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第32話 数字は嘘をつかない

王都監査院の奥深くにある、窓のない石造りの特別執務室。

外部の音が一切遮断されたその冷たい空間で、長机の上に三つの異なる「記録」が並べられようとしていた。


「手筈通り、昨夜のうちに医師ギデオンの診療所へ踏み込みました。これが、押収した裏帳簿の原本です」


上級監査官アルベルト・カイルが、分厚い革表紙の帳簿を机の中央に置いた。

対面に座るアリシアと、その斜め後ろに控えるヴィルヘルムが、静かに視線を落とす。


「診療記録と薬種問屋の納品書を突き合わせた結果、セレスティア・モルフォード殿の『妊娠』、および先日の『流産』は、完全に偽装と確定しました。処方は高価な美容薬と睡眠導入剤のみ。妊婦に必要な生薬は一滴も出ていません。代わりに、ギデオンの口座にはグレイフェルト家からの口止め料が振り込まれていました」


つまり、あの雪の夜、レオハルトがアリシアを追い出す最大の口実とした『跡継ぎ』は、最初から存在すらしていなかったのだ。


「ただし」

アルベルトは一枚の宣誓供述書を提示した。

「古参使用人たちの証言により、レオハルト卿とセレスティア殿が、あなたが屋敷にいた頃から不貞関係にあったことだけは、事実と裏付けられました」


部屋の空気が、微かに張り詰める。

ヴィルヘルムが、隣に座るアリシアの横顔を無言で気遣った。


だが、アリシアの表情に取り乱す色はなかった。


「……そうですか。妊娠が嘘でも、彼が私を裏切った事実だけは、嘘ではないのですね」


それは悲嘆ではなく、冷徹な事実の受け入れだった。

彼が妻を捨てた大義名分は幻だったが、裏切りそのものが消えるわけではない。その一つの真実が、アリシアから過去への未練を完全に断ち切らせていた。



* * *



「では、本丸だ」


アルベルトが表情を引き締め、巨大な帳簿を広げた。

王都調達委員会から提出された、冬季物資の公式な配分帳簿の写しである。


「この帳簿、計算上は一シリングの狂いもなく完璧に辻褄が合っています。我々監査院の調査官総出でも、書類からは不正を立証できずにいました」


「ええ。書類の数字『だけ』を見れば、完璧でしょうね」


アリシアは革鞄から、端の擦り切れた粗末な紙束を取り出した。

一枚一枚に、赤黒いインクで不器用な拇印が押されている。辺境の救貧食堂で、彼女が自らの足で聞き取り続けた流民たちの生証言だ。


「アルベルト様。この公式帳簿と、こちらの証言を突き合わせてください」


アリシアは十一月七日のページを開いた。


「公式帳簿には、東部カルム村へ『小麦三十二袋、薪五十束』が配給完了とあります。ですが、その村から逃れてきた者の証言はこうです。『書類では配られたことになっているが、現物は一粒も届かない。隣の婆さんは凍えて死んだ』と」


アルベルトの目が、驚愕に見開かれた。


「次。ルピア村。帳簿では規定量の七割が到着。証言では、届いたのは空箱のみ、現物はゼロ」


アリシアは次々と、美しい机上の数字に、泥臭い生身の声をぶつけていく。


「計算式が完璧でも、現物が存在しないのです。彼らは『自然損耗』や『予備費への繰り入れ』を悪用し、書類上だけで配給を完了させた。浮いた莫大な物資を悪徳業者へ横流しし、裏金に変えているのです」


無味乾燥な数字の羅列が、突然、血の通った『死の記録』へと変貌した。

監査院が探しても見つからなかった矛盾が、辺境から運ばれた人々の声によって、完全に立体的な不正として立証された瞬間だった。


「……この完璧な数字の壁を、我々は越えられなかった。アリシア殿、この横流しの構造を見抜けるのは、この様式を設計したあなただけだ」


賞賛を受けても、アリシアの顔に誇らしげな色はなかった。

彼女は、拇印の押された粗末な紙を、慈しむように撫でた。


「私は、この帳簿の形式を、屋敷の者たちを守るために作りました。限られた予算で無駄を省き、一人でも多くの者が温かい食事を取れるようにと。……それが、人を飢えさせるために使われている」


アリシアは顔を上げ、二人を力強く見据えた。


「私が作った道具は、私の手で取り戻します」



* * *



そして、最後の確認が始まった。

執務室に、法務院が誇る熟練の筆跡鑑定士が招き入れられる。


テーブルの中央に置かれたのは、あの猛吹雪の夜、レオハルトがアリシアの顔に叩きつけた『持参金放棄および横領に関する清算証書』。

そしてその両脇に、公証院とヴェルディーニ家から取り寄せた、五年前の『本物の控え』が並べられた。


「ようやく、この三枚を一つの卓に並べられたか」


アルベルトが、感慨を込めて低く呟いた。


その言葉に、アリシアは静かに目を伏せた。

追放されたあの夜、彼女はこの証書が偽物だと一目で見抜いていた。だが、それを証明する術は何一つなかった。

偽造を暴くには、比較対象となる公証院の正本が要る。だがそれを取り寄せられるのは、相応の身分と権限を持つ者だけだ。無一文で雪道に放り出された元妻が「これは偽造だ」と叫んだところで、誰も正本を開いてはくれない。握り潰されて終わりだった。


辺境伯ヴィルヘルムが上奏で道を開き、監査院のアルベルトが正式な再審査の場を整えて、初めて——この三枚が同じ卓の上に並んだのだ。

ここまで来るのに、半年がかかった。


鑑定士は片目にルーペをはめ込み、厳かに宣告する。


「まず紙質。本物の控えには公的な透かしが入っていますが、提出された証書にはそれがありません。次に封蝋。一度固まったものを熱で溶かし直した劣化の痕跡が明確です。インクの酸化具合も、書かれてから数ヶ月しか経っていないことを示している。そして何より——筆跡です」


アリシアが、インクの染みの残る指先で、本物の控えの署名を示した。


「私はこの五年間、家政を回すため無数の文字を書き続けました。早く正確に書くため、私の署名には特有の『崩し』の癖がついています」


「その通り」

鑑定士は深く頷いた。

「本物には実務者特有の滑らかな流れがある。だが偽の証書は、過去の文字をただ綺麗に書き写そうとした『絵』にすぎない。この崩しの欠如こそ、何よりの偽造の証拠です」


ペンの音だけが響き、鑑定士が正式な書類にサインを書き込む。


「結論。グレイフェルト家から提出された清算証書は、捏造された『偽造文書』と認定します。よって、アリシア・ヴェルディーニ殿に対する横領の嫌疑は、法的根拠を完全に失いました」


その言葉が落ちた瞬間。

アリシアの肩から、数ヶ月間のしかかっていた冷たい鎖が、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。


「終わったな」


隣で見守っていたヴィルヘルムが、低く落ち着いた声で言った。


「はい、ご当主様。……私一人では、決してここまで辿り着けませんでした」


それは謙遜ではなく、紛れもない事実だった。

証拠を見抜く目は、彼女一人のものだ。だが、その証拠を裁きの卓に載せるための道は、辺境伯の地位と監査官の執念がなければ、決して開かれなかった。


偽装妊娠の証拠、調達委員会の横流しのカラクリ、そして横領冤罪を晴らす偽造鑑定。

すべての論理が、今ここに完璧な刃となって完成した。


アリシアは、『アリシア・ヴェルディーニ』という署名が記された本物の書類を、そっと指先で撫でた。


猛吹雪の夜、理不尽な嘘によって奪われ、踏みにじられた彼女の名前。

それが今、揺るぎない事実と記録という力によって、一枚の紙の上で、確かに彼女の手元へと戻ってきた。


「あとは、これを正しい場所へ叩きつけるだけです」

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