第34話 縁戚の名で道を開く
王都監査院の特別執務室に、辺境からの早馬で届けられた一通の厳重な封書が持ち込まれた。
神殿福祉局の青い封蝋が押されたそれは、辺境伯邸で実施された子どもたちへの『聴取記録』だった。
「辺境へ派遣された福祉官からの報告です。まずは、要旨を」
上級監査官アルベルトが、硬い表情で羊皮紙を開いた。
長机の向かいには、アリシアとヴィルヘルムが静かに腰を下ろしている。
「結論から申し上げます。長男エミル、長女リリィ、両名の証言は一貫しており、母親による保護の放棄と、宿場への置き去りの事実が、子ども自身の言葉で裏付けられました。母親から引き離された際の強い恐怖、そして現在の保護者であるアリシア殿への強い執着が、明確に記録されています」
アルベルトは書類から顔を上げ、静かに息を吐いた。
「これで、セレスティア殿による『保護責任の放棄』と『児童遺棄』の事実は、法的な裏付けを得ました。……アリシア殿。こちらが、子どもたちが語った一問一答を、一言一句もらさず記した詳細な記録です。お読みになりますか」
アルベルトが差し出した分厚い羊皮紙の束を、しかし、アリシアは静かに首を振って拒んだ。
「いいえ。要旨だけで十分です」
「よろしいのですか。念のため、細部まで目を通しておいた方が……」
「これ以上は、読みません」
インクの染みが残るアリシアの指先が、膝の上で固く握りしめられていた。
「あの子たちが、見知らぬ大人たちの前で、どれほど辛い思いをして、あの夜の恐怖を口にしたか。それを、私が安全な場所から、文字を通して覗き見るような真似はしたくありません」
実務者として、あらゆる書類に目を通すことを己に課してきた彼女が、初めて見せた「読まない」という選択だった。
「これは裁判の道具ではありません。あの子たちの心そのものです。証拠としての仕事をしてくれたのなら、大人はただ、その結果だけを厳粛に受け止めればいい」
アリシアの静かで、それでいて揺るがぬ言葉に、アルベルトはハッと息を呑み、差し出していた束をゆっくりと鞄の奥へしまった。
「承知いたしました。この詳細記録は厳重に封印し、合同審問の場では、要旨の代読のみといたします」
* * *
――同時刻。遠く離れた、グランベル辺境伯邸。
王都からやってきた神殿の役人たちが馬車で去り、屋敷に静寂が戻った夜。
エミルは自室のベッドに腰を下ろし、両手で古い革表紙の帳面を、白くなるほど強く握りしめていた。
亡き父ジェラルドが遺した、その小さな『商売覚書』。
それは、彼にとって「正しくあること」のすべてだった。
だから今日、大人たちの問いかけに、彼は父の教え通り、嘘をつかず、ありのままを語った。
冷たい雨の宿場町で、迎えがいつまでも来なかったこと。見捨てられたのだと気づいた、あの瞬間のことを。
(先生……僕が本当のことを話したら、お母さまは、どうなるんですか)
アリシアが王都へ発つ前夜、不安に耐えきれず尋ねた時のことを、エミルは思い返していた。
彼女は、優しい嘘でごまかしたりはしなかった。ただ静かに、『大人が、自分のしたことの責任を、自分で取るだけよ』と答えてくれた。
自分が正直であろうとしたこと。その正しさが、自分を産んだ人を罰する刃になる。
父は、正しくあれと教えた。けれど父は、正しさがこんなにも重いものだとは、教えてくれなかった。
エミルは、握りしめた帳面に額をそっと押し当てた。
大人たちのいない静かな部屋で、彼は誰にも聞こえないよう、息を殺して肩を震わせた。
* * *
翌日。
王宮の奥深く、上位法務官と王の代理人が座する厳粛な広間に、重々しい足音が響いた。
ヴィルヘルムは、背後に控えるアリシアから受け取った分厚い革鞄を開き、中から書類を取り出しては、長机の上に並べていった。
「第一に、亡きジェラルド・モルフォード氏の信託財産に関する契約記録」
ドサリ、と紙の束が置かれる。
「第二に、監査院が押収した医師ギデオンの裏帳簿、ならびに偽造された清算証書の公式鑑定書」
さらに分厚い束が積み重なる。
「そして最後に――王都調達委員会の不正に関わる裏帳簿の断片。辺境へ逃れた流民たちの生証言の束。そして、それらすべてを一枚の図として照らし合わせた、分析書だ」
王宮の役人たちは、目の前にそびえ立つ証拠の山に、思わず息を呑んだ。
魔法も、特別な力も、何一つ使ってはいない。ただ泥臭く足で集められ、実務者の手で精緻に編み上げられた、『事実』の積み重ね。
反論の入り込む隙間など、どこにも残されてはいなかった。
ヴィルヘルムは、鋭い眼光で上位法務官たちを見据え、その重低音を広間に響かせた。
「王家の縁戚として上奏する。これら一連の不正と犯罪に対し、法務院ならびに監査院による、合同本審問の開廷を求める」
圧倒的な物量と、完璧な論理の前に、法務官たちはしばし沈黙し、やがて深く頷いた。
ここに、レオハルトとセレスティアを断罪するための、三機関合同の本審問の開廷が、正式に確定したのだった。
* * *
手続きを終え、冷たい大理石の敷き詰められた王宮の廊下を歩きながら、ヴィルヘルムが短く息を吐いた。
「終わったな。これで、道は開いた。あとは法廷で、事実を並べるだけだ」
「はい。ご尽力いただき、本当にありがとうございます、ご当主様」
アリシアが足を止め、深く一礼する。
共に戦い、自らの権威を惜しみなく盾としてくれた彼には、どれだけ感謝してもし足りなかった。
ヴィルヘルムもまた足を止め、頭を下げる彼女を静かに見下ろした。
そして、しばしの沈黙の後、意を決したように口を開いた。
「……仕事の場でなければ、ヴィルでいい」
「え……?」
アリシアは驚いて顔を上げた。
これまで、どれほど信頼を重ねても、彼女は常に彼を「ご当主様」と呼び、実務という明確な一線を引いてきた。彼もまた、その距離を是としてきたはずだった。
だが今、彼は自らその線を越え、私的な場所へ踏み込むことを、許したのだ。
「……よろしいのですか」
「私生活でまで、堅苦しい肩書きで呼ばれるのは好まん。それに……」
ヴィルヘルムは、わずかに視線を逸らし、耳の端をかすかに赤くして、そっぽを向いたまま言った。
「様も、いらん」
ひどく不器用で、回りくどいその態度に、アリシアは思わず口元を押さえた。
冷徹な辺境伯の、年相応の、人間らしい一面。
「……分かりました。ヴィル」
少しだけ照れくさそうに、けれど確かな響きで彼女がそう呼ぶと、ヴィルヘルムの硬かった表情が、かすかに、だが確かに和らいだ。
「ああ」
短く頷いたその声は、王宮のどんな華やかな調べよりも、優しく聞こえた。
冷たい石造りの廊下で、二人の間の距離だけが、春の陽だまりのように、ほんの少しだけ温かくなる。
その温もりに包まれた二人は、まだ知らなかった。
遠い辺境の屋敷の一室で、一人の少年が、抱えきれない重さに、声を殺して泣いていることを。




