第33話 証拠隠滅の夜と、繋がる糸
王都の冷たい風が、分厚い窓ガラスをガタガタと揺らす夜。
監査院が用意した極秘の滞在室で、アリシアはグリュンベルク商会の裏ルートを通じて辺境から届いた、一通の分厚い報告書を読み進めていた。
差出人は、辺境伯邸の執事ハインツ。
表向きは留守中の屋敷の業務報告だが、その中ほどに、アリシアが王都へ発つ前にハインツへ託したある密命の、その後の顛末が記されていた。
報告書を追うアリシアの指先が、ある一行で止まる。
それは、彼女が出立した数日後、辺境の地下で起きた、愚かで身勝手な裏切りの顛末だった。
* * *
――その夜。グランベル辺境伯邸。
真冬の底冷えが石造りの廊下を這う深夜。
エミルは、喉の渇きを覚えて自室のベッドを抜け出した。
厨房へ向かおうと薄暗い廊下を歩いていた彼は、ふと、地下の備蓄庫へと続く階段の方から、微かな異音を聞きつけた。
ガリッ、ギギッ……。
金属を無理やりこじ開けようとするような、不自然な音。
普通の子どもであれば、幽霊か泥棒かと怯えて自室に逃げ帰っていただろう。
だが、エミルは違った。
(なんだろう……ネズミじゃない。誰かいる?)
彼は息を殺し、壁の影に身を潜めた。
アリシアが王都へ向かう前日、彼女はエミルを抱きしめ、「ここは私の帰る場所だから」と言ってくれた。
ならば、先生が帰ってくるこの家を、誰にも荒らさせるわけにはいかない。
エミルは音を立てないように廊下を引き返すと、真っ直ぐに執事ハインツの私室の扉を叩いた。
「ハインツさん、起きてください。……地下の記録室の方から、変な音がします」
数分後。
ハインツ率いる数名の警備の者たちが、音を殺して地下へと下りていった。
そこで彼らが目にしたのは、ランタンの薄暗い灯りの中、記録室の分厚い扉の鍵をバールで破壊しようとしている倉番ゲオルグの姿だった。
その足元には、火をつけるための油瓶と松明が転がっている。
「……何をしている、ゲオルグ」
ハインツの氷のような声が響き、ゲオルグは弾かれたように振り返った。
「ハ、ハインツさん……これは、その……ネズミですよ! 記録室にネズミが巣を作っていたもんで、火で炙り出してやろうと……!」
「ほう。ネズミを炙り出すのに、二重に管理された鍵をバールで壊す必要があるとは、初めて聞いたな」
ハインツの合図で、警備の者たちが一斉にゲオルグを取り押さえた。
* * *
屋敷の一室。
椅子に縛りつけられたゲオルグの前に、ハインツは一枚の書類を静かに置いた。
それは、アリシアが王都へ発つ前、ハインツに託していったものだった。
ゲオルグが提出していた『偽の備蓄欠損データ』。その矛盾点を、一つ残らず洗い出した一覧表である。
ゲオルグは、目の前の老人を侮るような目で見上げた。こんな老いぼれに何ができると目が語っていた。
だが、彼は気づいていなかった。この物腰の柔らかい老執事が、かつてこの家の荒事を残らず取り仕切ってきた男であることに。声を荒らげたことは一度もない。それでいて、ハインツに追い詰められて口を割らなかった者もまた、一人もいなかった。
「お前が先月提出した、この備蓄の欠損報告だ。小麦五十袋が、輸送中に失われたとある」
「だ、だから何だってんですか。よくあることでしょう」
「よくあること、か」
ハインツは表情を一切変えず、一覧表の一点を指で叩いた。
「この欠損が出たとされる日。東の街道は猛吹雪で二日間、完全に封鎖されていた。門番の記録では、その間、屋敷から馬車は一台も出ていない。動いていない馬車から、五十袋もの小麦が、一体どこへ消えたのだ」
ゲオルグの喉が、ごくりと鳴った。
「さらにこちらだ。根菜の腐敗による廃棄が一割五分。……真冬の、温度管理された乾燥した地下倉でだ。水でも撒かない限り、こんな数字にはならん」
ハインツは一覧表を、ゲオルグの目の前に突きつけた。
「お前は、物の出し入れには長けていても、帳簿の数字には素人だ。天候も、輸送の理屈も、保管の常識も無視したこの改ざんを、お前一人で考えついたとは到底思えん。……誰に、項目の弄り方を指南された」
「お、俺は何も……っ」
なおも口をつぐもうとするゲオルグに、ハインツはわずかに身を屈め、声を落とした。
その声は、相変わらず穏やかだった。だからこそ、ゲオルグの背を冷たいものが伝った。
「いいか、よく聞け。今、お前は記録室に火を放とうとした、ただの放火犯だ。このまま黙っていれば、お前は何もかも一人で背負って、地下牢で朽ちることになる」
「……っ」
「そして、お前を使った連中は、知らぬ存ぜぬを決め込む。証拠の記録が燃えなかった今、奴らにとってお前は、口を塞ぎたいだけの邪魔な駒だ。お前は、とっくに切り捨てられているのだよ」
捨て駒。
その一言が、ゲオルグの保身の本能を的確に抉った。
商会の連中の、自分を見下したような薄笑いが脳裏をよぎる。
うまくいけば報酬を弾むと言われ、いいように使われた。だが、しくじった自分を、あいつらが庇うはずがない。
「……っ、く、くそっ! ……ハーゲン商会だ。ハーゲン商会の連中に、金をもらった……」
ゲオルグは、ついに観念したように吐き出した。
「あの女……家政婦頭が王都へ行ってる隙に、地下の記録を全部燃やせと。そうすりゃ残りの報酬を払うって……俺は、言われた通りにやっただけだ!」
「金の出所は」
「し、知らねえ! 本当だ! 商会の旦那が、金の出どころだけは死んでも口にするなって、固く口止めしてやがった……! 俺はただの使い走りだ、そんな上のことなんざ、知らされちゃいねえ!」
その必死な形相に、嘘はなかった。
ハインツは静かに身を起こした。
ゲオルグは、しょせん末端の駒に過ぎない。
彼が知っているのは「ハーゲン商会から金をもらった」という事実だけ。その金がどこの誰から流れてきたのかまでは、決して知らされていない。
利口な黒幕は、自分と末端の間に、必ず幾重もの壁を挟むものだ。
ここでゲオルグを断罪して終われば、ハーゲン商会はトカゲの尻尾切りで逃げ延び、その背後にいる真の黒幕には、指一本触れられない。
——だからこそ、アリシア様は彼を「泳がせろ」と仰ったのだ。
ハインツは、アリシアから託された密命の、その本当の意味を噛みしめた。
* * *
報告書のその先に、ハインツは罠の仕掛けを記していた。
ハインツは、自白したゲオルグに減刑をちらつかせ、囮として利用することにしたのだ。
ゲオルグの口から、ハーゲン商会へ偽の報告を送らせる。
『証拠の記録は、すべて灰になった。工作は成功した』と。
念のために偽の新聞記事を作成するハインツの周到さがあった。
商会はそれを信じ込み、ゲオルグへ約束した『残りの報酬』を支払うために動くだろう。
そして、しくじりを恐れた商会の主は、必ず雇い主へと工作成功の報告を上げ、辺境で動いた費用の精算を求めるはずだ。
金が、動く。
凍りついていた金の流れが、報酬の支払いという形で、再び水面へと顔を出す。
『商会が報酬を動かせば、その金の出所を辿れる見込みです。つきましては、王都にてアルベルト殿が、ハーゲン商会の取引銀行を張ることができるよう、お取り計らいを』
報告書をそう締めくくり、ハインツの筆は終わっていた。
アリシアは、そっと報告書を閉じ、長い息を吐いた。
「……見事だわ、ハインツ様」
辺境で、ハインツがゲオルグという糸を手繰り寄せ、囮として水面に垂らす。
そして王都で、アルベルトがその糸の先に食いつく魚を待ち構える。
末端の倉番ゲオルグ。
彼を買収した、地元のハーゲン商会。
そして、商会へ資金を流した、王都の何者か。
末端から中間までは、もう繋がった。
あとは、商会が動かす金の流れさえ押さえれば、すべての糸の根元——黒幕の手元へと辿り着く。
(私が泳がせたのは、待つためではない。釣るためだった)
あの夜、ゲオルグの稚拙な改ざんを見破った時から、アリシアはこの絵図を描いていた。
ただ捕らえて満足するのではなく、敵自身に動いてもらい、その動きの中から、隠された金の流れをあぶり出す。
机の上には、暗号物流から復号した調達委員会の不正の分析書と、流民たちの拇印が押された生証言の束が並んでいる。
そこへ、アルベルトが押さえるはずの『送金記録』が加われば。
王都の不正と、辺境の裏切りは、一本の太い糸で完全に繋がる。
かつて、彼女はわけも分からぬまま、偽造書類によって奈落へと突き落とされた。
だが今、彼女を葬ろうとした罠は、彼女が辺境に残した者たちの手で、静かに、しかし確実に逆へと手繰られている。
「待っていていさない、セレスティア」
アリシアは、自分を信じて辺境で待つ、エミルとリリィの顔を思い浮かべた。
あの子たちが安心して笑える場所を、二度と誰にも脅かさせはしない。
明日はついに、王都の三機関が集う合同審問が開廷する。
辺境で垂らした糸の先の魚が、王都の水面に顔を出すのは——もう、間もなくだ。
冷たい王都の夜の中、アリシアの瞳には、かつてないほど鋭く、そして澄み切った決意の炎が静かに燃え上がっていた。




