
書記官が即座に、記録の訂正と名誉回復を書き込む。
十五年間、誰にも晴らされなかった一人の若者の無実が、今、確かに記録の上で取り戻された。
法廷が騒然としたのを上位法務官の木槌の音が落ち着かせ、審議を続行する。
「これより、神殿福祉局からの意見書を代読する」
アルベルトが、最後の止めとばかりに、一枚の羊皮紙を読み上げ始めた。
それは、アリシアが辺境で守り抜いた、エミルとリリィの『聴取要旨』だった。
『宿場に置いていかれた。迎えは来なかった。怖かった』
『やだ。ママのとこ』
子どもたちの、飾らない恐怖と、親に捨てられた絶望の言葉。
それが代読された瞬間、セレスティアの顔から、可憐な被害者の表情が、すうっと抜け落ちた。
涙が、止まった。
俯いた彼女の口元が、笑っているのか歪んでいるのか分からない、奇妙な形に引き攣る。
「……私の、子どもなのに」
低く、別人のような声だった。
「あの子たちは、私の子なのに……!」
セレスティアは突然立ち上がり、髪を振り乱して、アリシアを睨みつけた。
その瞳には、もはや同情を誘う涙など一滴もなく、ただ剥き出しの強欲と憎悪だけが、ギラギラと燃え盛っていた。
「どうして、あんたなんかに奪われなきゃならないのよ! あの子たちは、死んだ夫が残した莫大な信託財産を引き出すための――私のお金になるはずだったのに!!」
狂乱したように叫ぶその声に、法務官たちも、同席していた貴族たちも、冷ややかな、あるいは侮蔑の眼差しを向けた。
弱い女の仮面は、完全に剥がれ落ちた。
これが、彼女の本当の顔だった。金と保身のためなら、実の子すら平気で捨て、利用できなくなれば喚き散らす――浅ましく、底意地の悪い、一人の罪人。
「……静粛に」
上位法務官の冷酷な木槌の音が、セレスティアの叫びを断ち切った。
アリシアは、その様を、ただ静かに、微動だにせず見届けていた。
* * *
一方、その頃。
王都から遠く離れた、冬のグランベル辺境伯邸。
「どうした、エミル。そんなところでぼんやりして」
厨房の入り口で、料理長のベルナルトが心配そうに声をかけた。
エミルはハッとして顔を上げ、手元の芋の皮剥きの手を止めた。
「あ……すみません、ベルナルトさん。少し、考え事を、していて」
「王都の審問が近いから、心配なのか。大丈夫だ、ご当主様とアリシア様がついてる。悪いようにはならねえさ」
ベルナルトは豪快に笑い、エミルの頭を撫でて去っていった。
だが、エミルの胸の内に立ち込めたものは、晴れなかった。
(……僕が、話したから)
エミルは自室へ戻ると、机の前に座り、小さな革表紙の帳面を開いた。
亡き父ジェラルドが遺した、ただ一つの形見。
パラパラとページを捲り、父の几帳面な字を、指でなぞる。
父はいつも、「誠実であれ」と教えてくれた。だから彼は、神殿の大人たちに嘘をつかず、本当のことを話した。
けれど、その本当の言葉が、今、遠い王都で、実の母親を裁く刃になっている。賢い彼には、それが分かっていた。
「……父さん」
エミルは帳面を閉じ、ぎゅっと胸に抱きしめた。
「父さんなら……お母さまのこと、どうしたんだろう」
問いかけても、冷たい部屋には、何の答えも返ってこない。
彼は机の上に真っ白な羊皮紙を置き、ペンを取った。
『先生へ。王都は寒いですか』
そこまで書いて、ペンの先が止まる。
聞きたいことは、たくさんあった。お母さまはどうなるのか。僕のせいで、お母さまはひどい目に遭うのか。
けれど、それを文字にしてしまえば、自分のしたことの重さが、本当に確かなものになってしまう気がして、怖かった。
エミルは震える手でペンを置き、書きかけの羊皮紙をくしゃくしゃに丸めて、部屋の隅のくずかごへ投げ捨てた。
膝を抱え、小さく丸くなる。
隣の部屋からは、何も知らないリリィの、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
いつもなら、すぐに駆けつけて一緒に遊ぶのに。今の彼には、そんな気力すら、湧いてこなかった。
王都で、大人の化けの皮が剥がれ落ちている、その同じ時。
辺境の屋敷の片隅では、真実を語る勇気を出した一人の少年が、自分の言葉の重さに、誰にも言えないまま、ただ膝を抱えていた。




