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第35話 夫だった男の空っぽな謝罪

王都監査院の調査が本格化し、すべての証拠が法務院へ提出された数日後。

かつて王都の社交界で若き秀才と持て囃された男の破滅は、裁判を経るまでも無くあまりにもあっけなく、そして静かに訪れた。


調達委員会の物資横流しを記した詳細な裏帳簿。アリシアの持参金放棄を偽装した、清算証書の鑑定結果。

それらの決定的な証拠は、監査院から直接、病床にあるグレイフェルト家の現当主オーガスト伯爵の元へと届けられた。


長年、屋敷の運営を息子に任せきりにしていたオーガストだったが、事ここに至っては、もはや動かざるを得なかった。

家名に泥を塗り、王都の民を飢えさせ、家を傾けた愚息への、激怒と絶望。

オーガストは即座にレオハルトから当主代行の権限を完全に剥奪し、領地で堅実に働いていた次男ファルクを、次期当主に指名した。


報せが下った日から、王都の屋敷は、目に見えて朽ちていった。


まず、商人たちの出入りが、ぱたりと途絶えた。

かつて「レオハルト様、レオハルト様」と競うように品を運び込んでいた者たちは、今では彼の名を出すことすら避けた。


「あのグレイフェルトの坊ちゃんには、もう関わらん方がいい」

「王都の民を飢えさせて私腹を肥やしていたんだろう。とんだ食わせ者だ」


市場でそう囁かれていることを、レオハルトはもう知る由もない。


長年仕えた使用人たちも、一人、また一人と暇を願い出た。

あれほど彼の機嫌を取っていた家令でさえ、最後の給金を受け取ると、深々と一礼するでもなく、ただ事務的に背を向けて去っていった。


「奥様……いえ、アリシア様がいらした頃は、まだこの家にも筋が通っておりました」


去り際、古参の女中が誰にともなく漏らしたその一言が、すべてだった。

誠実に家を回していた前妻を、自らの手で雪の夜に追い出した男に、もはや忠義を尽くす者など、どこにもいなかった。


かつて夜ごと開かれた華やかな夜会の灯は消え、磨き上げられていた玄関ホールには、誰も払う者のない埃が、薄く積もり始めていた。



爵位の継承権も、莫大な金を動かす権力も、そして彼をチヤホヤと持ち上げていた者たちの愛想笑いも。

そのすべてを失い、監査院の管理下に置かれた施設で、事実上の蟄居状態となったレオハルトが、最後にたった一つだけ懇願したこと。


それは――元妻であるアリシアとの、面会だった。



* * *



「会うかどうかは、君が決めろ」


監査院の冷たい石造りの廊下で、ヴィルヘルムは静かにそう告げた。

その灰色がかった青い瞳には、アリシアの意思を尊重し、どんな選択であれ守り抜くという、静かな覚悟が宿っている。


ここで会わずとも、数日後の合同審問で、彼らは完全に断罪される。もはやレオハルトに、アリシアを脅かす力など、何一つ残されてはいない。

だが、アリシアは迷うことなく、前を見据えた。


「会います」


かつての夫への未練でも、哀れみでもない。


「終わらせるために」


彼はまだ、どこかで甘い幻想にしがみついているはずだ。過去を都合よく描き替え、誰かにすがりつこうとしている。

その愚かな幻想を、根元から断ち切るために。



* * *



監査院の面会室は、窓が小さく、冷たい空気が澱んでいた。

質素な木のテーブルを挟んで、アリシアは静かに腰を下ろした。


やがて、重い扉が開き、一人の男が監査官に伴われて入ってくる。

その姿を見た瞬間、アリシアは、わずかに目を細めた。


「……アリシア」


掠れた、ひどく弱々しい声だった。

そこにいたのは、あの雪の夜、冷たい目で彼女を見下ろしていた、傲慢な当主代行ではなかった。

仕立ての良い服は、今の彼にはひどく緩く、頬はげっそりと痩せこけ、目の下には濃い隈が落ちている。たった数ヶ月で、十も老け込んだように見えた。


レオハルトは力なくテーブルの向かいに座ると、震える両手で顔を覆った。


「すまなかった……私が、すべて間違っていた」


沈黙するアリシアに向かって、男の口から、惨めな謝罪が次々とこぼれ落ちていく。


「君がいなくなって、初めて気づいたんだ。この家を、私を支えてくれていたのは、君だったと。……セレスティアに、騙されていたんだ。彼女の妊娠も嘘だったと、監査院から聞かされた。私は、あの女の嘘に踊らされて、一番大切なものを、失ってしまった……!」


レオハルトは顔を上げ、すがるような、濡れた瞳でアリシアを見つめた。


「やり直そう、アリシア。私にはもう、当主代行の地位もない。だが……君がいれば、きっともう一度やり直せる。君となら、もう一度この手で、家を立て直せるはずだ。頼む、私の元へ、戻ってきてくれ……!」


それは、彼なりの精一杯の愛情で、心の底からの懇願だったのだろう。

だが。


アリシアの心には、さざ波一つ立たなかった。

彼の言葉には、一番大切なものが、すっぽりと欠け落ちていたからだ。


「……レオハルト様」


アリシアの、静かで、氷のように冷たい声が響いた。

そのトーンに、レオハルトはハッとして口をつぐむ。


「あなたが今、心から後悔し、私を必要としていることは、分かりました」


「そうだろう!? なら……!」


「では、伺います」


アリシアは、彼の勢いを断ち切るように、静かに言葉を挟んだ。

そして、インクの染みが抜けきらない自身の指先を、テーブルの上で静かに組む。


「あなたが戻ってきてほしいのは――この、私という人間ですか」


「……当たり前だ。君以外に、誰がいる」


「いいえ」


アリシアは、ゆっくりと首を振った。


「あなたが欲しているのは、溜まりに溜まった帳簿を直す、『手』です」


一拍。


「離れていった取引先に、頭を下げて回る、『口』です」


また、一拍。


「辞めていく使用人たちを、まとめ上げる、『背中』です」


具体物を一つずつ突きつけるように、アリシアは淡々と、事実だけを積み上げていく。

言葉が一つ重なるたびに、レオハルトの顔から、血の気が引いていった。


彼が愛しているのは、アリシアではない。

自分の生活を快適にし、見栄を守り、崩れゆく現実から自分を掬い上げてくれる――その『便利な機能』を、求めているだけなのだ。


「私はもう、あなたの家を回すための道具には、戻りません」


決して、怒鳴りはしない。感情をぶつけもしない。

ただ、絶対的な拒絶の壁を、言葉の煉瓦で、一つ、また一つと積み上げていく。


「ち、違う! 私は、君を……! そもそも、あんなことになったのは、セレスティアが嘘をついていたからで……!」


「セレスティア様の妊娠が嘘だったことは、確かです」


アリシアは、言い訳にすがりつこうとする彼の言葉を、容赦なく斬り捨てた。


「ですが――あなたが私を裏切り、あの方の元へ通っていたことは、嘘ではありません」


「あっ……」


レオハルトの喉から、ヒュッと、情けない音が漏れた。


妊娠が偽りであったとしても、彼がアリシアを裏切ったという事実そのものが、消えるわけではない。

雪の夜に彼女を追い出したのも、横領の濡れ衣を着せたのも、そのすべては、他ならぬ彼自身の『選択』だったのだ。

その責任を誰かに押し付け、被害者の顔をすることなど、決して許しはしない。


「あなたと過ごした五年間、私は家を守るために、持てる力のすべてを尽くしました。そこに、後悔はありません」


アリシアは、静かに立ち上がり、椅子を引いた。


「ですが、私からの言葉は、これが最後です。……さようなら、レオハルト様」


最後に彼へ向けた眼差しは、道端の石を見るような、完全な無関心だった。

五年という歳月も、かつて確かにあったはずの情も、その瞳にはもう、何一つ映してはいなかった。


「待ってくれ……アリシア! 頼む、私を見捨てないでくれ……! アリシアぁっ!!」


テーブルにすがりつき、泣き叫ぶ男の無様な声が、面会室に響き渡る。

だが、アリシアはただの一度も振り返ることなく、その重い扉を開け、部屋を後にした。



* * *



バタン、と。

厚い扉が閉まり、男の泣き叫ぶ声が、くぐもった音へと変わった。


冷たい廊下に出たアリシアが、ふと顔を上げると、壁に背を預けて腕を組んでいたヴィルヘルムが、静かにこちらを見つめていた。


「……終わったか」


「はい。これで、本当に、すべて」


アリシアは、胸の奥底にわずかに残っていた過去の澱が、跡形もなく消えていくのを感じていた。

あの男への恨みすら、もうない。ただ、長く引きずってきた過去の清算が、また一つ終わったという、静かな手応えだけが、そこにあった。

振り返るべきものは、もう、何もない。


「ご当主様。……お待たせいたしました」


アリシアがいつものように頭を下げると、ヴィルヘルムは少しだけ困ったような、それでいてどこか柔らかな表情で、息を吐いた。


「……以前、言ったはずだがな」


「え?」


「仕事の場でなければ、様も、肩書きも、いらないと」


その不器用な指摘に、アリシアは先日の、王宮の廊下でのやり取りを思い出し、思わず目を丸くした。

そして、堪えきれずに、小さく、柔らかく吹き出す。


こんな時でも、彼は変わらない。

嘘がなく、誠実で、少しだけ不器用な――彼女の、新しい居場所の主。


「……ふふっ。申し訳ありません。まだ、慣れていなくて」


アリシアは顔を上げ、今度は偽りのない、心からの微笑みを彼に向けた。


「帰りましょう、ヴィル」


その名で呼ばれた瞬間、ヴィルヘルムはふいと視線を窓の外へ逃がし、ごまかすように小さく咳払いをした。

そして「ああ」と短く頷くと、アリシアの隣に並んで、歩き出す。


厚い扉の向こうからは、すべてを失った男の悲痛な嗚咽が、まだ響き続けていた。

だが、その泣き声が、前を向いて歩き出した彼女の足を止めることは――もう、二度となかった。



* * *



やがて面会の時間が終わり、レオハルトは監査官に引き立てられて、施設の奥へと連れ戻されていった。


その通り道には、奇しくも、横流しの一件で取り調べを受けていた調達委員会の元同僚たちや、かつて彼の夜会に足繁く通っていた貴族の数人が、別件の聴取を待って居合わせていた。


かつて彼に追従し、杯を交わした者たちだ。

だが今、彼らがレオハルトに向けたのは、親愛でも同情でもなかった。


「……あれが、一人で全部かぶってくれるなら好都合だな」

「関わったと思われたくない。目も合わせるな」


聞こえよがしの囁きと、汚れ物でも見るような冷ややかな一瞥。

誰一人、彼に手を差し伸べる者はいなかった。彼が築いたと思っていた人脈も、栄華も、所詮はその地位と金にたかっていただけの、虚ろなものだったのだ。


「お、おい、待て……君たち、私を覚えているだろう、あれほど世話を……っ」


すがるように声をかけるレオハルトから、男たちは一斉に顔を背けた。

まるで、触れれば罪が移るとでもいうように。


レオハルトを慕う者は、最早この世に一人としていなかった。

あれほど愛し合っていたと思っていたセレスティアでさえ。

法廷でそれは証明されることになる。

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